36 笑った顔
(ハルト視点)
「父様、これ、絶対リリーが作ったものですよ!」
ヒューが目を輝かせながら言う。
そして皿の上のじゃがいもをフォークで刺すと、またひとつ口に運んだ。
「うん、やっぱり!」
今宵のメインディッシュであるステーキと、その横に添えられたいくつかの野菜。
その中のただバターで炒めただけのじゃがいもを、ヒューは大好物であるかのようにじっくりと味わっている。
「ぼく、気になって昼間にこっそり厨房をのぞいてみたんです。
そしたらリリー、じゃがいもの皮をむいていましたから!」
嬉しそうに言うヒューにつられて、俺もひとつ口へ運ぶ。
「……美味いな」
「でしょう?」
ヒューが、自慢げにこちらを見つめてくるのがなんとも憎たらしい。
ただのじゃがいものはずだ。
素朴な、特に目立つこともない一品。
それなのに飲み込んだあと、ふっと肩の力が抜けた。
……またか。
そう思ったが、もう鑑定する気にはなれなかった。
「……ブロッコリーは食べないのか?」
俺はあえてヒューに尋ねる。
じゃがいもの隣に添えられたブロッコリー。
それはヒューの一番嫌いな食べ物だ。だから本当に食べるとは思っていない。
ただ言ってみただけ。それなのに――
「……食べますよ!」
ヒューは意を決したように、フォークを刺した。
それを顔の前まで持ってきて、覚悟を決めるように見つめた。
やがて、パクッ――
口に入れてすぐ、ヒューの表情が変わった。
目を見開き、驚いたような顔。
そして、
「……おいしい」
ぽそりとひと言、そうこぼした。
その後は真顔で、ただゆっくりと咀嚼している。
驚いた。
まさか本当に食べるとは思わなかった。
こうしてヒューも、少しずつ成長していくのか……
感慨深くそう思っていると、つい口元が緩んでしまった。
そんな俺を見て、今度はヒューが笑う。
「父様……いえ、叔父上はぜんぜん父上に似てないなってずっと思っていました」
そう切り出したヒューは、じっと俺を見つめたまま。
昨年兄夫婦が亡くなって以来、ヒューが両親の話をするのはこれが初めてのことだった。
「リリーのくっきーを食べた夜、夢をみたんです。父上と母上とぼく、三人で食事をしていました」
俺は黙って耳を傾ける。
「母上のお膝に乗って、正面には父上が座っていて……
ぼくがブロッコリーを食べたら、母上が頭をなでてくれて、父上が『えらいぞ』ってほめてくれました」
相変わらず大人びた口調。
まだ四歳だというのに、ヒューはこんなにもしっかりしている。
さすが兄上と義姉上の子だ。
「……とても幸せな、ほんとうに幸せな夢でした」
ヒューはそう言って、ブロッコリーをもう一つ口へ運んだ。
そうか……
あのくっきーという菓子を食べた夜に……
彼女が焼いた、幸福付与の菓子。
ヒューはそのおかげで兄上たちに会えたのか……夢の中だけでも。
そう思うと、俺まで幸せな気持ちになった。
「リリーが来てから、叔父上はよく笑ってくれますね」
「……そうか?」
「はい。だから気づいたんです。
叔父上の笑ったお顔は、父上にとてもよく似ています」
俺が……兄上に似ている……?
あの、いつも人に囲まれていた兄上に?
「……そう、なのか?」
「はい」
そうか……
それから俺は黙って食事を続けた。
ヒューも、そこからはもう何も言わなかった。
◇◆◇
食後、執務室に戻って三時間ほど仕事をした。
公爵位を継いでから、苦手だった書類仕事にも向き合わざるを得なくなった。
「兄上なら……」
つい口をついて出た言葉をぐっと飲み込む。
剣ばかり振っていた俺とは違い、幼い頃からなんだって完璧にこなしていた兄上。
兄上ならこんな仕事も、きっと要領よくさっさと片づけてしまわれただろう。
本当に、俺にはつくづく向いていない。
でも、やるしかない。
兄上はもういらっしゃらないのだから……
集中できなくなり立ち上がる。
今日はもう寝てしまおうと、シャツを脱ぎかけてふと手を止めた。
昨夜、かなり遅くまで厨房の明かりがついていたと夜勤の者から報告を受けている。
「彼女もまだ……」
そう思うと、不思議と気持ちが軽くなった。
そのまま部屋を出て、一階の厨房へと向かう。
そこには……
一心不乱にパンと向き合う彼女の姿があった。
「……まだやるのか」
思わず声をかけてしまった。
陰からそっと見て、すぐに帰ろうと思っていたのに、なぜだろう……
彼女はハッと顔を上げると慌てて身なりを整えた。
「昨日も……遅かったのだろう?」
そう尋ねると、彼女は少し気まずそうに笑った。
「……はい。パンを作れるのが嬉しくて。でも全然うまくいかないんです……」
眉根を寄せて残念そうに言うその顔が、ひどく幼く見えた。
そして――なぜか、目が離せなかった。
作業台の端には、いくつもの丸いパンが並んでいる。
形も大きさもまばらで、彼女はそれらを失敗作だと言う。
俺はその中のひとつを手に取った。
そしてひとかけらちぎって、口に運ぶ。
たしかに上等なパンとは言えないのかもしれない。
少し固いが、けっこう美味い。
それなのに――
「……腹が減ってるからな」
彼女の表情が眩しくて、つい、誤魔化すように答えてしまった。
失敗作、か。
それを何度もちぎって口に運ぶうち、不思議と胸の奥が軽くなっていく。
兄上なら、もっと早くやれただろう。
兄上なら、皆を上手くまとめられただろう。
兄上なら――
そう思うたび、いつも胸の内に沈んでいった重いものが、今夜はなぜか解けていくような気がした。
夕食の席で、ヒューは言った。
俺の笑った顔が兄上に似ていると。
ちっとも似ていない。
俺自身、ずっとそう思っていたはずなのに、なぜかもう否定する言葉は出てこなかった。
「次はもっと、ちゃんと美味しいものを作ります」
彼女の声が、夜の厨房にやわらかく響いた。
厨房の灯り。
粉にまみれた彼女。
失敗作だという、ふぞろいのパン。
それらすべてが、なぜか今夜の俺にはひどく温かかった。




