35 昨日より少しだけ
昨日、私は深夜まで厨房に残った。
そして今朝も、誰より早く製パンエリアに入った。
昨日から、私の頭の中はずっとパンのことでいっぱいだ。
いっぱい、なんだけど……
あー、やっぱりか。
酸っぱいわ。
しかも生地、ベタつきすぎ……
異世界でのパン作り……そう簡単にいくわけがなかった。
でも仕方ないよね?
そもそもパン専用のイースト菌がないんだもの。
ここで使っているパン種はね、天然酵母みたいなものらしい。
マルクさんが大事に育てているそのパン種は、いわゆるサワー種だと思う。
乳酸菌とか、そういうのが頑張ってるやつ。
だから酸っぱい。
「ハハハ! また失敗か? だからその白い小麦粉でふわふわのパンなんざ無理なんだって」
マルクさんが大声で言う。
その声は、そのまま厨房に響き渡る。
やめてー。
たしかに……ロールケーキやクッキーがうまく焼けたからって調子に乗ってました。
でも――
「うちの国では普通に小麦粉で作ってるんです!」
「はぁ? そりゃ小麦粉って名の別もんじゃねぇの? ここじゃあ小麦粉は、病人の粥とか、スープのとろみ付けに使うもんなんだよ」
ぐぬぬ……
失敗してる手前、返す言葉もない。
どうやらこの世界、パンはライ麦粉で作るものらしい。
だから黒パンなんだよね。
この白い小麦粉は、ショートブレッドみたいなお菓子にするか、お粥みたいに煮て食べるくらいなんだとか……
「パン職人辞めて、デザート専門になるか?」
「いやですって」
「じゃあ、せいぜいがんばりな」
マルクさんはそう言って笑うけど、その顔は意地悪というより、どこか楽しそうだった。
その後も。
何度も粉の配合を変え、水の量を変え、こね方を変えてみる。
けれど、思うようにはいかない。
膨らまない。
酸っぱい。
重い。
表面だけ焼けて、中が妙にねっとりする。
……違う。
これじゃない。
私が作りたいのは、もっとふわっとしていて、ちぎると湯気が立って、口に入れるとほんのり甘いパンだ。
昨日早速分けてもらったパン種でなんども試したけど、やっぱりこのままじゃ使えない。
「うーん……」
もちろん、すでにパン種の試作も始めてるよ?
パン種をライ麦粉じゃなくて、小麦粉で育てなきゃだし……
そもそも酸味とかいらないもんなぁ……
気がつけば、また厨房には誰もいなくなっていた。
マルクさんには、もう上がれと言われた。
ティムにも、明日にしたらどうですかと心配されたけど……あれからどれくらい経ったんだろう。
でも、あと少しだけ。
あと一回だけ試したい。
そう思って、粉の入った袋に手を伸ばした時だった。
「……まだやるのか」
低い声がして、私はびくりと肩を跳ねさせた。
振り返ると、厨房の入口に公爵様が立っていた。
襟元を緩めた姿で、いつものきっちりした公爵様とは少しだけ違って見える。
「公爵様?」
「……明かりがついていたからな」
そう言いながら、公爵様は厨房の中へ入ってくる。
私は慌てて、粉まみれの手をエプロンで拭いた。
「すみません。もう少しだけ、試したくて」
「昨日も……遅かったのだろう?」
あ……そっか。
公爵様には報告が行くよね、そりゃ。
「……はい。パンを作れるのが嬉しくて。でも、全然うまくいかないんです……」
言ってから、台の上に置かれた失敗作を見る。
丸くはある。
焼けてはいる。
けれど、どう見ても私の目指すパンではない。
公爵様もそれらを見た。
「……これは?」
「パン、になる予定だったものです」
「……予定だったもの」
公爵様が、少しだけ眉を動かした。
笑われるかな、と思った。
でも公爵様は笑わず、台の上のそれらをじっと見つめている。
「食べられるのか?」
「一応……食べられなくは、ないです」
「食べ物への評価として、それはかなり低いな」
「ですね……」
って返したら、公爵様は中から一つを手に取られた。
あ、それけっこう固いやつ。
っていう間に、公爵様はひとかけらちぎって、口に運ばれた。
「……悪くない」
「本当ですか!?」
「ああ、腹が減ってるからな」
って、公爵様……。
ふふ。
なにそれー。
でも、そう言いながらも公爵様は、もう一口それを食べてくださった。
固くて、まだちょっと酸っぱい。
昨日よりマシだけど、私の作りたかったパンとは、全然違うもの。
それなのに、公爵様は黙って咀嚼している。
「……お仕事、お忙しいんですか?」
「少しな」
少し、なんて言う顔じゃない。
目元にはうっすら疲れが出てるし、普段よりもずっとくたびれて見えた。
「……お疲れですね」
眉間を揉みほぐす姿を見て思わずそう伝えると、
「いや」
と即否定された。
「今の今まで、たしかに疲れていたんだがな」
公爵様はそう言うと、失敗作のパンをまたひとかけら口へ運んだ。
「君の作るものは……なんていうか、その、すごいな」
「へ?」
その失敗作にも、もしかしてなにか効果が??
私が呆けたまま公爵様を見つめていると、
「これにもおそらく、回復魔法がかかっている」
と、教えてくださった。
「えぇっ!? 失敗作なのに?」
「ああ、失敗作なのにな」
そう言って、公爵様は口元を緩めた。
ちょっと、急に微笑むのやめてー。
そしてまた、パンをちぎっては口に放り込んでいる。
なんか公爵様、お疲れモードだからか少し警戒がゆるいのかも。
話しやすいってわけじゃないけど、氷の公爵様ってほどじゃないもん。
瞳の色はアイスブルーだけど、今は柔らかな印象さえある。不思議。
「次はもっと、ちゃんと美味しいものを作ります」
思わずそう言うと、公爵様がこちらを見た。
「次?」
「はい。ふわふわで、ほんのり甘くて。食べたら、公爵様がもっと元気になるようなパンです」
「……そうか」
公爵様はそう言うと、手の中の失敗作を全部食べ切ってしまった。
その横顔を見ながら、私はもう一度、台の上の粉へ目を向ける。
まだ、全然うまくいかない。
この世界の小麦粉も、パン種も、火加減も、わからないことだらけだ。
でも。
ヒューだけでなく、公爵様にもちゃんと美味しいって思ってもらえるパンを焼きたいな。
食べたら、ちょっと肩の力が抜けるような。
疲れていても、もう一口食べたいなって思えるような……そんなパンを。
そう思ったら、不思議ともう一度、頑張れる気がした。




