32 ここに居たい
「ダメーー!!」
泣きながら飛び込んできたヒューを、脇に控えていた騎士がすかさず抱き留める。
「リリーはぼくと一緒に住むの!!」
騎士の腕の中で叫ぶうち、ヒューの瞳からは大粒の涙がポロポロこぼれ落ちた。
「ヒュー、下がりなさい」
公爵様が叱る、けど。
「いやだ! リリー、皇宮なんか行っちゃヤダ!!」
私を見て必死に叫ぶヒュー。
「ゲラルド、頼む」
「わかりました」
ゲラルド先生が駆け寄ってくるので、私も慌てて立ち上がる。
目の前のジン君を避けてヒューの前に駆け寄った。
それからしゃがみこんで、騎士の腕の中で泣いているヒューをそっと抱き上げる。
「リリー?」
濡れた瞳で私を見上げるヒュー。
その小さな背中をトントンすると、ヒューは私の首に手を回して泣き出した。
「うぅ……行っちゃ、ヤダよ。ぼく、リリーが大好きなんだ」
私の肩口に顔をうずめたヒューが、泣きながら言った。
「うん、私もヒューが大好きだよ」
そう返すと、ヒューは甘えるように顔をこすりつけた。
ヒューを抱いたまま、くるりと向きを変えてジン君を見る。
ソファの前に立ったままのジン君。
その顔は彫刻みたいで、何を考えているのかまるでわからなかった。
「ジン君、ひとつ聞いてもいいかな?」
「なんだ?」
「もし皇宮に住んだら私、働ける?」
この質問をすると、ジン君の顔が少しだけ緩んだ気がした。
「いや、無理だな」
だろうな、と私も思った。
だって、今のジン君は皇太子殿下なんだよ?
皇宮というのは、要するにお城なんでしょう?
私がジン君のお客様としてそこに行った場合、きっと贅沢という名の退屈な暮らしをさせられるに違いない。
他の人がどうか知らないけど、私はそんなのイヤ。
そこで今度は、ヒューと私のそばに立っている公爵様を見上げた。
「公爵様」
「……なんでしょうか」
うそ? 敬語!?
「あの、普通に話してください。前みたいに」
私がジン君と親しそうに話すから、公爵様困ってるんだ。
なんか、ごめんなさい。
でも私、庶民なので。
「先ほどもお伝えしようとしたんですが、実は私、もう仕事先を決めてあるんです」
「――!?」
公爵様は驚いた顔をして、ゲラルド先生を見た。
先生は顔を横に振って、たぶん“知らない”って言ってるんだよね?
「ここを一週間で出ていくという約束でしたから、実はティムに紹介してもらったんです」
「いや、俺は……え、ティムから?」
あれ、なんか公爵様、すごい動揺してる?
「はい。ティムのお兄さん夫婦が宿屋をやってるそうで、そこに住み込みでいいって」
私がそう伝えると、今まで顔を埋めていたヒューが不安げに顔を起こした。
「……リリー?」
ヒューの背中に手を添えながら、私は公爵様にお願いする。
「でも、もし許していただけるなら……このままこちらに置いていただけませんか?」
私の言葉に、皆が静まり返った。
「……その、俺は」
公爵様が言葉に詰まる。
ありゃ、やっぱり厚かましかったんだろうか。
たしかにティムの提案は本当に助かったし、有難かった。
けど、できるなら私もここに居たいなって……
ほら、フロイライン?
あの人たちのことも怖いし……
そして何より、ヒューと離れがたいってのはある。かなり。
「……」
公爵様、まだ何か考え込んでる。
彼の薄氷色の瞳が時々私を見てるから、なにか言おうとしてるんだと思う。
公爵様ってなんか、話すの得意じゃなさそうだもんね。
辛抱強く待ってると、
「……す、すまない。好きなだけ、居てくれて構わない。本当はこちらから言うべきだった」
すごく申し訳なさそうに公爵様が言った。
そこへ、
「ハルト」
ジン君が公爵様に声を掛ける。
「はい」
「お前、わかってるよな?」
なにが?
また二人だけの会話が始まってる。
「はい、もちろんです」
「りりのこと、俺だと思って守れよ」
「ちょ、ジン君!?」
皇太子であるジン君と一緒にしないで。
あと、命令やめてー。
「命を賭して守ります」
「いや、それはやめて!」
すかさず口を挟んでしまったけど、
「……守ります」
って、譲る気はないらしい。
まぁ、公爵様も変なこと言えないよね。ジン君の前だしね……
「じゃあ、リリーはここにいてくれるの?」
「うん。公爵様がいいって言ってくれたからね」
笑ってそう答えたら、ヒューが両手を挙げて「やったぁー!!」と叫んだ。
その途端――
ヒューの重さに引っ張られ、バランスを崩す。
「うわっ」
傾いた身体を、目の前の公爵様がヒューごと抱き留めてくださった。
わぁ、待って。
ちょっと恥ずかしいな、これは……
とりあえずヒューを下ろしてお礼を言う。
ちゃんと目を見て、ね。
「あ、ありがとうございます」
すかさず公爵様から顔を背けると、なんか企んでそうなジン君と目が合った。
「なあ、りり」
「……なあに?」
変なことじゃないよね?
「お前、結婚してる?」
「は? んなわけないし」
私は左手を上げる。
ひらひらして、薬指に指輪がないことを見せた。
「そっか。じゃ、子供置いてきたとかじゃなくて、よかったな」
あー、確かに……
もし私にヒューみたいな子供がいたら、いきなり異世界に召喚されて離れ離れなんて……
うん。とても耐えられなかったと思う。
ヒューの頭を撫でながら、そんな考えに浸ってると、
「彼氏は?」
「えっ? いないけど」
「好きなやつは?」
「……いませんけど」
なんか、やだ、ジン君。
ニヤけながら聞くのやめてもらえませんか……
「不幸中の幸いか」
とか言って、ジン君は笑った。
それから公爵様に向けて言う。
「ハルト、りりを頼むな」
「はい」
そう言ってジン君は私の前まで来ると私の頭をさらりと撫でた。
続いてヒューの頭に手を乗せる。
「公子、りりのことを頼むぞ」
「はい!」
ジン君は、ヒューの元気な返事に満足そうに頷いた。
「じゃあまたな、りり」
「うん、またね」
それからジン君は二人の騎士を引き連れて部屋を出て行く。
公爵様も後に続こうとして、一瞬だけこちらを振り返った。
ん??
何か言いたそうに見えたけど、結局何も言わずに部屋を出て行っちゃった。
部屋には私とヒュー、そしてゲラルド先生が残ってる。
ふぅ……。
思わず大きく溜め息をついたら、
バタン!
って、急にドアが開けられた。
慌てて戻ってきた様子のジン君が、なんかすっごい真剣な顔をしてる。
な、なに? なんなの??
なんか大事な――??
「クロワッサン……」
「はい!?」
「クロワッサン、作ってくれ」
ハハっ、もう、なによ……それ。
びっくりさせないでよ……
「そんなこと?」
「そんなこと、じゃない。大事なことだ!」
大事なことかぁ……
そうだよね。ジン君、クロワッサン大好物だったもんね……
「承知しました。できたら献上します!」
私は敬礼してジン君に伝えた。
「あ、他にもりりが作ったもの、できたら全部届けて」
頼むな。
と、ゲラルド先生に指示を出して、ジン君は慌ただしく去っていった。
少しの沈黙のあと、
「くろわっさん?」
ヒューが私を見上げて聞く。
「うん。パンだよ?」
「僕も食べてみたい!!」
「ふふふ。じゃあ、明日から頑張ってみよっかな」
とは言ったものの――
私はまだ知らない。
この世界のパン作りが、そんなに簡単じゃないってことを。




