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第198話 『羽田聖戦編(22) 偽りの聖域と、焦燥の重鎮』

 昭和54年、冬。

 運命の『運輸審議会』開始まで、あと十分。

 霞が関、運輸省・合同庁舎の三階にある大議室。高い天井から吊るされたシャンデリアは、どこか時代がかった黄ばんだ光を放ち、磨き上げられた長机には、各委員の氏名が記された重厚な名札が並んでいた。

 室内に漂うのは、昭和の官僚機構が誇る、冷徹で事務的な緊張感――。だが、その中核にあるはずの「力」のバランスは、今日、明らかに崩れていた。

「……社長、見てください。大蔵省の席は、まだ空いたままです」

 モノレールの幹部が、震える指先で最前列の一角を指差した。

 そこには、国家予算の執行権を握る絶対的な存在、大蔵省主計局の委員が座るべき三つの指定席があった。しかし、そこには主の姿はなく、ただ冷たい冬の陽光が、無機質な合皮の椅子を照らしているだけだった。

「……やはり、特捜部は彼らを逃さなかったか」

 モノレール社長は、深く、長く息を吐き出した。その吐息には、これまでの数ヶ月、大蔵省という「予算の死神」に怯え続けてきた男の、魂からの解放感が混じっていた。

 彼らにとって、この空席こそが「正義の勝利」の象徴だった。政治の裏工作も、カネによる恫喝も届かない、純粋な技術論の聖域。それが今、この部屋に完成しようとしていた。

 隣に座る整備班長は、何度も眼鏡を拭き直していた。その手には、深夜の車庫で日立製作所の技術者たちと一文字の狂いもなく書き上げた「羽田待避線増設計画」の最終稿が握られている。

 既存の軌道にわずかな工夫を加えるだけで、京急の地下トンネル案に匹敵する輸送力を、その十分の一の予算で実現する。

 この「現場の知恵」が、まもなく国家の公式記録として認められるのだ。

「……班長。俺たちは、勝てるな」

「……はい。あの大蔵省がいないなら、もう誰も俺たちを『鉄くず』とは呼べません」

 二人は固く拳を握り合った。

 その頃、会場内では審議委員たちが次々と着席を始めていた。彼らもまた、最前列の空席をチラチラと盗み見ては、驚きと、そしてどこか「安堵」の色を浮かべていた。

 予算を盾に無理難題を押し付けてくる大蔵省の不在は、審議委員たちにとっても、良心に従って判断を下せる「例外的な休日」のようなものだった。

 一方、反対側の席に座る京急の五代専務と、相鉄の川島社長。

 五代は、手元の手帳に目を落とし、黙々と何かを書き込んでいた。周囲のざわめきを一切無視し、ただ冷徹に、一秒一秒を刻む時計の音を聴いているかのようだった。

 その五代の背後、廊下へと続く扉の隙間に、一人の若手社員が滑り込み、耳元で短く囁いた。

「……現在、六本木交差点付近。依然として渋滞は激しく、車列はピクリとも動きません。……事務次官は車内で激昂されていますが、桜田主計官は……」

「……は?」

「……はい。あくびをしながら、窓の外を眺めておいでです。『へーきへーき、まだ演出が足りない』と……」

 五代は、ペンを止めた。その唇の端が、暗闇で獲物を捕らえた蜘蛛のように、わずかに吊り上がる。

「……演出、か。あの男、わざと渋滞にハマってやがるな」

 五代には分かっていた。

 桜田という男は、特捜部の檻すらも「お遊び」に変えてしまう怪物だ。そんな男が、ただの渋滞に不覚を取るはずがない。

 彼は待っているのだ。

 モノレール側が完璧なプレゼンを終え、委員たちの心が一つになり、会場全体が「モノレール拡張」という名の桃源郷に酔いしれる、その至高の瞬間を。

 最も高く登った瞬間に、最も深い奈落へ突き落とす。

 それが、予算の神を自称する男の、最も残酷で、最も効果的な「仕事おもてなし」なのだ。

「……五代さん。あちらさん、もう答辞の練習を始めてますよ」

 川島が、呆れたようにモノレール社長の方を指差した。

 そこには、感極まった表情で資料を読み返す、誇らしげな技術者たちの姿があった。

「……いいじゃねえか。人間、一番いい顔をして死ぬのが幸せってもんだろ」

 五代は冷たく言い放つと、再び手帳に目を落とした。

 会場の時計が、午前九時五十五分を指した。

 廊下を慌ただしく行き来していた職員たちも去り、重厚な扉が静かに閉じられた。

 外の世界では、国鉄のストライキに憤る群衆の怒号が響いていたが、この大議室の中だけは、死の直前の平穏のような、不気味なほどの静寂が支配していた。

 勝利を確信し、天を仰ぐモノレール陣営。

 そして、渋滞の車内で獲物の絶頂を数えている、死神。

 運命の開始の号令まで、あと、五分。

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