第199話 『羽田聖戦編(23) 審議開始の号令と、空席の深淵』
昭和54年、冬。
午前九時五十七分。
霞が関、運輸省庁舎の廊下には、張り詰めた沈黙が横たわっていた。
だが、その沈黙は決して冷たいものではなかった。少なくとも、大議室の重厚な扉の前に立つ東京モノレールの面々にとっては、それは十五年間待ち続けた「夜明け」を告げる、神聖な静寂であった。
「……社長、ネクタイが少し曲がっています」
技術班長が、震える指先で社長の襟元を整えた。
その指には、昨夜まで図面を握りしめていたインクの跡と、長年モノレールの軌道を点検し続けてきた硬い凧が刻まれていた。
社長は、班長の肩を力強く叩き、深く頷いた。
「……ありがとう。……行こう。俺たちの十五年、いや、日本の空のインフラを支えてきた誇りを、今日ここで歴史に刻むんだ」
扉が開き、彼らは光の中へと足を踏み入れた。
会場内には、運輸省の技官たちや、各界から選ばれた審議委員たちが、すでに厳かな面持ちで席に着いていた。
モノレール陣営が自席に向かって歩く間、委員たちの視線が彼らに注がれる。それはかつての「お荷物企業」を見る冷ややかな目ではなく、スキャンダルに塗れた大蔵省という闇を払い、純粋な技術論で羽田を救おうとする「ヒーロー」を待望するような、熱を帯びた眼差しだった。
教壇の脇には、モノレール側が用意した巨大な説明ボードが鎮座している。
そこには、日立製作所が社運を賭けて計算し尽くした「単線待避線による高頻度運転システム」の緻密なダイヤグラムが描かれていた。
京急の地下トンネルが完成するまで、羽田は待てない。
今、この瞬間にある軌道を使い、最小の投資で最大の成果を上げる。
これこそが、オイルショック後の日本が求める「最適解」であるという、揺るぎない自信がそこにはあった。
モノレール社長は、マイクの前に立ち、手元の原稿を一度だけ見つめた。
そこには、昨晩の居酒屋で整備士たちが涙ながらに語った「現場の声」が、言葉の端々に滲んでいた。
「……我々は、ただの鉄道屋ではありません。羽田の、日本の『翼』を支える使命を背負っているのです」
心の中でそう呟き、彼は委員長席に視線を向けた。
運命の針が、垂直に重なろうとしていた。
霞が関、運輸省・合同庁舎の重厚な大議室。
ついに、羽田の未来を決定づける『運輸審議会』の当日がやってきた。
廊下には新聞記者がひしめき、室内の空気は、張り詰めた弦のように鋭い緊張感に満ちていた。
だが、その緊張感の質は、数日前とは劇的に変わっていた。
「……おい、大蔵省の席を見てみろ」
モノレールの幹部が、震える声で隣の社長に囁いた。
部屋の最前列。審議において絶対的な拒否権を持つはずの大蔵省の指定席が、ポツリと、あまりにも不自然に「空」のままだったのである。
「……やはり、特捜部から出てこれなかったんだ。……勝った。我々の勝ちだ」
モノレール社長は、膝の上で握りしめた拳の震えを必死に抑えていた。
予算の蛇口を握る死神がいない。それはすなわち、運輸省内の「技術優先派」や「国鉄OB」たちが、誰にも邪魔されずにモノレール拡張にハンコを捺せることを意味していた。
午前十時。
委員長が重々しく口を開く。
「……それでは、定刻となりました。大蔵省の委員がまだ到着しておりませんが、審議を遅らせるわけにはいきません。……これより、羽田空港アクセスに関する運輸審議会を開始いたします」




