第196話 『羽田聖戦編(20) 檻の中の嘲笑と、沈黙する正義』
昭和54年、冬。
運命の『運輸審議会』当日の、まだ夜が明けきらぬ午前。
虎ノ門、東京地検特捜部の取調室には、むせ返るような安煙草の煙と、一睡もしていない男たちの苛立ちからくる酸っぱい汗の匂いが充満していた。
「……桜田主計官。いい加減に吐いたらどうだ。我々は、君が京急の五代、そして相鉄の川島と、赤坂の料亭で何を語り、どのような『約束』を交わしたか、すべて掴んでいるんだぞ」
特捜部の主任検事が、灰皿に吸い殻を叩きつけ、血走った目で目の前の男を睨みつけた。机の上には、押収された資料の山と、数時間に及ぶ聴取の記録が乱雑に積み上げられている。
しかし、パイプ椅子に腰掛けた大蔵省主計官・桜田は、ネクタイの結び目一つ乱すことなく、窓の外のどんよりとした冬空を眺めていた。その表情は、まるで退屈な大学の講義でも聴いているかのような、無垢で、かつ底知れない傲慢さに満ちていた。
「……検事さん。君たちは、六法全書を暗記するのが得意なだけの『正義の味方ごっこ』がお好きなようだね」
桜田が、冷徹な声で口を開いた。その声は、静かな取調室で異常なほどに冷たく響いた。
「……だが、君たちが守っているその『法律』という文字は、誰が書いたものだと思っている? 日本という国家を動かしているのは、君たちが振りかざす手錠じゃない。私が、この指一本で書き換える『予算案』という名の現実なんだ。……君たちがここで私を拘束し続ける一分一秒の間に、この国のどこかで橋が止まり、道が消え、人々が飢える。……その責任、君たちの安い月給で取れるのかな?」
「貴様ッ……! 国家権力を、大蔵省の財布と一緒にするな!!」
検事が激昂し、机を両手で叩き割らんばかりに立ち上がった、その時だった。
ガチャリ。
重厚な取調室の鉄扉が開き、そこには顔を土色に変えた特捜部長が、震える手で一本の受話器を握りしめて立っていた。
「……主任、そこまでだ。……桜田主計官に、上から直々の電話が入った」
取調室内の空気が、一瞬で凍りついた。検事たちは信じられないものを見るような目で、その受話器を、そして悠然と立ち上がった桜田を見つめた。
桜田はニヤニヤと不敵な笑みを浮かべながら、部長から受話器をひったくるように取った。
「……ああ、私です。……ええ、ええ。へーき、へーき。……少しばかり、正義の味方の皆さんに、予算の重みというものをレクチャーしていたところです。……ええ、わかっていますよ。運輸省の葬式(審議会)ですね。すぐに向かわせます」
電話を切った桜田は、呆然と立ち尽くす検事たちの前で、ゆっくりとコートの襟を立てた。
「……お疲れ様、検事さん。君たちの『正義』じゃ、来年度の検察庁の暖房費すら捻出できないんだ。……さあ、事務次官。行きましょう。こんな薄汚い部屋に長居しては、大蔵省の品格が汚れます」
隣の予備室で、ガタガタと震えながら取り乱していた事務次官を促し、桜田は屈辱に唇を噛み切り、怒りに震える検事たちの間を、勝利のパレードのように、悠々と、鼻歌交じりに歩いて部屋を出た。
午前七時。
特捜部の正面玄関前には、獲物を待つハイエナのように数百人の報道陣がひしめき合い、フラッシュの準備を整えていた。誰もが「大蔵省の怪物が、手錠をかけられて引きずり出される歴史的瞬間」を撮ろうと、殺気立っていた。
しかし、彼らが空っぽの取調室にカメラを向け、正面玄関を凝視しているその隙に、検察庁の地下駐車場、最も暗い勝手口から一台の黒塗りの公用車が、音もなく滑り出した。
「……次官、記者どものあの間抜けな面、拝めないのは残念ですが。……さあ、羽田の覇者を決めに行きましょうか」
桜田の冷笑を乗せ、公用車は地下の闇から地上へと躍り出た。
――しかし。
釈放という「権力の勝利」を収めた彼らを待っていたのは、特捜部よりも厄介な、昭和の東京を麻痺させる「地獄の渋滞」であった。
国鉄のストライキ。
それは、都心の公共交通網を寸断し、行き場を失った数百万人の足が、一斉に道路へと溢れ出す狂気を意味していた。自家用車、タクシー、配送トラック……虎ノ門から霞が関へ続くわずか数百メートルの道路が、今やピクリとも動かない「鉄の墓場」と化していたのだ。
「……なんだ、このザマは! 運転手、迂回しろ! 審議会の開始まで、もう三時間もないんだぞ!」
焦燥に駆られた事務次官が窓を叩いて怒鳴るが、どこを見渡しても車列は幾重にも重なり、吐き出される排気ガスが冬の朝の空気を白く濁らせている。
「……次官、へーき、へーき。……これも運命ですよ。我々が遅れれば遅れるほど、運輸省に集まったあのモノレールの連中は、『大蔵省はもう来ない』と信じ込む。……絶頂まで登らせてから、奈落へ突き落とす。……これ以上の舞台装置が、どこにありますか?」
桜田は、苛立つ次官をよそに、窓の外の動かない世界を愉しげに眺めながら、膝の上の予算案ファイルを指でトントンと叩いた。
彼の目には、もう見えていた。
自分たちがいない会場で、勝利を確信して乾杯し、誇らしげに技術を語るモノレール技術者たちの、その「崩れ去る笑顔」が。
公用車は、猛烈な渋滞の中に完全に埋もれ、ただ排気ガスの煙を吐き出しながら、静かに、しかし確実に、絶望のカウントダウンを刻み続けていた。




