第186話 『羽田聖戦編(10) 赤坂の夜と、寝返る有識者』
昭和54年、初冬。
運命の『運輸審議会』まで、あと数週間。
東京モノレールの社長は、丸の内の冷たい風に吹かれた後、最後の「防御線」を固めるべく奔走していた。
運輸審議会は、運輸省の官僚だけで決まるものではない。大学教授や財界の重鎮など、数名の「有識者委員」による多数決(答申)が絶対の効力を持つ。
「……国鉄も銀行も駄目なら、委員の先生方に直接『モノレールの優位性』を訴え、票を固めるしかない!」
社長は、かつてモノレール開業時に「未来の交通機関」と絶賛してくれた高名な大学教授(審議会委員長)の自宅へ、分厚い手土産を持参して日参していた。
しかし。
その夜、赤坂の超高級料亭『松ヶ枝』の奥座敷では、すでにインフラの地殻変動が起きていた。
「……いやはや、五代専務。そして川島社長。まさかこのような素晴らしい席にお招きいただけるとは」
上座で上機嫌に杯を干しているのは、他でもない、その「高名な大学教授(審議会委員長)」であった。
五代は、見事なトラフグの刺身を箸で乱暴にすくい上げながら、ニヤリと笑った。
「……先生。来月の審議会、大変な役回りですねェ。ロッキードで揺れる運輸省の泥カブリ……。変に『天空の城』を擁護すれば、先生の清廉潔白なアカデミズムの経歴に、特捜部の泥が跳ねるかもしれませんぜ」
「うっ……」
教授の手がピタリと止まる。五代の言葉は、急所を的確にえぐっていた。
すかさず、隣に座る相鉄の川島社長が、極めて上品な笑みを浮かべて銚子を傾けた。
「……先生。我が相鉄グループが現在、神奈川県央に開発中の巨大ニュータウン。そこの『都市交通計画』の最高顧問として、ぜひ先生のお力(お名前)をお借りしたいのです。……もちろん、顧問料としては、大学の年間予算に匹敵する額を用意しておりますが」
脅し(特捜部の影)と、甘い蜜(合法的な巨額顧問料)。
地べたを這う野良犬たちの、完璧な「アメとムチ」であった。
「……し、しかし……私は長年、モノレールの推進派として論文を……。今さら京急の羽田乗り入れに賛成のハンコを捺せば、学者のプライドが……」
額に脂汗を浮かべる教授に対し、五代は冷酷に言い放った。
「……プライドォ? 先生、時代は変わったんですよ。
強風で止まり、赤字を垂れ流し、銀行にも見捨てられたポンコツを擁護するのが『学者』ですか?
それとも、標準軌の高速鉄道(京急)で、都心から羽田まで大量の客を安全に運ぶのが『未来の交通』ですかねェ?」
「…………ッ!!」
「……答えは出てるはずだ。先生のその高名な頭脳で、一番『安全な道』を選んでくだせえよ」
五代は、教授の前に、白紙の『京急乗り入れ賛成票』を滑らせた。
数日後。
モノレールの社長が再び教授の自宅を訪ねると、門前払いを食らった。インターホン越しに聞こえたのは「私は学者として、中立の立場で審議に臨む」という、冷ややかな声だけだった。
モノレール陣営が必死に数えようとしていた「票」は、審議会が開かれる前から、すでに京急と相鉄の泥沼の中で、音もなく溶け落ちていたのである。




