第183話 『羽田聖戦編(7) 軋むゴムタイヤと、悲鳴を上げる現場』
昭和54年、初冬。
世間では「京急の赤い弾丸」が称賛を浴びる中、東京湾に浮かぶ人工島・昭和島にある『東京モノレール・車両基地』には、重く淀んだ空気が立ち込めていた。
「……おい! 3号車の走行用タイヤ、また偏摩耗を起こしてるぞ! 交換だ!!」
「班長! 予備のタイヤの在庫がもうありません! 発注をかけても、本社の経理が『予算がない』と渋って、納品が遅れているんです!!」
コンクリートのピットの中で、油まみれになった整備士たちが怒号を交わしていた。
アルウェーグ式モノレールの生命線は、軌道を挟み込む巨大な「ゴムタイヤ」である。鉄の車輪に比べて乗り心地は良いが、摩耗が激しく、莫大なメンテナンスコストと手間がかかるのが最大の弱点だった。
さらに今、現場を地獄に突き落としているのは、本社からの「無茶な通達」であった。
『京急に客を奪われるな。多少の横風でも減速せず、定時運行を死守せよ』
世論のバッシングに焦ったモノレールの経営陣は、強引にスピードを上げるよう現場に圧力をかけていた。しかし、元々風に弱い構造の車両を無理に走らせれば、カーブや横風のたびに車体が激しく揺れ、その全負荷がゴムタイヤにのしかかる。
「……上の連中はバカか!! こんな無理な走らせ方を毎日続けたら、タイヤがバーストして大事故に繋がるぞ!!」
ベテランの整備班長が、すり減った巨大なタイヤを蹴り上げ、悔しさに顔を歪めた。
日立製作所という大企業が作ってくれた、世界に誇る車両。
しかし、それを日々走らせ、維持しているのは、この薄暗い車両基地で油に塗れる現場の人間たちなのだ。彼らは、政治の庇護(闇将軍)が消え、会社が世間から見放されていく空気を、肌で感じ取っていた。
「……班長。俺、今月いっぱいで辞めさせてもらいます」
スパナを握っていた若手の整備士が、ポツリと呟いた。
「……こんな、いつ事故が起きるか分からない綱渡りの整備、もう精神的に限界です。……それに、どうせ来月の『運輸審議会』で、うちは京急に負けて潰れるんでしょう?」
「……バカ野郎。勝手なこと言うな」
班長は怒鳴ろうとしたが、その声には力がなかった。
若手の目には、インフラを守る者としての「誇り」が完全に消え失せていたからだ。
箱根で小田急のホテルマンたちが「シーツがない」と絶望して辞めていったように。
今度は羽田の足元で、モノレールの整備士たちが「安全が守れない」と絶望し、一人、また一人と静かに現場から去っていく。
一方、その昭和島の車両基地のフェンスの外。
冷たい海風の中で、相鉄のロゴが入った作業着を着た男(高見)が、缶コーヒーを啜りながら、ピットから聞こえる怒号と悲鳴を、ジッと聞いていた。
「……インフラってのは、上が焦ると一番初めに『安全』と『現場の心』が削られる。……相鉄のドン(川島)が言った通りだ」
高見は、空になった缶コーヒーをゴミ箱に放り投げた。
「……何もしなくても、勝手に自滅していくぜ。天空の城のシロアリどもはよ」
運輸審議会まで、あと数週間。
政治の梯子を外された東京モノレールは、外敵(京急・相鉄)に手を下されるまでもなく、その内部から音を立てて崩壊し始めていた。




