第165話 『日常:番外編(3) 白き巨躯の疾走と、箱根の「主」の解答』
昭和54年、深夜。
京急の五代専務が軽トラで砂場を縦横無尽に踏み荒らして去った、その直後。
重機のエンジン音だけが響く第3エスケープ・ルートの入り口に、眩いばかりの純白の巨体が姿を現した。
トヨタ・ハイエース(ハイルーフ・ロングボディ)。
何の飾り気もない、現場に向かう作業員が乗るようなその商用バンは、しかし異様なほど完璧に洗車され、夜目にも白く光り輝いていた。
「……社長。専務が荒らした砂の均し、まだ途中ですよ」
現場監督の高見が、ブルドーザーから降りてタバコを投げ捨てた。
運転席から降りてきた川島社長は、いつものイタリア製スーツの上に、相鉄のロゴが入った「現場用腕章」を巻いていた。
「……構わん。五代専務の軽トラが刻んだ『轍』。あれは、我々への宣戦布告だ」
川島は冷徹な眼差しで、砂場を見つめた。
「……『お前らは、俺たちが捨てた山で砂遊びをしていろ』と。……そう言われたのだよ、高見」
「…………」
高見は黙り込んだ。京急という巨人の前で、相鉄という組織が抱える劣等感。
それを払拭できるのは、札束でも権力でもない。この道を敷いた「インフラ屋としての意地」だけだ。
「……見ていろ。ハイエースは、荷物を運ぶためだけの車ではない」
川島は再び運転席に滑り込み、重厚なドアを閉めた。
ガチャンッ、という精密な金属音。
ヴォォォォォォォンッ!!!!!
ディーゼルエンジンの唸りとは思えない、完璧にチューニングされた吸気音が箱根の森を震わせる。
川島はアクセルを一気に踏み込み、時速100キロを超える速度で、あの「物理的に曲がれないループ線」へと突入した。
キィィィィィィィィッ!!!!!
ハイエースの巨大な車体が、遠心力でアウト側へと大きく傾く。
成金たちはここでパニックに陥り、ステアリングを切りすぎて砂場に沈んだ。
だが、川島は冷静だった。
彼はステアリングを切るのではなく、**「ハイエース特有の積載バランス」**を逆手に取った。
あえてリアに積んだ予備のレール材という「重り」を利用し、急激な荷重移動を発生させる。
「……沈めッ!!」
川島がサイドブレーキをミリ単位で引き、一瞬だけ車輪をロックさせたその瞬間。
ハイエースの巨体が、まるでレールの上を走る転轍機のように、カクンと向きを変えた。
それはドリフトではない。車体重量をアスファルトの特定のポイントに叩きつけることで、物理法則を「ねじ伏せた」瞬間だった。
シュゴォォォォォッ!!
ガードレールのわずか数ミリ横を、ハイエースの巨大なサイドパネルが掠めていく。
砂場の一粒の砂も動かさず、むしろその砂埃を「整流」するかのような完璧なエアロダイナミクス。
キィィィィィッ……ピタッ。
ハイエースは、砂場の向こう側にある「完全踏破」の白線の上に、寸分の狂いもなく停車した。
「…………」
高見は持っていたタバコを落とした。
「……バカな。……あのハイエースで、このコースを『攻略』したのか……?」
川島は車から降り、背後の砂場を一瞥もせずに、懐から懐中時計を取り出した。
「……高見。五代専務の軽トラは『自由』を運んできた。だが、我々のハイエースが運ぶのは『秩序』だ」
川島は、完璧なコーナリングを決めたハイエースのボディを愛おしそうに撫でた。
「……たとえ、東京湾を向くことができなくとも。この山奥のレールの主は、我々相鉄だということを、忘れてはならん」
21時を前に、相鉄のドンは「商用バン」という名の最強のインフラ車両で、王者の走りを刻んでみせた。
それは、身の程を知りつつも、その領域においては絶対無二の頂点であるという、相鉄のプライドの証明であった。




