第164話 『日常:番外編(2) 白き農道の王と、専務の「砂遊び」』
昭和54年、深夜。
箱根山頂『ハコネ・スカイ・ヴィレッジ』。第2層の狂騒が静まり返り、闇に包まれた第3エスケープ・ルート。
現場監督の高見は、ブルドーザーのライトで砂場を照らしながら、一人黙々と作業を続けていた。
「……フン。200万払って砂に埋まるバカどもの後始末かよ。……俺たち相鉄は、いつから造園屋になったんだ」
高見は、タバコの煙を吐き出しながら、平らになった砂地を見つめた。
どんなにえげつないシステムを造ろうが、自分たちは京急の兄貴分が支配する「東京湾の輝き」からは程遠い、山奥の穴掘り屋に過ぎない。その劣等感が、夜の冷気と共に高見の胸を締め付けていた。
その時だった。
ポポポポポ……という、スーパーカーの爆音とは対照的な、どこか間の抜けた、しかし力強い2気筒エンジンの音が闇を割って響いてきた。
「……あ? なんだ、あの音は」
高見が顔を上げた瞬間、暗闇から現れたのは、時速200キロで突っ込んでくる赤いミサイル……ではなく、**色褪せた白の『スバル・サンバー(軽トラ)』**だった。
車体には泥が跳ね、荷台にはなぜか「使い古しの鉄道用枕木」が数本積まれている。
「おいおい、ここは一般車進入禁止だぞ! 出てけ!」
高見が叫びながらブルドーザーを降りた。
だが、その軽トラは高見の目の前でキィッと止まり、運転席から一人の男が「よっ」と手を挙げて降りてきた。
京急電鉄の絶対権力者、五代専務である。
首には「京浜急行」の文字が入った色褪せたタオル、足元は泥のついたゴム長靴。どこからどう見ても、深夜の農作業帰りの親父にしか見えない。
「……ご、五代専務!? なぜ、そんな車でここに!?」
高見は、あまりの衝撃に直立不動のまま固まった。
「いやぁ、高見くん。みなとみらいの再開発会議が長引いてな。帰りにちょっと箱根の噂を聞いたんや。『相鉄が、200万でバカを砂に沈める面白いアトラクションを始めた』ってなぁ」
五代専務は、軽トラのボンネットをポンと叩き、ニヤリと笑った。
「……面白そうやないか。**『オレも、ちょっとやってみよう』**と思ってな」
「……は!? 専務、何を……ここは成金が自爆を正当化するための場所ですよ! 先生のようなお方が軽トラで突っ込むような場所じゃ……!」
「バカ言え。インフラ屋の魂は、現場にしかないんや。……ほな、見てろよ」
五代専務はひょいと運転席に戻ると、高見の制止を無視して、慣れた手つきで「4WD・低速ギア」に入れた。
ヴォォォォォォンッ!!
軽トラが、農道の王者としての咆哮を上げる。
五代専務は、窓から腕を出し、タバコを吹かしながら、フルスロットルで砂場へとダイブした。
ズサァァァァァァァァァッ!!!!!
砂柱を上げ、車体を激しく揺らしながら、白い軽トラが砂の海を「泳ぐ」ように突き進む。
フェラーリが呆気なく沈んだポイントを、軽トラはリアタイヤを絶妙に空転させながら突破し、砂場のど真ん中でピタリと停車した。
「……完璧やな、この砂。相鉄も、ええ仕事しとるわ」
五代専務は、砂塗れの軽トラから降りると、満足げに砂を均す高見を見つめた。
「……高見くん。成金の200万は『見栄の代金』やが、ワシのこれは『インフラの視察』や。……文句ないな?」
「……あ、ああ……御意に。……ですが、お代(200万)はどうされるんですか?」
高見が恐る恐る尋ねると、五代専務は荷台の枕木を指差した。
「現金なんか生臭いもんは品川に置いてきたわ。……代わりに、これ(中古の枕木)を置いていく。あとは、今度うちで余った『ATS(自動列車停止装置)の旧型部品』を、相鉄の保線用に安く融通してやる。……それで200万、相殺や」
「…………」
高見は、あまりの「格の違い」に、言葉を失った。
自分たちが必死に構築した「200万円の集金システム」は、京急の専務にとっては、軽トラで遊んだ後の**「物資交換」**で片付く、文字通りの砂遊びに過ぎなかったのだ。
「……ほな、帰るわ。明日は朝から羽田の視察や」
五代専務は、再び軽トラに乗り込むと、軽快な排気音を響かせて、箱根の闇へと消えていった。
静寂が戻った砂場。
高見は、残された「中古の枕木」と、軽トラが刻んだ深い轍を前に、深い溜息をついた。
「……結局、俺たちはこの軽トラ一台に、一生勝てねえんだな……」
東京湾を向く本物の王者。
その背中を追いかけることも許されず、高見は再びブルドーザーを動かし、王者が踏み荒らした砂を、哀しく、丁寧に均し始めるのであった。




