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第163話 『日常:番外編 哀れなスパイと、インフラの壁』

 昭和54年、初夏。

 箱根山頂の独立国家『ハコネ・スカイ・ヴィレッジ』。その華やかなネオンと、地下に潜む国家機密の隙間を、一匹の「ドブ鼠」が這いずり回っていた。

 週刊誌『実話真相』の記者、佐藤。

 彼はこれまで、数々の大物政治家のスキャンダルや、闇社会の会合を暴いてきた。その自負が、彼をこの「相鉄の要塞」へと駆り立てた。

「……クソッ。大衆向けの温泉だの、成金向けのラウンジだの、全部デタラメだ。この巨大なコンクリートの塊の底には、日本を揺るがす『真実』が埋まっているはずだ……!」

 佐藤は、一週間前から箱根の原生林に潜伏し、自前で調達した赤外線スコープと指向性マイクを使って、この要塞の「盲点」を探し続けていた。

 そして今夜。彼は、第2層の排気ダクトが山肌に露出している、わずかな隙間を見つけ出した。

「……ここだ。ここから潜り込めば、地下の『心臓部』へ辿り着ける」

 佐藤は、高価なライカのカメラを首に下げ、泥に塗れながらダクトの中へと潜り込んだ。

 だが。彼が潜り込んだのは「道」ではなく、インフラ屋が設計した**「物理的な拒絶」**そのものだった。

「……高見さん。ダクト3号線に、妙なノイズが入ってます」

 地下の司令室。若手社員が、モニターに映し出されたセンサーの波形を指差した。

「……生体反応か?」

 現場監督の高見が、欠伸をしながらモニターを覗き込む。そこには、赤外線センサーを遮りながら、這いつくばって進む佐藤の熱源が、ハッキリと映し出されていた。

「……また虫ケラか。……高見さん、どうします? 警備員を出しますか?」

「バカ言え。そんな人件費の無駄遣いができるか」

 高見は、コーヒーを啜りながら、コンソールにある一つのスイッチを軽く叩いた。

「……『全自動メンテナンス・シーケンス』、開始だ」

 その頃。ダクトの中を這っていた佐藤は、突然の異変に凍りついた。

 暗闇の奥から、キィィィィィィン……という、鼓膜を突き刺すような高周波の音が聞こえてきたのだ。

「……な、なんだ!? 耳が……耳が痛ぇッ!!」

 それは、インフラの配管を清掃するために設置された、超強力な『超音波害獣駆除システム』だった。人間が長時間浴びれば、三半規管が狂い、立っていることすらできなくなる。

 佐藤は激しい眩暈めまいに襲われ、ダクトの中で無様にのたうち回った。

 だが、絶望はそれだけでは終わらなかった。

 ゴォォォォォォォォッ!!!!!

 ダクトの奥から、猛烈な勢いで「風」が吹き込んできた。それは風ではない。相鉄が誇る、巨大トンネル用の『工業用高圧バキューム』による、強制排気だ。

 秒速40メートルを超える暴風が、佐藤の体を木の葉のように翻弄し、強制的に「ある一点」へと押し流していく。

「……う、うわぁぁぁぁぁぁっ!!!」

 佐藤が放り出されたのは、地下の暗黒の空間だった。

 そこには、彼が夢見た「政治家の密談」も「金塊の山」もなかった。あるのは、ただひたすらに、鈍い銀色に輝く**「分厚い鉛の壁」**と、巨大な冷却ファンが回る音だけだった。

「……ここは、どこだ……?」

 佐藤は震える手でカメラを構えた。

 目の前には、第3層『迎賓館』へと続くと思われる、巨大な鋼鉄の扉がある。ここを撮れば、特ダネだ。相鉄が地下に秘密の基地を造っている証拠になる。

 カシャッ、カシャッ!!

 彼は無我夢中でシャッターを切った。

 だが、彼がカメラを向けたその瞬間、扉の周囲に設置された強力な『ストロボ・キャンセラー(高輝度赤外線投射機)』が作動し、フィルムはすべて真っ白に感光(破壊)された。

 さらに、部屋全体に張り巡らされた『超強力な電磁波シールド』によって、彼の自慢のライカの金属部品は磁気を帯び、精密機械としての機能を永遠に失った。

「……あ、あ、ああ……俺のカメラが……!!」

 佐藤が絶望に崩れ落ちた時、天井のスピーカーから、一切の感情を持たない合成音声が流れた。

『……未登録のメンテナンス業者様。当エリアは現在、強力な「消臭・滅菌シークエンス」に入っております。人体への影響が出る前に、指定の脱出口へ速やかに移動してください』

「……滅菌だと!? 俺は人間だぞ! 記者だ!!」

 佐藤が叫んだ瞬間。天井のノズルから、猛烈な勢いで「霧状の消毒薬(ただの無害な冷却水)」と「時速200キロの超高圧エアー」が噴射された。

 ズドォォォォォォォンッ!!

 圧倒的な物理の力によって、佐藤はゴミのように、地下の『排水・廃棄物搬送用コンベア』へと押し流された。

「……ふふふ。傑作だな。あいつ、自分が『スパイ』として処理されてることにすら気づいてねえぞ」

 司令室のモニター。真っ白な霧の中で無様に転げ回る佐藤の姿を見ながら、川島社長が満足げに葉巻を燻らせた。

「……あいつ、このままどうなるんです?」

 若手社員が尋ねる。

「……どうにもならねえよ。そのまま地下の『一般ゴミ集積所』までレールで運ばれて、明日の朝には箱根の麓の『道の駅』のゴミ箱の横にでも、泥酔した浮浪者のフリをして転がされてるさ」

 高見が鼻で笑う。

「もちろん、カメラのフィルムはパー。ライカはただの鉄屑だ。……警察に駆け込んだところで、証拠は何一つねえ。それどころか、『相鉄の私有地に不法侵入した』という記録だけが、ウチのサーバーに完璧に残ってる。……訴える勇気があれば、の話だがな」

 翌朝。

 箱根の麓、国道1号線沿いの道の駅。

 全身ずぶ濡れで、泥だらけになった佐藤が、ベンチで目を覚ました。

 手元には、完全に壊れたカメラと、見覚えのない一枚の紙が握られていた。

 それは、相鉄不動産名義の**『不法侵入に伴う、配管清掃および設備点検費用・特別請求書(30万円)』**だった。

「……あ……あ……」

 佐藤は声も出なかった。

 自分は命懸けで「真実」に挑んだはずだった。だが、相鉄にとっての自分は、国家を脅かすスパイですらなく、ただ配管に詰まった「異物」として、インフラのシステムで自動的に清掃されただけの、哀れな虫ケラに過ぎなかったのだ。

 見上げれば、箱根の山頂には、今日も美しい朝陽を浴びて『ハコネ・スカイ・ヴィレッジ』がそびえ立っている。

 大衆の歓声。成金の虚飾。VIPの密約。

 その巨大な暗黒のシステムは、一匹のドブ鼠の侵入など、微塵も感じさせないまま、今日も完璧なリズムで稼働し続けていた。

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