第162話 『日常:VIP編(4) 沈黙の守護者と、不可欠な共犯』
昭和54年、初夏。
箱根山頂の独立国家『ハコネ・スカイ・ヴィレッジ』。第3層『迎賓館』の最奥、川島社長の執務室。
そこには、昨夜の密談を終えたばかりの国務大臣が、安堵の表情で最高級の葉巻を燻らせていた。
「……ふぅ。つくづく感心するよ、川島くん。この『密室』だけは、何物にも代えがたい」
大臣は、窓の外(実際には厚い岩盤を映す高精細なモニター)を見つめながら呟いた。
「赤坂の料亭も、海外の大使館も、もはや信じられん。だがここだけは、物理的に特捜部もマスコミも入り込めない。……この『絶対の沈黙』こそが、私にとっての生命維持装置だ」
川島は、一言も脅しの言葉を口にしない。ただ、恭しく、大臣のグラスにブランデーを注ぎ足しただけだ。
「……光栄でございます、先生。先生のようなお方が、心置きなく『国造り』に専念できるよう、我々はインフラを磨き続けております。……我々の役割は、先生の『沈黙』を、この岩盤の中に永遠に埋葬し、誰にも暴かせないことです」
川島は、机の上に一枚の書類を置いた。
それは、神奈川県内の大規模な国有地を、相鉄が「防災拠点」として格安で一括借り上げするための申請書だった。
「……ただ、先生。この『絶対の聖域』を維持するためには、我々相鉄も、有事に備えてさらなる拠点を地上に確保し、盤石な物流網を築かねばなりません。……これは先生の、ひいてはこの国の『沈黙の盾』をより強固にするための、いわば防衛費のようなものでございます」
大臣は書類に目を落とし、ふふ、と笑った。
恐喝されているという感覚は微塵もない。むしろ、「相鉄が強くなればなるほど、自分の汚職も秘密もより深い闇に隠される」という、絶対的な安心感(共依存)だけが胸を満たしていた。
「……なるほど。相鉄のレールが神奈川を覆い尽くせば、私の秘密を運ぶ『闇のデリバリー』もより安全になるというわけか。……よかろう」
大臣は、自らの意思で万年筆を手に取った。
「……こんな土地の認可など、私の安全に比べれば、ただの**『はした金(必要経費)』**だ。……川島くん、相鉄をさらに巨大にしろ。君たちが強大になればなるほど、私もまた、誰にも脅かされない場所で永遠に君臨できるのだからな」
サラサラと、国家の血肉が相鉄の「私物」へと変わる音が、密室に響く。
これは「強要」ではない。自分の立場を盤石にするための、権力者による「投資」だった。
「……ありがとうございます、先生。……これからも先生というお方を、我々のレールの『特等席』でお守りし続けることを、お約束いたします」
大臣が地下アプト式軌道の奥へと、満足げに去っていく。
その背中を見送りながら、現場監督の高見が、司令室の影から現れた。
「……恐れ入ったぜ、社長。脅しもしねえのに、あいつ、自分から進んで国を切り売りしやがった」
「……当然だ。彼らは誰よりも臆病で、誰よりも『自分だけを信じている』のだからな」
川島は、サインのされた書類を恭しく懐に仕舞い込んだ。
「……我々のインフラを、彼らにとって『手放せぬ盾』にしてしまえば、彼らは自分の身を守るために、喜んで我々の金庫に利権を投げ入れ続ける。……敵を作るなど、三流のすることだよ。高見」
大衆の幸福。成金の見栄。そして、VIPの保身。
箱根の山頂に築かれた巨大な要塞は、日本という国家の「業」を燃料にして、音もなく、しかし確実に加速し続けていた。
この『ハコネ・スカイ・ヴィレッジ』という名の共犯関係から降りられる者は、もうこの国のどこにも存在しなかった。




