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第157話 『日常:成金編(5) 観客のいない処刑場と、名誉のコース料金』

 昭和54年、初夏。

 箱根山頂の独立国家『ハコネ・スカイ・ヴィレッジ』。第2層のガラス張りショールームに愛車を飾っていた成金たちにとって、もはや「車を見せびらかすこと」だけでは満足できなくなっていた。

「……おい、コンシェルジュ。俺にも例の『隠しテストコース』を走らせろ」

 純白のポルシェ911を所有する男が、プレミアム・ラウンジで葉巻を咥えながら、相鉄のシニア・コンシェルジュを呼び止めた。彼は完全にシラフだ。泥酔して暴走するようなバカとは違い、純粋に「赤いカウンタックの男が走ったという、伝説のVIPコースをクリアして、自分のステータスにしたい」という見栄だけで動いていた。

「……かしこまりました。当リゾートが誇る『特別アタック・コース』へのご挑戦ですね」

 コンシェルジュが、恭しく一礼する。

「おう。俺の女や、そこにいる連中にも、俺の華麗なコーナリングを見せてやりたい。ギャラリー席は用意できるんだろうな?」

 男がラウンジの連中を見回してドヤ顔をした瞬間、コンシェルジュは極めて丁寧な、しかし絶対的な拒絶の笑みを浮かべた。

「……申し訳ございません。あちらのコースは、相鉄の次世代インフラをテストするための『最高機密エリア』でもございます。……いかなる同乗者も、ギャラリーの観戦も、固くお断りしております。お客様お一人での『孤独な挑戦』となりますが、よろしいでしょうか?」

「……フッ、最高機密か。悪くねえな。本物のVIPにしか許されない聖域ってわけだ」

 男は、疑うどころかさらに自尊心をくすぐられ、満足げに頷いた。

 司令室のモニターでそれを見ていた高見が、呆れたようにタバコの煙を吐き出す。

「……チョロいもんだぜ」

「高見さん。観客を入れないのは、機密でもなんでもなく……」

 若手社員が苦笑いする。

「当たり前だ。……『自爆して砂場に突っ込む無様な姿』を女やライバルに見られたら、あいつらの見栄が完全に崩壊して、誰も二度と挑戦しなくなるからな。……誰も見てねえからこそ、後で『俺はコースを完全制覇した』って、いくらでもホラが吹けるんだよ」

 高見がコンソールのスイッチを切り替えると、ポルシェをショールームから外部へ導く「第二の専用誘導灯」が点灯した。

 それは、飲酒運転のバカを強制的に止めるための「問答無用の直角カーブ」ではない。シラフの成金を気持ちよく走らせ、そして【合法的に自爆させる】ための、緻密に計算されたインフラだった。

 ヴォォォォォォンッ!!

 夜の箱根。誰の目にも触れない完全に隔離された私有地の森の中を、ポルシェが甲高いエキゾーストノートを響かせて駆け抜ける。

「……ハハハッ! 最高だ! 路面は完全にフラットで、タイヤがアスファルトに吸い付くようだぜ!」

 男は歓喜の声を上げていた。

 高見が造り上げたその道は、最初の数キロは素晴らしい適度なワインディングロードになっており、ドライバーに「自分の運転が上手くなった」と錯覚させる魔法がかけられていた。

 だが、その「錯覚」こそが罠だった。

 男が完全に己のテクニックに酔いしれ、アクセルをベタ踏みして最高速に達したその直後。

 目の前に現れたのは、入り口は緩やかだが、出口に向かって極端に曲率がきつくなる『複合コーナー(クロソイド曲線の悪用)』だった。

「……もらったぁぁッ!」

 男は意気揚々とステアリングを切る。だが、入り口の感覚で飛び込んだ車体は、出口の急なカーブの遠心力に耐えきれない。

「……なっ!? ま、曲がらねえッ!!?」

 キィィィィィィッ!! という悲鳴。ポルシェは完全にアンダーステアとなり、アウトコースの暗闇へと押し出されていく。

 ズサァァァァァァァァァッ!!!!!

 待っていたのは、死の崖ではない。綺麗に均された、厚さ2メートルの『巨大なサンドトラップ』だ。

 純白のポルシェは、1ミリの傷もつかずに、しかし車体の半分まで砂に埋まり、呆気なく沈黙した。

「……クソッ! あんなエグいカーブがあるなんて聞いてねえぞ……!!」

 砂の中でハンドルを叩く男。

 そこへ、待機していた相鉄のレスキューチームが、音もなく接近してくる。

「……素晴らしいアタックでございました。最後の『魔のコーナー』への突入速度、歴代でもトップクラスでございます」

「……お、おう……!」

 男は、自分の失敗を「攻めすぎた結果の勲章」にすり替えてくれたスタッフの言葉に、必死にすがりつくしかなかった。

 男は泥酔者用の「懲罰スイート」ではなく、別の場所に用意された『フィニッシャーズ・サロン(挑戦者専用の特別待合室)』へと案内される。そこで出されるのは、罰杯としての水ではなく、最高級のシャンパンだ。

「……それでは、本日の『特別アタック・コース貸切料』ならびに『コースアウト時の特殊砂清掃・車両リカバリー代』といたしまして……100万円のご請求となります」

 コンシェルジュが、美しいバインダーを差し出す。

 飲酒運転のクズ(200万)よりは安いが、それでも一般人の年収の半分という狂った金額だ。

「……フッ、安いもんだぜ。あの極限のスピードを味わえたんだからな。……俺の車は?」

「はい。地下ドックにて、すでに砂一粒残さずポリマーコーティングで磨き上げております。……ラウンジの皆様も、お客様の『ご帰還』をお待ちかねでございますよ」

 数十分後。

 プレミアム・ラウンジに、ピカピカに磨き上げられたポルシェの鍵を指先で回しながら、男が凱旋してきた。

「どうだった!? あのコースは!」

 他の成金たちが群がる。

「……フッ。凄まじいコースだったぜ。最後のコーナーなんて、俺のポルシェの限界を引き出さなきゃクリアできねえ難易度だった。……まあ、100万払って貸し切る価値はあったな!」

 男は、自分が砂に突っ込んで引き摺り出されたことなどおくびにも出さず、最高のドヤ顔で言い放った。

「……聞いたか!? 100万の隠しコースだ!!」

「俺も申し込む! コンシェルジュ、俺のフェラーリの準備をしろ!!」

 司令室のモニター越しに、札束が乱れ飛ぶラウンジを見下ろし、川島社長は腹の底から笑い声を上げた。

「……完璧だ。誰も真実(ただの自爆)を知らないまま、名誉という名の空箱に100万円を詰め込んで、自ら献上しに来る。……これぞ、インフラ屋が創り出した『見栄の永久機関』だ」

 箱根の山頂。

 観客のいない処刑場(砂場)では、今日もシラフの成金たちが気持ちよく騙され、そして最高の笑顔で相鉄の金庫を満たし続けていた。

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