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第142話 『軌道敷設:血を吐くミリ単位の攻防』

 昭和53年、梅雨。

 箱根山頂の現場は、最悪の泥濘ぬかるみと化していた。

 連日の豪雨が、火山灰を含んだ柔らかい土を容赦なく泥の海に変える。重機のクローラー(キャタピラ)は空回りし、作業員たちは膝まで泥に浸かりながら這いずり回っていた。

「……高見さん! 第4工区の法面のりめんが崩れかけてます! この雨じゃ、谷を掘り進めるのは限界です!」

 カッパを泥だらけにした若手社員が、轟音の中で絶叫した。

 彼らの目の前には、箱根の地形を人工的に切り裂いて創られた、幅20メートル、深さ5メートルにも及ぶ巨大な『スリット』が延々と続いていた。

 これこそが、車と人間を完全に立体交差で分離する「ラドバーン方式」の要、車専用のアンダーパス(谷底)だった。

「限界だぁ? 冗談言ってんじゃねえぞ!!」

 土砂降りの雨の中、高見は泥まみれのトランシット(測量機)を覗き込みながら怒鳴り返した。

「梅雨が明けりゃあ、すぐに灼熱の夏が来る! アスファルトの温度管理が狂う前に、この谷底の『レール』を完璧に敷き終わらなきゃならねえんだよ!!」

 ただの谷を掘るだけなら、ブルドーザーで力任せに削ればいい。

 だが、この谷底の道路には、高見が川島社長に約束した「VIPカートの自動運転(軌陸車)」を実現するための『案内軌条ガイドレール』を2本、何キロにもわたって埋め込まなければならなかった。

「……いいか、若えの! このガイドレールは、ただの遊園地の乗り物のレールじゃねえ!」

 高見は泥水の中に膝をつき、鉄のレールとアスファルトの境目を素手で撫でた。

「……面一つらいちだ。アスファルトの表面と、レールの頂点を、狂いなく『完全な平ら』に揃える。もし2ミリでもレールが出っ張っていれば、時速20キロで走るVIPカートのタイヤが弾かれ、乗っている成金どもに不快な振動が伝わる。逆に2ミリでも低ければ、車体底から降りる鉄のガイド輪が外れて、カートは壁に激突する!」

 若手は息を呑んだ。

 豪雨で地盤がぬかるみ、足場すらまともに確保できない箱根の山頂。そんな劣悪な環境下で、何キロにも及ぶ鉄のレールを「誤差2ミリ以内」でアスファルトに埋め込み続けろというのだ。

「そんなの……土木工事の精度じゃない! 時計の部品でも造る気ですか!」

「そうだ! だからこそ、ただの土方じゃ無理なんだよ!」

 高見が腕を振り上げると、泥の海の中から、数十人の男たちが無言で立ち上がった。

 彼らの作業着には、相鉄の『保線区』の文字が刻まれていた。

「……ウチの鉄道の、終電から始発までのわずかな時間で、新幹線顔負けのミリ単位の軌道調整を毎晩やってのける、相鉄が誇る保線のプロ連中だ」

 高見がニヤリと笑う。

「……おい! ピアノ線張れ! レーザーなんか信用すんな、最後はてめえらの目と手で高さを出せ!!」

 保線作業員たちが、泥まみれになりながらレールにジャッキを掛け、バールでこじり、ピアノ線を張って狂おしいほどの精度で高さを合わせていく。

 雨が打ち付けようが、泥が顔に跳ねようが、彼らの目は決してレールから離れない。ミリ単位の誤差を指先の感覚だけで読み取り、コンクリートで完全に固定していく。

「……スゲえ……」

 若手社員は、大自然の暴力の真っ只中で展開される、執念の精密作業に震えた。

 土木(ダイナマイトと重機)の破壊力と、保線(鉄道屋)の極限の精密さ。その二つが完全に融合したとき、不可能と思われた「自動運転の谷」が、箱根の泥の中から確かに姿を現し始めていた。

 数日後。雨が上がった。

 抜けるような青空の下、泥の海だった谷底には、漆黒のアスファルトがどこまでも滑らかに敷き詰められ、その中央に二本の銀色のガイドレールが、まるで最初からそこにあったかのように美しく、面一で埋め込まれていた。

 そして、その谷底の遙か上空。

 巨大なクレーンが、大衆(歩行者)が歩くための巨大なペデストリアンデッキ(空中回廊)を、谷を跨ぐようにしてゆっくりと架け渡した。ガコンッ!という重い音と共に、橋が固定される。

「……繋がったぞ!!」

 高見がヘルメットを脱ぎ、汗を拭いながら空を見上げた。

「上は人間。下は車。……絶対に交わらねえ、絶対に人を轢けねえ『立体交差の街』の完成だ」

 若手社員は、橋の上から谷底の滑らかなレールを見下ろした。

 会議室の机の上で図面を切り裂いてから、丸一年。あの時、高見が石膏の模型を削って語った「地形ごと捻じ曲げる」という狂気の宣言が、今、圧倒的なコンクリートと鉄の質量となって、眼前に存在していた。

「……高見さん。これで、インフラの血脈はすべて通ったんですね」

「ああ。裏の物流、表の動線、そして自動運転のレール。……血管と骨格は造り終わった」

 高見はポケットからタバコを取り出し、火をつけた。

「……いよいよ、あいつの出番だ」

 高見の視線の先。新しく舗装された谷底のレールの上に、一台の奇妙な車両が運び込まれようとしていた。

 最高級のレザーシートを備えたVIP専用カート。だが、その底面には、鉄の車輪(ガイド輪)が鋭く光っている。

「血を吐く思いで敷いたこのレールが、本当にVIPの業を制御できるかどうか。……『試運転』の時間だ」

 箱根山頂のインフラは、いよいよその心臓を動かす最終フェーズへと突入する――!

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