第143話 『突貫工事の夜明け:試運転と、嵐の前の静けさ』
昭和53年、晩秋。
箱根山頂を包んでいた深い夜が、白み始めようとしていた。
完成したばかりの巨大なガラス張りのエントランス『エキシビション・フロント』の前に、一台の真新しい車両が静かに停まっていた。
最高級のレザーシートと、流線型のボディを備えた四輪のVIP専用カート。
その運転席には現場監督の高見が座り、助手席には緊張で顔を強張らせた若手社員、そして後部座席には、相鉄のドン・川島が葉巻を咥えて深々と腰を下ろしていた。
「……高見。インフラの血脈は、すべて繋がったんだな?」
川島の低い声が、冷たい朝の空気に響く。
「ああ。地下のアプト式物流網、地上の歩車分離橋。そして……俺たちが泥水啜って敷き詰めた、この足元の『軌道』もな」
高見はハンドルを握り、ニヤリと笑った。
「……試運転を開始する。インフラ屋が創り上げた『物理の鎖』の力、とくと味わってくれ」
高見がアクセルを踏み込む。
カートが静かに滑り出し、エントランスのゲートをくぐって、VIP専用の『谷底のルート(アンダーパス)』へと進入した。
その瞬間だった。
ガコンッ!!!
車体の底から、重く鋭い金属音が響いた。
「ひっ……!? な、何ですか今の音は!?」
若手社員が座席で跳ね上がる。
「ビビるな若えの。……今、車体の底から『鉄のガイド輪』が降りて、アスファルトに埋め込まれた2本の案内軌条に完全に噛み合った音だ」
高見はそう言うと、おもむろに両手をハンドルから離した。
「なっ……!? 高見さん、前! カーブです!!」
若手が悲鳴を上げる。目の前には、地形に沿って右へ鋭く曲がるコンクリートの壁が迫っていた。時速20キロとはいえ、ノーブレーキで突っ込めば大惨事だ。
だが、高見は腕を組んだままピクリとも動かない。
ギュルルルルッ!!
カートは壁に激突する寸前、見えない手で操られているかのように、滑らかに、かつ強引に右へとノーズを向けた。
タイヤがレールに拘束されているため、車体は道なりに完璧なトレースを描いてカーブを曲がり切ったのだ。
「……す、凄い……! ハンドルに一切触れていないのに……!」
「当たり前だ。今、このカートは『自動車』じゃねえ。レールの強制力に支配された『鉄道』だ」
高見は鼻で笑い、再びハンドルを握ると、今度は力任せに左へと切り込んだ。
「うおっ!?」
若手が身構えるが――カートはピクリとも左へ進まない。ハンドルの操作は完全に無効化され、車体はただひたすらに、レールの敷かれた真っ直ぐな谷底を時速20キロで滑るように進み続ける。
「……物理的なステアリングの奪取。どれだけ酔っ払ってハンドルを振り回そうが、アクセルとブレーキを踏み間違えようが、この谷底のルートから1ミリたりとも逸脱できねえ。木にも壁にも、絶対に激突しない」
後部座席の川島が、満足げに紫煙を吐き出した。
「見事な『鎖』だ、高見。これで成金どもは、自らが運転しているという優越感に浸りながら、実際にはウチのインフラに完全制御されることになる」
カートは、ラドバーン方式で切り裂かれた深い谷底を悠然と進む。
見上げれば、谷を跨ぐように架けられた幾つものペデストリアンデッキ(歩行者用橋)が、朝焼けの空にシルエットとなって浮かび上がっていた。上空は数万人の大衆の道。谷底はVIPの道。人間と車が交わる交差点は、この広大なリゾートにただの一つも存在しない。
やがてカートは、深い森の最深部へと差し掛かった。
レールの終点。そこは、地図にも載っていない、日本の裏面を動かす権力者たちのための『第3層・迎賓館』の秘密の車寄せだった。
キィィィン……。
モーター音が止み、カートが寸分の狂いもなく停止位置にピタリと停まる。揺れ一つない、完璧な試運転の完走だった。
高見が運転席から降り、大きく伸びをした。
「……インフラの血は、末端まで完全に通ったぞ。社長」
川島もゆっくりとカートを降り、まだ薄暗い森の中から、眼下に広がる巨大なリゾートの全貌を見下ろした。
第1層の巨大な温泉ドーム。第2層のエキシビション・フロント。そして、それらを繋ぐ無数の歩道と、谷底のレール。すべてが静寂に包まれている。
それは、誰もいない巨大な舞台装置だった。
「……完璧な器が完成したな」
川島は、残り少なくなった葉巻を携帯灰皿に落とした。
「だが、器はただの器だ。ここに『人間の業(カネと欲)』が流れ込んで初めて、俺たちの独立国家は完成する」
東の空の稜線から、ついに黄金色の朝日が顔を出した。
その強烈な光が、箱根の荒野に現れた巨大なコンクリートの要塞を、誇り高く照らし出していく。
「……さあ、開門の時間だ」
川島が、眼下のゲートに向かって低く、力強く宣言した。
「大衆を入れろ。成金を迎え撃て。……相鉄の独立国家、いよいよ本稼働だ」
インフラ屋たちが血と泥で造り上げた完璧な物理の器に、数万人の人間の「業」が雪崩れ込む。
嵐の前の静けさは破られ、箱根山頂は未曾有の狂乱と熱狂に包まれようとしていた――!




