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第141話 『箱根の岩盤と、地下要塞の産声』

 昭和53年、冬。

 箱根の山頂を吹き抜ける風は、カミソリのように冷たかった。

 だが、その地下数十メートルの巨大な空洞の中は、重機の排気ガスと、数百人の作業員たちが発する熱気で、むせ返るような暑さに包まれていた。

「……ッ!! 鼓膜が破れそうだ……!」

 横浜の本社から視察に訪れた若手社員は、支給されたヘルメットと防塵マスクを押さえながら、悲鳴のような声を上げた。

 目の前では、巨大な油圧ブレーカーを取り付けた重機が、火花を散らしながら箱根の岩盤を乱暴に砕き割っている。飛び散る石の破片。鼓膜を内側から殴りつけるような重低音。

「どうした若えの! 横浜のぬるい風が恋しいか!」

 粉塵の中から、作業着を泥と油で真っ黒にした高見が姿を現した。図面を丸めた筒を指揮棒のように握りしめている。

「ここは、大衆を熱狂させる『第1層』でも、成金がワインを開ける『第2層』でもねえ。……すべての物流を山の腹で処理する、絶対不可視の『地下要塞(アプト式ヤード)』のど真ん中だ!」

 若手社員は、見上げるような巨大な地下空間に圧倒された。

 図面の上では単なる「四角い空間」と「直線」だったものが、今、数万トンの岩盤を物理的にくり抜くことで、暴力的なまでの現実となって立ちはだかっていた。

「……高見さん! 予定より掘削のペースが遅れていると聞きましたが!」

「当たり前だ。箱根を舐めるな。ここは数万年前の火山活動でできたカルデラの外輪山だ。掘れば掘るほど、硬え溶岩の岩盤が牙を剥く」

 高見は岩肌を無造作に蹴りつけた。

「だがな、ダイナマイトと重機で力任せにブチ抜くのは『ただの破壊』だ。……俺たち土木屋の本当の仕事は、この荒れ狂う自然の岩盤の中に、【狂いのない1ミリの精度】を叩き込むことだ」

 高見が指差した先。

 掘り抜かれたばかりの急勾配のトンネルの底に、作業員たちが這いつくばるようにして「鉄の塊」と格闘していた。

 それは、若手が図面で見、そして数ヶ月前の「開山」の日にクレーンで下ろされたあの無骨なレール。急勾配を登るための、アプト式の『ラックレール(歯軌条)』だった。

「……見ろ。普通の線路なら、バラスト(砕石)を敷いて枕木を置きゃあ済む。だが、このアプト式は違う」

 高見の目が、獲物を狙う鷹のように鋭くなった。

「真ん中に敷かれた3列の分厚い鋼鉄の歯車。この位相をズラした歯に、数トンの装甲トラクターの駆動歯車が『完全に』噛み合うことで、この急勾配を滑り落ちずに登ることができる」

 若手は、息を呑んでその作業を見つめた。

 巨大なハンマーを持った男たちが、かけ声と共にラックレールを叩き、固定していく。だが、その横では、精密な測量機器を覗き込む技師が、ミリ単位のズレを大声で指摘していた。

「……もし、岩盤の凹凸や温度変化で、このラックレールの噛み合わせに『1ミリ』でも誤差が出たらどうなると思いますか?」

 若手の問いに、高見はニヤリと笑った。

「歯車がロックして砕け散る。そして、何十トンもの荷物を積んだトラックと装甲トラクターが、ブレーキを失ってこの急勾配を一番下まで一気に滑り落ちる。……大惨事だ。物流は死に、リゾートの首もその瞬間に飛ぶ」

 若手の背筋に冷たい汗が流れた。

 物理的に絶対に滑らない最強のインフラ。それは裏を返せば、「1ミリの妥協も許されない狂気の精密工事」を、この過酷な箱根の地下でやり遂げなければならないということだった。

「だからこそ、土台(基礎)には極限までコンクリートを打ち込み、岩盤と一体化させる。レールの設置は、人間の目と手で、ミリ単位の噛み合わせを確かめながら進める」

 高見はヘルメットの鍔を押し上げ、作業員たちに向かって声を張り上げた。

「おい!! 3番のピッチが甘えぞ!! コンマ5ミリ、右だ!! ボルトを締め直せ!!」

 怒号が飛び交い、火花が散る。

 それは、大自然の荒々しい岩盤と、人間の創り出す緻密な機械工学が、正面から激突する最前線だった。

 数時間後。

 急勾配のトンネルに、最初の100メートルのラックレールが完全に固定された。

 高見は自ら軌道に降り立ち、専用のゲージ(測定器)を3列の歯車に滑らせていく。カシャッ、カシャッ、という冷たい金属音が地下空間に響く。

「……」

 数百人の作業員と若手社員が、固唾を飲んでその背中を見守る。

 やがて、高見はゆっくりと立ち上がり、ゲージを天に向けて突き上げた。

「……誤差ゼロ!! 完璧な『歯』だ!!!」

 ウオォォォォォォッ!!!!!!

 地下要塞に、作業員たちの地鳴りのような歓声が轟いた。

 箱根の硬い岩盤をへし折り、インフラ屋の意地と精密さが、ついに大自然を屈服させた瞬間だった。

「……見たか、若えの。これが現場(土木)だ」

 粉塵と汗に塗れた高見が、ニヤリと笑いかけてきた。

「裏の物流網(地下要塞)の背骨は通った。……次は表だ。あの厄介な『ラドバーン方式』の谷を、地上にブチ抜くぞ」

 川島が描いた「独立国家」の青図は今、高見たち現場の男たちの手によって、圧倒的な熱量と質量を伴いながら、ひとつひとつ現実の要塞へと姿を変えていく。

 箱根山頂を巡る狂気の突貫工事は、いよいよ地上の「歩車分離」という巨大な地形改造へと牙を剥く――!

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