第124話 箱根視察:終わらない大名行列と、焦げるブレーキの匂い
昭和52年(1977年)、冬。
相鉄・京急合同ターミナルが小田原の商業を熱狂の渦に巻き込んでいる頃。
五代と高見の乗った黒塗りのハイヤーは、小田原市街を抜け、箱根の玄関口である「湯本」へと向かう国道1号線を走っていた。
……いや、「走っていた」というのは正確ではない。
小田原駅からわずか数キロ進んだところで、彼らの車は完全にブレーキランプの赤い海に飲み込まれ、ピタッと停止してしまったのだ。
「……おいおい、まだ湯本駅のロータリーすら見えねえぞ。なんだってこんなに混んでやがるんだ」
後部座席でタバコに火をつけながら、高見が苛立たしげに窓の外を見た。
「これが『漏斗の罠』ですよ、高見さん」
五代は懐中時計を確認し、冷ややかに前方の渋滞を見据えた。
「数年前に小田原厚木道路が全面開通し、東京方面から大量のマイカーが高速でこの小田原に流れ込むようになりました。……しかし、ここから先の箱根の山道は、昔と変わらぬ『片側1車線の極狭の道』のまま。太いホースから流れてきた水が、細いストローに殺到すればどうなるか。……物理的なパンク(動脈硬化)を起こすに決まっています」
車は5分待って、ようやく数メートル進む。歩くよりも遅い。
対向車線(下り)もまた、絶望的な大渋滞を起こしていた。
「それに、見てください。あの大渋滞の先頭を」
五代が指差す遥か前方。急勾配のカーブに差し掛かるあたりで、重い資材を積んだ古いトラックが、黒煙を吹きながら時速10キロにも満たないスピードで這い上がっていた。
「……片側1車線で、追い越しスペースはゼロ。つまり、前にああいう『トロい車』が1台でもいれば、それが蓋となって、後ろに何キロもの大名行列が出来上がる。逃げ場のない山道の構造的欠陥です」
その時だった。
開け放った窓から、冬の冷たい空気と共に、**「鼻を突くような強烈な異臭」**が車内に入ってきた。
「……ウッ。なんだこの臭い……ゴムと鉄が焦げたような……」
高見が思わず鼻を覆う。
「……『フェード現象』の臭いですよ」
五代の目が、鋭く細められた。
異臭の元は、対向車線(下り坂)をノロノロと下りてくる車たちからだった。
「箱根の急な下り坂で、渋滞で満足にエンジンブレーキも使えず、運転手はずっとフットブレーキを踏みっぱなしになる。結果、ブレーキパッドが過熱して摩擦力を失い、最悪の場合はブレーキ液が沸騰してペダルがスカスカになる『ベーパーロック』を引き起こす……」
五代の言葉を証明するかのように、少し先の対向車線の路肩で、ボンネットから白煙を吹いて完全に停止している乗用車があった。
路肩が狭いため、その車は車線の半分を塞いでおり、ただでさえ動かない下り車線は、完全に「死滅」していた。
「……ブレーキがイカれて自走不能。レッカー車を呼ぼうにも、この大渋滞で到着するまでに何時間かかるか分からない。……これが、マイカーブームがもたらした『箱根(車道)の限界』です」
***
同じ頃。
国道1号線の渋滞を見下ろす斜面を、小田急の「箱根登山鉄道」の車両が、ガタンゴトンと一定のスピードでゆっくりと登っていた。
車内から眼下の「赤いブレーキランプの列」を見下ろし、小田急の役員たちは嘲笑うようにワイングラスを傾けていた。
「……ふん。馬鹿なマイカーどもだ。あんな鉄の棺桶に何時間も閉じ込められて、せっかくの旅行が台無しだな」
「ええ。やはり箱根の山は、我々小田急の『鉄道』こそが唯一にして絶対の正解なんですよ。車道はすでに限界を超えている」
役員の一人が、小田原の方角に目を向けた。
「京急の連中、駅前にドデカいビルを建てて意気揚々としているようですが……滑稽ですね。あんな大渋滞の道路にバスを放ったところで、客はただ車内でゲロを吐くだけだ。箱根への輸送手段を握っている限り、我々の牙城は絶対に崩れませんよ」
「その通りだ。京急のバスなど、この山ではただの『動く粗大ゴミ』に過ぎんよ」
小田急陣営の笑い声が、登坂する電車のモーター音に紛れて響いていた。
***
再び、地上のハイヤーの中。
一向に進まない車列と、焦げるブレーキの異臭の中で、高見は深く息を吐き出した。
「……分かったよ、五代。お前の言いてえことがな。小田急の連中は、この渋滞とブレーキの焦げた臭いを嗅いで『俺たちの鉄道の勝ちだ』と高笑いしてやがるんだろう」
「ええ。連中にとって、この大渋滞こそが最大の防壁です」
「だがな……」
高見はニヤリと、凶悪な笑みを浮かべた。
「俺たちインフラ屋にとって、この『限界を迎えた絶望的な土地』ってのは……一番腕が鳴るシチュエーションじゃねえか」
五代もまた、ステッキの柄を撫でながら、静かに、だが熱を帯びた声で応えた。
「その通りです。車道が限界なら、車道を捨てればいい。……我々は、小田急の連中が想像もしていない『斜め上の角度』から、この箱根の山を喰い破ります」
渋滞の谷底から見上げる五代の視線は、国道ではなく、そのさらに頭上……急峻な「山の尾根」へと向けられていた。
終わらない大名行列の横で、横浜のインフラ屋たちの「反撃の狼煙」が、静かに上がろうとしていた。




