第122話 空っぽの巨大ビルと、横浜商人の黒船
少し短いです。
昭和52年(1977年)、秋。
ついに小田原駅前の更地に、相鉄・京急連合が威信をかけて建設した「小田原合同ターミナルビル」の巨大な外箱(躯体)が完成した。
しかし、現場事務所に駆け込んできた京急の営業担当者の顔は、土気色に染まっていた。
「……五代常務! ダメです! 地元の商店街やデパートに片っ端からテナント入居の営業をかけていますが、どこも首を縦に振りません!」
「ほう。理由は?」
「『小田急さんとの付き合いがあるから』『よそ者のビルに出店したら、地元で村八分にされる』と……。小田急の奴ら、地元商工会を完全に抱き込んで、ウチのビルへの入居を徹底的にボイコットさせています!」
箱はできた。だが、中身が空っぽなのだ。
どんなに立派な駅ビルを建てても、店が入らなければただの巨大なコンクリートの塊にすぎない。小田急の不動産部門が仕掛けた、地元ネットワークを盾にした「商業の兵糧攻め」は完璧に機能していた。
「……なるほど。田舎の義理人情と既得権益で、俺たちを干し上げようってわけか」
五代はパイプ椅子に深く腰掛け、ステッキの先で床をコツコツと叩いた。その顔には、焦りどころか、底意地の悪い笑みが浮かんでいた。
「……常務! 笑い事じゃありません! このままじゃ開業日にシャッター街になってしまいます!」
「……落ち着け。小田原の田舎商人がウチのビルに入りたくないなら、無理に誘う必要はねえよ」
五代は立ち上がり、窓の外にそびえ立つ空っぽの巨大ビルを見上げた。
「……小田急は大きな勘違いをしている。ここは『小田原の駅ビル』じゃない。俺たち横浜のインフラ屋が、箱根の山をブチ抜くために築いた『最前線基地』だ。……ならば、中に入る兵隊(商人)も、俺たちのシマから連れてくればいいだけの話だろう?」
その日の午後。
小田原駅前のロータリーに、数台の黒塗りの高級車が横付けされた。
降りてきたのは、仕立ての良いスーツを着こなし、葉巻を燻らせ、ギラギラとした欲望の目を隠そうともしない男たち。
彼らこそ、横浜の経済を裏から牛耳る**『伊勢佐木町と桜木町の老舗商人』**たちだった。
――後に、三菱地所と組んで「みなとみらい(ランドマークタワー)」という巨大な利権の塔を築き上げることになる、横浜資本の怪物たちである。
「……よう、五代の旦那。ずいぶんとデカいハコを作ったじゃねえか」
横浜商人の顔役が、駅ビルを見上げてニヤリと笑った。
「……ああ。箱根の玄関口、一等地中の一等地だ。だが、地元の小田急様が怖くて、田舎のネズミどもは一匹も寄り付かなくてね。……どうだ? あんたらに、この城を丸ごと明け渡してやる」
「くくっ……! そいつは傑作だ。義理だの人情だので客が呼べる時代じゃねえってことを、小田原の田舎者どもに教えてやらなきゃならねえな」
横浜の商人たちは、舌舐めずりをした。
彼らにとって「小田急の縄張り」など知ったことではない。むしろ、閉鎖的な地元市場を『横浜の洗練されたブランドと圧倒的な資本力』で蹂躙し、新しい血(利益)を啜る最高の狩り場だった。
数週間後。
小田急の駅長室に、血相を変えた部下が飛び込んできた。
「……ほ、報告します! 京急の駅ビルに、次々とテナントの看板が掛かり始めました! それも、地元では見たこともないような横浜の高級ブティックや、最先端の洋食レストラン、輸入雑貨の店ばかりです!!」
「……なんだと!? 地元の業者は完全に押さえていたはずだぞ!」
「……違います! 奴ら、テナントを小田原から探すのを放棄して、横浜の一等地の店を、そのまま黒船に乗せて小田原に持ち込んできたんです!!」
小田急の役員は、窓から京急の駅ビルを見下ろし、愕然と目を見開いた。
そこには「小田原の地元商店」の姿は一つもない。代わりに、横浜の洗練されたネオンと看板が煌びやかに輝き、オープン前だというのに、目新しいもの好きの小田原の若者や主婦たちが、期待に胸を膨らませて群がり始めていた。
「……義理と人情の防衛線だと? 笑わせるな」
ビルの屋上からその光景を見下ろしていた五代が、タバコの煙をふうっと吐き出した。
「……客ってのはな、新しくて、便利で、面白いほうに流れる。それが資本主義ってもんだ。……小田原の商圏ごと、横浜の胃袋で食い尽くしてやるよ」
小田急の「地元ボイコット」という盾は、横浜商人という強欲な「資本の黒船」の前に、紙切れのように破り捨てられたのだった。




