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TRUE ANGEL  作者: 三九
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終戦

 天の国、カエルス。

 神の住まう社の中、広い庭の巨木がざわりと枝葉を揺らした。

 まるで神の子の帰りを待っていたかのように、ゆっくりと枝をくゆらせる。

 神殿内にいた者でそれに気付いたのは、ごく一部の神だけだった。




 目の前を覆っていた光が薄まり、時雨たちは眩しさに細めていた目を開いた。

 数回瞬きをして辺りを見回せば、目の前には見覚えのある巨大な門。

 カエルスの入口に、四人は立っていた。


「門……ということは、ここはまだカエルスの外か」


 ミカエルが落ち着いた声で呟く。

 下手に門の内側に出ると、すぐに見付かって大騒ぎになっていただろう。


「さ、まずはカエルスの中に入らなくてはいけませんね」


 ルシエルの言葉通り、まずはカエルスに潜入しなくてはならない。

 しかし、堂々と正面の門を開けて入る訳にもいかないだろう。

 何しろこちらは狙われている身、捕まえてくれと言っているようなものだ。


「こっちへ。分かりにくい場所に抜け道があるんだ」


 そう言って先頭を歩き出したのはサディンだった。

 三人は何も言わずにサディンの後をついていく。

 それは長年門番を勤めたサディンが、偶然発見したものだ。

 以来、そこを通ってカストルに買い物に行かせたりしていた。

 先日、時雨がカストルを追ってカエルスの外に迷い出てしまったのも、知らない間に抜け道を通ったからだったのだ。

 この抜け道は住宅街の裏通りの、人気のない場所に繋がっている。

 カエルスを囲む壁が崩れてできた抜け道だ。

 ゼウスに知られていないとは思わないが、少なくとも正面から乗り込むよりはマシだろう。


 カエルスの中に入ったら、後は時間との勝負である。

 神々に見付からないうちに神殿内に忍び込み、今回の戦いの鍵となる人物、ゼウスの娘ジュピターを捜さなければならない。

 その役目はサディンに任されていた。

 唯一ジュピターを見たことがあり、しかもサディンの分身であるカストルの力は探査能力だ。

 ジュピターを捜すのに、これ程適している者は他にいない。

 その間、ミカエルが他の神々と天使たちを引き付けておき、ルシエルが時雨の護衛を努めることになっている。


 しばらくすると、サディンの言っていた抜け道が見えてきた。

 壁にぽっかりと開いた穴は意外に大きく、人一人が手を広げて通れる程だ。

 用心深く周囲を確認して、素早く壁の向こうへと足を踏み入れる。

 しかし、神の庭に入った瞬間、鋭い視線を感じた。

 思わず周囲を見回すが、近くに人影はなく、この視線の主も見当たらない。

 だが見当はついている。

 ゼウスに見られているのだろう。


 まとわりつく視線を振り切るように、ルシエルとミカエルは飛べない二人を抱えて宙に舞った。

 地を走るより、空を駆けた方が速い。


「市民に姿を見られるのは厄介だ。見られないくらいに上昇するぞ」


 ミカエルの言葉に頷き、ルシエルも上へと翔んだ。

 カエルスに住む魂たち全員が、ゼウスの支配下にいるのだ。

 自分たちのことが知られている可能性もある。

 関係ない市民を巻き込む訳にはいかないし、何より神殿から離れた場所で足止めされる訳にはいかない。

 ミカエルは己の能力で見えない防護壁を造り出し、風の抵抗を極力押さえた。

 そのお陰で、ミカエルもルシエルも飛行スピードがぐんと上がる。

 カエルスの街の遥か上空を天使たちが飛んで行くが、市民たちにはまったく気付かれなかった。


 そのまましばらく飛んで行くと、緑の丘の上に佇む白亜の神殿が見えてきた。

 このまま神殿まで行けるかとも思ったが、やはり世の中そんなに甘くないようだ。

 神殿の方から、無数の人影がこちらに近付いてきているのが見える。

 警備の天使たちだ。

 だが、それにしては数が多い。

 警備担当ではない一般天使も、彼らを捕らえるために派遣されたらしい。


 ここでサディンはミカエルから離れ、地に降りた。

 ルシエルは時雨を抱えたまま、神殿を回り込むように滑空する。

 ミカエルはまっすぐに神殿へと向かった。

 当初の予定通り、三手に別れて行動するためだ。


 神殿から飛んできた天使たちは、こちらに飛んでくるのがミカエルだと気付いて騒然となった。

 それもそのはず、彼らはただ、反逆者が来るとしか聞いていなかったのだ。

 神殿の前に広がる平原の上空で、彼らは対峙する。


「ミカエル様……? なぜ貴方が……」


「どのように聞かされているのかは知らぬが、私はゼウスの野望を止めるために来た。そこを空けてくれるか」


 ミカエルの言葉を聞いて、天使たちの間に騒めきが起こる。

 迷いが生じている証拠だ。

 ミカエルは彼らを見渡し、再び口を開いた。


「お前たちと争うつもりはない。そこを通してくれないか」


 一番前にいた警備天使が、無意識のうちにミカエルに道を譲った。

 それにつられるように数人の天使が脇に避けるが、まだミカエルの前に立ちはだかる天使の数は多い。

 ミカエルは何もせずに、じっと天使の動きを待った。

 自分からは手出ししないという意思表示だ。

 天使たちの困惑は次第に高まっていく。

 両者の対峙が続いたのは、ほんの数瞬のことだった。


「ぜ、ゼウス様は反逆者と言ったんだぞ! あそこにいるのはミカエル様じゃない!」


 一人の天使が途惑いを隠そうともせずに叫んだ。

 やはり神の言葉というだけで、天使たちは無条件で従ってしまうのだ。

 予想していたこととは言え、ミカエルは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

 かつての自分を見ているような気分だ。


 忠誠心の強い警備天使が、ミカエルに槍を向け飛び掛かってくる。

 だが、その槍がミカエルに届くことはなかった。

 ミカエルに届く直前に、不可視の防護壁に阻まれるのだ。

 守護の大天使と言われているミカエルの能力は、防御である。

 如何なる攻撃をも通さない、絶対の防護壁を生み出す。

 それはサタンの力を得て、より強力なものになっていた。


「すまんな。少しおとなしくしていてくれ」


 ミカエルは静かに言うと、たった今自分に刃を向けた天使の周りに防護壁を張った。

 防護壁は丸く天使を取り囲み、天使はその中で身動きが取れなくなる。

 その様子を見た他の天使たちが、一斉に槍を構えた。

 困惑を振り払うように声を張り上げて、ミカエルに刃を向ける。

 しかし半数程はその場から動けずに成り行きを見守っていた。

 ミカエルとの力の差に、戦慄を覚えたのだ。

 槍を手にミカエルに向かっていった天使たちは、最初の天使と同じ運命を辿る。

 ミカエルの周囲には動けなくなった天使たちが溢れた。


 ミカエルは彼らを飛び越え、残る天使たちの前に移動する。

 天使たちは力量の差を知り、皆無言で身を引いた。

 だが、ミカエルは進もうとはせず、その場に留まり上を見上げる。

 天使たちもつられて上を見ると、先程まで何もなかった空に、小さな人影が見えた。


「あっははー、だらしないなぁみんなー」


 甲高い少女の声で笑い、その人影は音もなく天使たちとミカエルの間に割って入った。

 鮮やかな桃色の髪を結い上げ、青い服に赤いスカート。背中には可愛らしい羽のついたバッグを背負っている。

 それは時雨が街中で出会った少女だった。


「みんなのアイドル、キューピッドちゃんが来たからにはー、もう反逆者に好き勝手させないんだからー」


 彼女の名はキューピッド。

 れっきとした神々の一人である。


「ねー、ミカエルー。なーんでアナタがここにいるわけー? アタシてっきり、あの陰険眼鏡が来ると思ってたのにー」


 キューピッドは間延びした声で首を傾げる。

 ミカエルはそれには答えず、恭しく礼をした。


「キューピッド様、お変わりないようで何よりです。先日の歌劇は如何でしたか?」


「あー、あれねー、オルフェウスの音楽はやっぱいいわー。またチケット買ってきてー……って、何言ってんのよ。

 んもー、やりにくいなぁ……反逆者なら反逆者らしくー、ふっふっふ、お前の命もここまでだとか言ってよー」


 キューピッドは困ったように頭を掻きながら言う。

 どうやら彼女、悪役と戦うヒロインの役を演じてみたかったらしい。

 ルシエルあたりならそのノリに付き合ってくれそうだが、堅物生真面目なミカエル相手では無理というものだ。

 キューピッドは「つまんなーい」と呟きながら、背中のバッグから折り畳み式の小さな弓を取り出した。

 手早く組み立てると、左手に持ち構える。

 しかし弓には弦はなく、また、射るための矢も持っていない。


「ねー、ミカエルー。なんでゼウス様に逆らうかなー。アタシ、そんなの許さないからねー」


 キューピッドがそう宣言すると同時に、弦のなかった弓に光が収束し、弦と矢が生まれた。

 それは仄かに揺らぐ焔のようだが、キューピッドが手で弾くと、弦はビィンと張って音をたてる。

 矢羽に当たる部分を掴み、キリキリと引いてミカエルに向けた。


「ゼウス様の願いはアタシの夢……邪魔しないでー!」


 キューピッドの叫びと共に一条の矢が放たれた。

 が、それはミカエルに届く前に防護壁に弾かれ、霧散する。

 キューピッドは再度光の矢を生み出し、連続でミカエルに射掛けた。

 そのことごとくが、ミカエルの防護壁に弾かれる。

 元々の力に加え、サタンの力をも借りたミカエルの防護壁は、神の攻撃さえ防ぐことができた。


 キューピッドは一瞬驚愕の表情を浮かべ、それでも矢を射続ける。

 一撃をミカエルに射掛け、矢が弾かれる直前に上空へと身を踊らせる。

 ミカエルが咄嗟に頭上を振り仰ぐと、弓矢を構えたキューピッドが視界に入った。

 キューピッドは下方にいるミカエルに向かって同時に数十本の矢を射る。

 それはキューピッドを中心に放射線状に広がり、ミカエルとその周囲にいる警備天使へと降り注いだ。


「うっ……うわぁぁぁぁ!」


「く……っ!」


 ミカエルは初めて焦りを露にし、全警備天使を覆う程の防護壁を張る。

 重い岩が分厚い壁を叩くような、激しい打撃音が響く。

 思わず身を固くした天使たちの目の前で、光の矢は防護壁に阻まれ弾けて消えた。

 ミカエルが張った防護壁は、辛うじて全ての矢を受けきった。

 衝撃が防護壁を通してミカエルの腕に伝わる。

 腕がジンと痺れて、ミカエルは思わず眉を寄せた。

 そのとき、キューピッドが急降下してミカエルの背後をとった。


「…………!?」


 振り返ったミカエルの目が、驚愕で見開かれる。

 キューピッドはミカエルが防御の姿勢をとる前に、構えた矢を放った。

 目の前で閃く光が、高速で迫ってくる。


「ぐぅ……っ!」


 至近距離からの一撃はミカエルに防護壁を張る間を与えず、咄嗟に身を捻って躱そうとしたミカエルの左肩を貫いた。

 矢は肩を貫通し、その衝撃でミカエルの身体が大きく後ろに傾ぐ。

 傷口からは血が溢れ、ミカエルの白い服を赤く染めた。

 キューピッドはこの機を逃さず、高速で次々と矢を射る。

 ミカエルは右手を前に出し、防護壁を張ろうとしたが、完全に防護壁を形作る前に光の矢が飛んできた。

 矢は防護壁に当たり角度を変え、ミカエルの周囲に拡散する。

 不完全な防護壁では矢の力を削ぎきれず、散らばった光の矢の破片は勢いを殺せずに、ミカエルの後ろで成り行きを見守っていた天使たちを襲った。

 前列にいた天使たちは、小さな矢の欠片を浴びて全身に傷を負う。

 彼らは声をあげることもできず、力なく地に落ちてゆく。

 その光景を目にしたミカエルとキューピッドは、目を見開き動きを止めた。

 ミカエルは彼らが地に落ちる直前に、咄嗟に防護壁を張って天使たちを受けとめた。


「……っ、お前たち! 怪我人を連れて神殿へ行け!」


 ミカエルの声で我に返った天使たちは、慌てて怪我をした仲間を連れて神殿へと飛んだ。

 しかし、半数以上が未だその場に留まっている。

 ミカエルはキューピッドへと視線を戻した。

 キューピッドは弓を握り締め、神殿へと飛んで行く天使たちを見つめている。

 ミカエルはそんな彼女に静かに語り掛けた。


「キューピッド様、このままでは彼らを巻き込んでしまいます。どうか、彼らに撤退するよう命じてください」


 彼らはゼウスの命令に従ってここにいるだけなのだからと、ミカエルは続けた。

 同じ天使である自分の声では、彼らを動かすことはできない。

 だが、神である彼女の命令になら、天使たちは従うだろう。


「あ……アタシ、こんなつもりじゃ……」


 しかしキューピッドは小さく呟き首を振るだけで、ミカエルの言葉など聞こえていないかのようだった。

 自分の矢が、関係ない天使たちを傷つけてしまったことに、ショックを受けているようだ。

 弓を握り締める手に力が入る。

 ミカエルはそんな彼女に優しく言葉を投げ掛けた。


「解っています。貴女はゼウスの命令に従っただけだ。非はありません」


 だが、それはキューピッドには逆効果だったようだ。

 キューピッドは、ミカエルの言葉を聞くとキッとミカエルを睨み付けた。


「わかってるわよ……元はといえばアンタが悪いんでしょー!?

 アンタがゼウス様に逆らうから……邪魔するから!

 ホントの世界に戻すことの何が悪いのー!? ホントの世界を望むことの何が悪いのー!? ホントのママに会いたいって思うことの、何がいけないのー!」


 キューピッドは狂ったように叫びながら、数十本の矢をつがえた。

 ミカエルは驚愕の表情を浮かべ、咄嗟に防護壁を張る。

 その瞬間、キューピッドが矢をつがえた指を放す。

 同時に大量の光の矢が、ミカエルと、その背後にいる大勢の天使たちに降り注いだ。

 激しい雨が身を打つのを避ける術がないように、これだけの数の矢から逃れることは不可能だ。

 天使たちは咄嗟に身を捩り、光の矢が突き刺さるのを少しでも回避しようとする。

 だが、恐怖で身体はその場に貼り付けられたように身動きできなかった。

 皆、思わず目を瞑る。

 しかし。


「お、俺たち、生きてる……?」


「何で……」


 いつまで経っても、矢がその身を貫く瞬間は訪れなかった。

 ゆっくりと目を開けた天使たちの目の前で、無数の光が弾ける。

 天使たちの前には、ミカエルの防護壁が張られていたのだ。

 傷一つない自分の身体を確認してほっと胸を撫で下ろした天使たちは、次の瞬間驚愕のあまり声を失った。

 自分たちの前には厚い防護壁が造られていたのに、それを造ったはずのミカエルは、全身に傷を負って、今にも羽ばたくことを止めて落ちてしまいそうだった。

 矢が放たれた瞬間、ミカエルは自分を護ることよりも、他の天使たちを護ることを優先させた。

 その結果、自分の防護壁は間に合わず、その身に無数の矢を受けて翼はぼろぼろ。腕や脚は切り裂かれ服は真っ赤に染まる。

 そして身体の中央の傷口からはとめどなく血が溢れて、ボタボタと赤い雫が腹部と背部から零れ落ちていく。

 片手で傷口を押さえるが、血は止まりそうになかった。




 その頃、大地を走り神殿内に侵入したサディンは一人、人気のない回廊を走っていた。

 ミカエルが外で天使たちの大半を引き付けているお陰か、ほとんどの天使は上空のミカエルの許へと行ってしまったらしく、誰にも見付からずに済んだ。

 だが、ぐずぐずしてはいられない。

 天使たちが戻ってくる前に、ジュピターを捜さねばならないのだ。


 一度ジュピターと会ったことがあるとは言え、普段彼女がどこに居るかなど見当もつかない。

 己の分身の能力が探索系の力で、本当に良かったと思う。

 サディンは確実に回廊の奥にジュピターの気配を捉えていた。

 このまままっすぐ行けば、会えるはずだ。

 このまま、何事もなければ。

 だが。

 やはり何事もなく任務を完遂することは難しいらしい。

 サディンは全身に冷水を浴びせられたような、強烈な悪寒を感じて飛び退った。

 そのすぐ目の前を、左側の壁が砕ける轟音と共に無数の石片が通り過ぎた。

 もしもあと一歩踏み込んでいたら、巻き込まれていただろう。


 瓦礫と粉塵が静まり視界が開けると、破壊された壁の大穴から、一人の人影が姿を現わした。

 動きやすい軽装の鎧で身を包み、短い髪をまとめ上げた冷たい印象の女性だ。

 戦神アテナ。

 その姿を目にした瞬間、サディンは後退せずに前に出た。

 いくらサタンの力を借りたとは言え、この神と戦ったら無事では済まない。

 逃げることも難しいだろう。

 ならば、他に誰かを呼ばれる前に、おとなしくしてもらうしかない。


 サディンの判断は迅速だった。

 アテナの手が壁の穴に掛かった瞬間に、相手が誰かを悟り行動に移した。

 どうせこちらの位置は知られているのだ。不意討ちなどできはしまい。

 体術ならばサディンも得意とするところ、早めに勝負をつけて計画に支障がないようにせねば。

 サディンがアテナを間合いに捉えたのと、アテナがサディンの前に完全に姿を現わしたのはほぼ同時だった。

 サディンが右手の掌底を突き出した瞬間に、アテナが笑った。


「脆弱な雛鳥が。私に爪を向けてただで済むと思うな!」


 それはほんの瞬きする間だったが、サディンは確かにそう聞いた。

 サディンの一撃がアテナに届く寸前、サディンを上回るスピードでアテナの片足が浮いた。

 それは正確にサディンのこめかみを捉えた。

 サディンは反射的に左腕を上げてガードする。

 が、ほとんど予備動作なしで振り上げたアテナの蹴撃は、ガードごとサディンを弾き飛ばした。

 左腕がギシギシと軋む。

 なんとか体勢を保ち、背中から落ちることは避けた。

 サディンの表情には、焦りの色がはっきりと表れている。

 戦神アテナの強さは予想以上だった。

 サタンの力を得ていなければ、今の一撃でやられていただろう。

 無意識のうちに、背中を冷たい汗が滑り落ちる。

 戦神はその名の通り、戦いの神だ。

 こと戦闘においては、彼女の右に出る者はいない。

 いや、もう一人の戦神アレスならば対抗できるかもしれないが。

 幸いアレスは今、所用で外に出ていた。


 無敵の戦神は、あまりにも脆弱な少年を見下ろした。

 サディンはじりじりと後退していたが、ついに反対側の壁に背が付いた。

 逃げることは許されない。

 サディンは小さく息を吐き出し、ゆっくりと拳を構えた。

 それを見たアテナが獲物を前にした鷹のように剣呑に笑う。

 アテナの闘気が一気に膨らんだ。

 ビリビリと気迫が伝わってきて、サディンはその場に留まっていることさえできなかった。


「う……わああああああ!」


 精一杯の声を張り上げてアテナに挑む。

 余裕の表情で迎え撃つアテナの目の前で、軸足をスイッチして下段に回転蹴りを放つ。

 フェイントのつもりだったが、完全に読まれていた。

 アテナは軽くジャンプして易々と躱す。

 サディンは直ぐ様体勢を立て直し、右に床を蹴った。

 今度は距離を取り、袖の中に仕込んである太い針を投げる。

 それはまっすぐにアテナに向かって飛んだ。

 しかしアテナは軽く身を捻るだけで針を躱した。

 針は何もない空間を虚しく飛び、遠くの床にかすかな音をたてて突き刺さった。

 サディンは努めて冷静に次の手を考える。


 落ち着け。落ち着け。焦るな。今取り乱したら、きっと生きて帰れない。


 サディンは再び針を投げつけながらアテナを回り込むように走る。

 アテナは今度は飛んできた針を、金色のガントレットを装着した腕を振って弾き飛ばした。

 キンと高い音が鳴る。

 サディンはアテナの側面から右の拳を突き出した。

 並みの者ならば完全に不意をついた一撃に、為す術なく倒れるはずだった。

 しかし相手は戦神アテナ。

 優雅とさえ思える動作で振り向き、左手でサディンの拳を受け止めた。

 その手でサディンの拳を掴む。

 押しても引いてもびくともせず、サディンはその場から逃げられない。


「動きは中々のものだ。しかし、弱い」


 アテナが形の良い唇を吊り上げて微笑った。

 サディンの背を悪寒が駆け抜け、恐怖の表情が刻まれる。


「私に手を出したこと、後悔するがいい、小僧」


 サディンの手を掴んだまま、アテナが右の掌底を繰り出す。

 勝てない。と、サディンは直ぐ様悟った。

 いくら魔王の力を借りようと、元々の力の差がありすぎる。

 掌底が当たる直前、アテナはサディンの表情を見て眉をひそめた。

 しかし攻撃は停めることなく、右の掌はサディンの胸に吸い込まれた。


「かはぁっ……!!」


 重い衝撃と共に、ボキボキと肋骨が折れる音を、サディンは確かに聞いた。

 肺から空気が絞り出されるような感覚。

 乾いた呻きが自分の声だと気付いたときには、サディンの身体は小石のように吹き飛び、背後の壁に背中から激突した。

 衝撃で息が詰まる。背骨が軋む。

 壁に罅が入る程の勢いで叩きつけられ、サディンはせり上がってきた血をむせるように吐き出して床に臥した。




 ルシエルと時雨はサディンと同じく神殿内に侵入できていた。

 サディンとは別の入り口から中に入り、静かに奥を目指す。


「……誰もいないな」


「ミカエルが上手く引き付けてくれているんでしょうね」


「……サディンは大丈夫かな」


「平気ですよ。彼は僕よりもずっと強い人ですから」


 小声で言葉を交わしながら歩く。

 それは内心の緊張を誤魔化すためかもしれない。

 二人はどんどん奥へと進んでいった。

 このまま行けば、もうじきゼウスの部屋が見えてくる。

 そこに、いるのだ。この世界の神が。


 ルシエルと時雨は、自らゼウスの許へと向かっている。

 ゼウスに直接会い、話をするために。

 今ならまだ、話し合いで解決すると信じているから。

 こちらの言葉に耳を傾ける可能性は低いけれど、それでも何か行動を起こしたいと、あのとき時雨は言った。

 ミカエルやサディンばかりに危険を押しつけて、自分は隠れているなんて許せなかった。

 そのことを二人に言えば、当然反対されただろう。

 だから、ルシエルだけを説き伏せた。

 百年前、たった一人で無謀な戦に挑んだルシエルだからこそ、話すことができたのだ。

 ミカエルもサディンも、ジュピターを仲間に引き入れたら、時雨を彼女に保護してもらうつもりでいた。

 だから、ルシエルが時雨を連れて神殿へ向かうのを停めなかったのだ。


 重い空気が漂う回廊の奥。

 分厚い扉から、神の存在感が伝わってくる。

 隠そうともしない、神の圧倒的な気配を感じ取り、時雨たちは思わず足を停めた。無意識に息を呑む。

 二人はどちらからともなく、互いの顔を見合わせた。


「……怖いのかよ?」


「時雨こそ、脚が震えてますよ?」


 緊張を誤魔化すように軽口を言い、彼らは再び足を前に踏み出した。

 扉が一歩ずつ近付いてきて、ルシエルは取っ手に手を伸ばす。

 そして静かに引き開けた。


「待っておったぞ……癒しの力を持つ者よ」


「来てやったぜ、傲慢ジジィ」


 広い広い部屋の中、時雨は初めて神と対峙した。

 時雨の隣にルシエルが並ぶ。

 ルシエルの顔は、心なしか青ざめて見えた。

 手を握り締め、ぐっと口を引き結び、何かに耐えるように苦し気な表情を浮かべている。

 時雨はそれに気付かずに、ゼウスの『説得』を始めた。


「なぁじーさん、何で世界を元に戻そうとかするんだよ」


「決まっておろう、この世が偽物だからよ」


「偽物だから何だよ。俺たちはこの世界で生きてんだ! 偽物とか本物とか、関係ねぇんだよ」


 時雨は声を大きくして、一歩ゼウスに踏み出した。

 ルシエルは動かない。


「何で偽物じゃ駄目なんだよ。俺には、この世界で生まれた奴らには、この世界は本物なんだ!」


 また一歩踏み出す。

 そんな時雨を見て、ゼウスは嘲笑した。

 時雨の背後で、ルシエルがびくりと身を竦ませる。


「知らぬ者には解るまいよ。どれ程の苦しみがあったのかを知らぬ、お前たちにはな……」


 ゼウスはちらりとルシエルに目を向けた。

 白い髭に覆われた口許が、ゆっくりと笑みの形に歪められる。


「のう、堕天使よ……」


 ゼウスの声は、ルシエルの表情に恐怖を刻み付けた。




 全身に傷を負った純白の天使は、自らの血で赤く染まった翼でその身を支えていた。

 はばたく度に鈍く痛みが走る。

 腹に開いた穴からは夥しい量の血が流れ、地面に赤い雫を降らせていた。

 ミカエルは空中に身を留めることが困難になってきて、仕方なくゆっくりと降下する。

 満身創痍のミカエル。

 その姿を見て、一人の天使がミカエルの後追い地に降りた。

 満身創痍のミカエル。

 その姿を見て、一人の天使がミカエルの後を追い地に降りた。

 その場に留まっていた他の天使たちも、皆心配そうな表情で彼の後を追う。

 ミカエルは地に足を着けるなり、ふらふらと仰向けに倒れてしまった。

 最初に降り立った天使が、慌ててミカエルを支える。

 その周りに次々と天使が舞い降り、ミカエルに肩を貸した。


 天使たちの肩を借りてやっと立っている状態のミカエルは、未だ空中にいるキューピッドを見上げる。

 キューピッドはカタカタと震える手を握り締め、たった今矢を放った小さな弓を抱き締めた。


「あ、アタシ……アタシは……」


 混乱したように呟き、その顔は血の気が引いたかのように白い。

 眼下では大勢の天使たちに支えられながら、立っていることも辛くなったミカエルが、力なく座り込むところだった。


「キューピッド……様……」


 かすかに聞こえた、必死に呼び掛けるミカエルの声を聞いて、キューピッドはゆっくりと弓を下ろした。

 ここからでは遠くて、ミカエルの声がよく聞こえない。

 どうしてそんなに小さな声で話すんだろう、と下を見ながらぼんやり考える。


 ああ、そうか。ミカエルは怪我をしている。だから大きな声が出せないんだ。

 でも、どうしてそんな死にそうな怪我をしているんだろう。


 ああ、そうだ……

 アタシが、やったんだ。


「ミカエル……!」


 キューピッドは泣きそうな顔で息を呑む。

 なんてことをしてしまったのだろう。

 心の中いっぱいに罪悪感が押し寄せる。

 さっきからミカエルが自分を呼んでいる。

 しかし、その声はかすれてしまってよく聞こえない。

 キューピッドは急いで地面に降り立ち、ミカエルの傍に寄った。


「あ、アタシ……アタシ、ほんとはわかってたの……ゴメンなさい……ゴメンなさい……!」


 キューピッドは必死に謝ったが、俯いてしまってミカエルの顔を見ることはできなかった。


 本当は、いけないことだと解っていた。

 自分の願いのためだけに、関係ない人々を、他の世界の沢山の人々を見殺しにするなど、やってはいけないことだと解っていた。


「それでも……それでももう一度、会いたかったの! ママに会って、謝りたかったの……!」


 その日キューピッドは、些細なことで喧嘩をしてしまった。

 もうママとは口きいてやんないからー!

 そう言い残して家を出た。

 そしてその日、キューピッドが家に帰るその前に、悲劇が訪れたのだ。

 世界が滅び、母とは二度と会えなくなってしまった。

 キューピッドのように、他の世界で生きているのか、それとも、元の世界と共に魂まで滅んでしまったのか……


 もしも、他の世界で生きているのなら、会えるかもしれないね。

 もしも、世界が元に戻ったら、会えるかもしれないね。


 幼い少女の心は、ゼウスのその言葉に縋るしかなかった。

 ミカエルは、目の前で謝り続ける少女を見遣る。

 もし、自分が同じ立場だったらどうしただろうか。

 目の前に可能性の糸があったとしたら、それを手に取ってしまうのではないだろうか。

 たとえその糸を引いたことで、他の誰かが不幸になったとしても。

 だから……


「私……には、貴女を責めることは……できません……貴女、の、想いは……誰もが、願ってしまう、当然の心……」


 ミカエルは、途切れ途切れになりながらも声を絞り出した。

 血に濡れた震える手を、そっとキューピッドに伸ばす。


「貴女、は……心に正直な、だけ……私は、貴女の、そのまっすぐな心が……好きですよ。羨ましい、くらいに……」


 キューピッドは顔を上げてミカエルを見た。

 ミカエルの手を取る。温かい。

 今までずっと堪えていた涙が、ぽろりと一粒零れる。

 その後はもう、止まらなかった。

 キューピッドはミカエルの手を握り締めて泣き続ける。

 ミカエルはそんなキューピッドを静かに見つめていた。


 しかし、穏やかな時間はそう長くは続かなかった。

 ミカエルの傷口からは、血が流れ続けているのだ。

 片手をついて身体を支え、苦し気に肩で息をするミカエルの姿を見て、周囲の天使たちが心配そうな眼差しを向ける。

 ミカエルの状態は思ったよりも芳しくない。

 腹の傷から血が逆流してきて、ミカエルが咳き込んだ。

 その拍子に口から鮮血が飛び散る。

 それを見たキューピッドの顔が青ざめた。


「いや……死んじゃやだ! ゴメンなさいアタシ、絶対ミカエル死なせないから!」


 涙を拭ってミカエルの腕を掴み神殿に運ぼうとするのだが、小さなキューピッドの身体では、ミカエルを運ぶことは到底無理だ。

 ミカエルの周りにいた天使が、両脇からミカエルを支えて立ち上がった。

 キューピッドは彼らの前を飛び、先導に徹する。

 神殿に戻れば、ミカエルは助かる。

 ミカエルの魂を、新たな器に容れることができる。

 だが、ミカエルがそれを拒んだ。

 今神殿に戻れば、中にいるルシエルたちが危ない。

 この天使たちには、ゼウスの命令が下ったままなのだ。


「だめです……今、戻ったら……」


「ナニ言ってんのよ! 早くしなきゃ死んじゃうでしょ!」


「しかし……中にいる時雨たちが……」


「あの子たちに手は出させないから! 約束する、皆にそう伝えるから! だから、言うこと聞きなさい!」


 キューピッドに泣きながらそう言われて、ミカエルは苦笑した。

 不思議と、この幼い神の言うことならば信じることができる気がする。

 ミカエルは静かに頷いて目を閉じた。




 ルシエルの顔が恐怖に引きつっている。

 時雨はそれを驚いたように見つめた。

 何故急にそんな表情をするのか、時雨には解らなかった。

 先程までの軽口はどこへいったのやら、ルシエルはただ、黙って青い顔をゼウスに向けている。

 呼吸は浅く早く、指先がかすかに震えていた。


「……どうしたんだよ、ルシエル?」


 驚きから抜け出した時雨が、ようやく口を開く。

 しかし、その声に返る言葉がない。

 今、ルシエルの心を満たしているのは、恐怖という感情。ひたすらに『恐い』と叫ぶ心の言葉だった。

 恐い恐い恐い恐い恐い……


 何が? 誰が?


 彼が。目の前にいる、神が。


 何故?



 ――だ……め、です……恐い!



 心が恐怖に染まっていき、それがまた恐怖を誘う。

 どくどくと激しく脈打つ自分の心臓の音を聞きながら、ルシエルは動けなくなっていた。


「ルシエル? どうしたんだよ!」


 時雨が大声で呼び掛けるとわずかに反応するものの、時雨を見ることもできず、視線は一点を見つめたまま動かない。

 視線の先を追うと、小柄な老人がさも楽しそうに微笑っていた。

 ぞわりと背筋が寒くなるような、気味の悪い笑みだった。


「お前、何したんだよ!」


 時雨は、自分も恐怖に囚われそうになるのを必死に振り払う。

 ゼウスは時雨の問いに、笑みを深くして答えた。


「恐怖をな、植え付けてやったのよ。その堕天使の心にな」


 二度と反乱する気を起こさないように。

 二度と神に逆らわないように。

 恐怖という感情は、容易く人を支配する。


 ルシエルの心に植え付けた恐怖の種は、ゼウスたち神を前にすると発芽するようになっていた。

 恐怖は増殖し、ルシエルの心を切り刻んでいく。

 ここから逃げ出したい。

 しかし、それだけはやってはいけない。

 時雨を置いて、一人で逃げるなんて。

 ルシエルは震える手をぐっと握り締め、唇を強く噛んだ。

 挫けそうになる己の心を、激しく叱咤するように。

 必死に神の前に立つルシエルを見て、時雨はゼウスとルシエルの間に割って入るように立った。


「おいルシエル! お前こうなること解っててここまで来たのかよ!」


 怒りにも似た時雨の声。

 安全な場所に隠れようと言ったルシエルを、この部屋に来させたのは時雨だった。

 カエルスに戻る前、ルシエルは時雨に言ったのだ。

 ジュピターが仲間になるまでは、安全な場所に隠れていろと。

 しかし時雨はそれを拒んだ。

 ゼウスを説得できるのではないかという、何ら根拠のない夢想のために。

 見方によっては勇敢ともとれる時雨の行動が、今はルシエルを苦しめている。


 どうしてそんな我儘を言ってしまったのだろうか。

 時雨は、自分自身に怒りを感じていた。

 これは勇敢ではない。ただの無謀ではないか。


 時雨は少しでもルシエルからゼウスを遠ざけようと、ゼウスに立ちはだかった。


 戦う力を持たぬ子供が、愚かなことよ。


 ゼウスは口を開かなかったが、時雨にはそんな神の嘲りに満ちた声が聞こえた気がした。


「……下がってください、時雨。貴方を守るのは、僕の役目です」


 背後に聞こえる震える声。

 ルシエルが時雨の肩を掴み、後退させようと軽く引く。

 その手がかすかに震えていて、自分にも恐怖が伝染してきそうな錯覚に陥る。

 だが時雨は退がらなかった。

 必死に強がる子供のように、口の端をにっと吊り上げて笑う。


「何言ってんだよ、ビビってるくせに」


 その声にはいつもの元気が感じられない。

 ゼウスの放つ威圧感に、呑み込まれている。

 すっかり萎縮してしまっている二人に、さらに追い討ちをかけるように、ゼウスは一歩足を踏み出した。

 ルシエルが思わず一歩下がる。時雨は動かず、ゼウスをじっと睨んでいた。


「癒しの力を持つ者よ、わしに従え。世界を在るべき姿に戻すために」


「誰が! そんなのお断りだぜ!」


 ゼウスの誘いに、時雨は首を振る。

 それを見たゼウスの口許に、より一層暗い笑みが浮かんだ。

 時雨のこめかみから、一筋の冷や汗が流れ落ちた。


 とにかく、ルシエルがこの調子では、話し合いさえまともにできない。

 時雨はルシエルの手を掴んで、部屋の外に出ようと走った。

 しかし、扉に辿り着く前に、重い扉が音をたてて閉まる。

 押そうが引こうがびくともせず、時雨は焦った顔をして振り返った。

 ゼウスがゆっくりと近付いてくる。

 時雨はルシエルの手を引いて、部屋の反対側へと走った。

 天井の他にも、この部屋には東側に大きな窓がある。そこから外に出ようとしたのだが……


 時雨の視界の端に、小さな光が走った。

 それに気付いたときには、その光は時雨の足元に突き刺さっていた。

 ガン! というかなり大きな音をたてて、光が突き刺さった場所が抉れる。

 そこから小さな火花が散っていた。

 ゼウスの放った雷だ。

 小さな雷撃だったが、固い石の床には拳ひとつ分程の穴が穿たれている。

 時雨は寸でのところで足を停めた。

 あと少し前に出ていたら、足を撃ち抜かれていたかもしれない。


「考えが甘いことよの」


 ゼウスがゆっくりと口を開く。


「己だけは撃たれぬと思うておったか?」


 時雨がのろのろと首を巡らせて神を見る。


「わしが必要としているのは、お主の中に眠る力のみよ。お主の魂には些かの興味もない。寧ろ、邪魔な魂は消してくれようぞ」


 言葉と共に、ゼウスを取り巻く気が大きく渦巻いた。

 火花のような静電気が走る。


 ルシエルは気力を振り絞り、時雨を庇うように前に立った。


 ゼウスがゆっくり手をかざし、そこに静電気が集まり始める。

 撃たれる!

 と思った瞬間、固く閉ざされた扉が勢い良く開いた。

 時雨もルシエルも、ゼウスさえその音に振り向く。


「もうお止めください、お父様」


 そこにいたのはゼウスの娘、ジュピターだった。




 倒れたサディンを、アテナは怪訝な顔で見下ろした。

 攻撃が当たる直前、サディンは確かに微笑っていたのだ。

 何かを成し遂げたように、勝利を確信しているように。

 それがどうにも不可解で不愉快で、アテナはフンと鼻を鳴らした。

 大股でサディンに近付き、片手で胸ぐらを掴んで軽々と引き上げる。


「あ……くぅ……っ!」


 サディンは痛みに呻いて顔をしかめた。


「貴様、何故笑った。何か隠しているのか?」


 アテナは容赦なくサディンに詰め寄る。

 サディンは苦しげに咳き込み、ようやく声を絞り出した。


「俺の……役目は、あの方を捜し、連れ出すこと……既に、その役目を、果たした」


「何だと?」


 途切れ途切れのサディンの言葉に、アテナは眉をひそめる。


「今頃は、もう一人の俺が、あの方を……彼らの許へ連れて行ったこと、だろう」


「貴様、何を言っている! あの方とは誰だ!」


 アテナは苛々と眉を吊り上げて怒鳴った。

 サディンは再び、かすかに笑みを浮かべる。


「俺の役目は、ゼウスの娘、ジュピター様を連れ出すことだ」


 その言葉を聞いた瞬間に、アテナは驚愕の表情を浮かべた。

 掴んでいたサディンを放り出し、神殿の奥へと走って行く。

 乱暴に下ろされたサディンは、壁に背を預けて座り込み、痛みを堪えて目を閉じた。




 急に開いた扉の音に、時雨もルシエルも、ゼウスさえもそちらを振り向いた。

 そこに立っていたのは、エメラルドの長い髪を優雅に揺らし、質素な白いドレスに身を包んだ女性だった。

 本来ならば見た者を和ませるだろうほがらかな笑みを思わせるその顔は、今は悲しみと怒りが内包され、きつく口を引き結んでいる。

 あの老人の娘とは思えないくらい若く美しいジュピターは、ゼウスとは似ていない鮮やかな新緑色の瞳で時雨たちを見つめた。


「……本当でしたのね。お父様……」


 ジュピターはその目をゼウスに向けた。

 その眼差しは、まるでゼウスを哀れんでいるようにも見える。


「おお……何故お前がここに? 決して部屋から出てはならぬと言うておっただろうに」


 ゼウスは驚きの混じった声で呟いた。

 ジュピターは、後ろに控えていた小さな子供を指し示した。

 その子供は人形のように動かない表情で、丁寧に礼をする。

 サディンの分身、カストルだ。


「彼が私をここへと導いてくださいました」


 サディンは神殿に侵入してすぐに、カストルの探査能力を使ってジュピターの居場所を探った。

 そして二手に分かれ、それぞれジュピターのいる部屋を目指したのだ。

 途中でサディンはアテナに見付かってしまったが、カストルの方は無事にジュピターを連れ出すことに成功していたのだ。


「お父様……どうか、そのようなお考えはお捨てください。ヒトは、過去をやり直すことなどできぬのですよ」


 ジュピターは静かに語り掛けながら、その瞳をゼウスに向けたまま時雨たちの方へと歩みを寄せた。

 ゼウスは困惑した顔のまま、黙って娘の行動を見送る。

 ジュピターは時雨たちの前で足を停めた。


「ごめんなさい……貴方たちには、迷惑をかけてしまいましたね」


 ジュピターはそう言うと深々と礼をした。

 ジュピターの顔を見つめていた時雨は、こんなときだというのに、何となく照れ臭くなって頭を掻いた。

 ジュピターはゼウスに向き直り、静かな決意を秘めた表情でゼウスを見つめる。


「お父様は、私が停めてみせます」


「ジュピター……お前までわしに歯向かうと言うのか」


 ジュピターの言葉を聞き、ゼウスは静かに呟いた。

 ジュピターは、瞳にわずかな悲しみの色を浮かべている。


 娘の嘆きを知り、ゼウスは俯いて小さく肩を震わせた。

 深く嘆息し、両手で頭を抱え静かに首を振る。

 その口許が、にぃっと笑みの形に吊り上がった。

 余りに邪悪な笑みに、そこにいた誰もが戦慄を覚える。

 ゼウスは、今や歪んだ表情を隠そうともせず、天を振り仰ぎ高らかに哄笑した。

「くはははははぁ! 愚かな娘よ。わしに逆らい、死を選ぶか!」


 ゼウスの周囲の空気が渦巻き、静電気が発生して火花が散る。

 その目が、剣呑な光を放った。


「わしに逆らう者など、もういらぬ。ここで悔いながら朽ちるがよいわ!」


 ゼウスの周囲を取り巻く風は、より一層激しさを増していく。

 その身体がふわりと宙に浮き、ゼウスは天に向かって両手を広げた。

 掲げた手に雷光が収束し、一振りの光の槍が生まれる。

 狂える神は怒りに任せて雷の槍を降らせた。

 それは罪人を裁く鉄槌の槍。

 その槍が更に数十本も空中に出現し、時雨たちに降り注いだ。


「うわっ!」


 時雨は思わず身体を庇うように腕を出す。

 しかしもちろん、そんなことで防げる訳がない。

 無防備な時雨たちを守ったのは、ジュピターだった。


「護りを……!」


 ジュピターの声に応えるように、薄い不可視の障壁が現れる。

 障壁は風を纏い、飛び来る雷の槍の軌道を逸らした。

 槍は方々に飛び散り、壁や床に突き刺さる。


 相手が娘であろうと、ゼウスは攻撃の手を緩めない。

 周囲に散らばった雷の槍が融けるように広がり、全方位から一斉に電撃が走った。


「待っ……」


 焦りの表情を浮かべる時雨を守るように、床から壁がせり上がった。


「大地よ……」


 ジュピターの声に従い、壁はその場にいた全員を取り囲み電撃を防ぐ。


 壁が解かれ元に戻ると、そこを見計らってゼウスが両手を振り上げた。

 それと同時に床から太い茨が生える。

 茨は意思を持ったように床を這い、驚愕の表情を浮かべる時雨を狙った。


「お護りください」


 祈るようなジュピターの呟きと共に、迫り来る茨から宿り木が生え、茨は時雨に触れる前に身動きできなくなった。


「どうしたジュピター。防御ばかりでは、わしは停められぬぞ」


 嘲るようなゼウスの声に、しかしジュピターは毅然として言い放った。


「停めてみせます。お父様が、考えを改めるように」


「考えを改めるだと? はぁっはっはっはっ!

 なんと愚かな娘よ!」


 決意の込められたジュピターの言葉を、ゼウスはさも愉快そうに笑った。

 狂気に歪んだ顔を見て、ジュピターは一瞬怯えたような表情になる。


「わしが世界を……真実の世界を甦らせようとしているのは、お前のためなのだぞ」


「な、何を仰っているんですか……?」


 予想もしていなかったゼウスの言葉に、ジュピターは目を見開いた。

 それは時雨とルシエルも同じだったようで、驚愕のあまり声も出せずにいる。


「お前が、本当にわしの娘だと思っておったのか?」


「何を言っているのですか……!」


 ジュピターが声を絞り出すように言う。

 ゼウスは血走った目で愛娘を見下ろした。


「わしの娘は、あの世界が滅んだときに命を落とした。わしは救いたいのだ、愛しい娘を!

 だから、お前を造った」


 時雨がゼウスの発した言葉の意味を理解するのに、瞬き数回分の時間がかかった。

 目の前にいるこの女性は、ゼウスが造り出したものだというのか。

 だとすると、彼女は元の世界の魂ではなく、この世界で生まれた魂だということなのだろうか。

 時雨は、ゼウスの言葉を理解した瞬間に、そう結論づけた。

 今まで、ゼウスが前の世界に拘り続ける理由が、今一つ解らなかった。

 しかし、今のゼウスの言葉がストンと心に落ちてきて、不思議と納得できたのだ。

 これも、リリスの感覚を共有しているからだろうか。


 だが、その事実に一番驚いていたのはジュピターだった。

 ずっと自分はゼウスの娘だと思ってきた。疑いもしなかった。

 それなのに……


「わしは、娘を取り戻したい一心でこの世界を創った。

 元の世界を模倣することで、行き場のなくなった魂たちを集めようとした。

 しかし、娘の魂がこの世界に現れることはなかった」


 ゼウスが語る真実に、全員が息を呑んで耳を傾けていた。


 ゼウスは待った。

 何年も、何十年も、何千年も待った。

 娘が戻ってくると信じて。

 しかし、いつまで待っても、最愛の娘はゼウスの許に戻ってこない。

 何故来てくれないのだ。何が足りないのだ。

 ゼウスはこの世界をより一層元の世界に近付けようと、世界を三層に分けた。

 まず、死すべき者が住まう地上の上に、自分たちを創造の女神に見立て、神の住まう国カエルスを。

 そして創造の女神と対立した魔王が住んだとされる魔界に見立てて、アビスを創った。


 世界は、確実に元の世界に近付いたが、それでも娘は戻らなかった。

 それどころか、死すべき者たちは、ゼウスが知っている史実とは異なる歴史を歩みだしたのだ。

 どんなにゼウスが修正を加えようとも、死すべき者――人間は、ゼウスの思惑とは違う方向に進んでいく。

 これでは、元の世界を模倣した意味がない。


 この世界に娘が戻ることは、不可能なのだろうか。

 それならば、元の世界を復活させればよい。

 この世界を一度滅ぼし、他の数多の世界の欠片を取り戻し、元々の、真の世界を復活させれば、娘の魂は還ってくる。

 ゼウスはそう信じ込んでいた。

 世界を元に戻すために、共にこの世界に移り住んだ者たちの協力を得ようとした。

 反対する者は、皆アビスに堕として呪いをかけた。

 二度と元の世界に戻れぬように、と。

 愛しい者に会いたいと願う者たちは、ゼウスに賛同した。


 もしかしたらその中には、先にアビスに堕とされた者を見て、ゼウスに恐怖し従った者もいたかもしれない。

 ゼウスは、彼らが裏切らないように、見せしめの意味も含めて、アビスへ追放した者に呪いをかけたのだ。

 そして、世界復活の計画が始まった。


「計画の内容は、知っておるだろう?」


 くつくつと笑いながら、ゼウスは時雨に目を向ける。

 時雨は怯みそうになる己を叱咤して、平然を装った。ここで怯えたら、負けだ。


「ああ……俺たち人間の魂を使って、殺人兵器を作ったんだってな!」


 怒りを込めて時雨が叫ぶ。

 しかしゼウスはそんな時雨の言葉も、一笑の下に撥ね付けた。


「ほっ、お主たち死すべき運命の者どもを作ったのはわしだぞ?

 わしの作ったものをどう扱おうがわしの勝手よ」


「てめぇっ!」


 憤る時雨を無視して、ゼウスはジュピターに目を向けた。


「お前もそうだ、紛い物の我が娘よ。

 わしは、この世界を創ったすぐ後にお前を造った。

 娘を模倣し、一からわしが造り上げた。

 しかし、この世界にあるものを代用して造ったお前は、やはりわしの娘にはなれなかった。

 今までに一番の出来だったお前も、わしに牙を向いておるしのぅ……」


 ゼウスは驚愕に目を見開くジュピターを見て、口の端を吊り上げる。


「神殿前に生えている巨木が、何でできているか知っておるか?」


 言いながら、ゼウスは神殿の外、聖樹がある方向を指差した。

 あの、庭に生えている大きな木だ。


「あれはのう、ジュピター。今まで造った我が娘の失敗作の集まりなのだよ」


 ゼウスのその言葉で、ジュピターは完全に顔色を失くした。

 天使たちが聖樹と呼ぶあの大木は、ジュピターたちの屍を養分として成長した木だ。

 肉体に欠損のあるジュピター。

 容れた魂が気に入らなかったジュピター。

 ゼウスに逆らったジュピター。

 ゼウスに失敗作だと判断された娘は、木の養分となって、あの木の根元に折り重なっている。


「お前も、失敗だったようだのぅ」


「そんな……」


 目の前の愛娘を棄てることに、最早何の未練もないのだろう。

 ゼウスはジュピターの目に浮かぶ涙を見ても、邪悪な笑みを崩すことはなかった。


「嘆くことはない。本物のジュピターが戻ったときに、お前は壊す予定だった。それが早まるだけのことよ」


 ゼウスの右手に雷の槍が生まれる。

 それがジュピターに放たれるのを、止めることができる者は、誰もいなかった。

 カストルにも、ルシエルにも、時雨にも、ゼウスに抗する力はない。

 唯一互角の力を持つとされたジュピターも、今や立ち尽くすだけだ。

 雷の槍が迫る。


「ジュピター様ぁっ!」


 時雨の知らない声が、室内に響いた。

 その声の主は、雷の槍がジュピターに当たる直前に、ジュピターを突き飛ばした。


 ひどく、ひどくゆっくりと景色が流れていくように感じた。

 時雨たちが見ている前で、突き飛ばされたジュピターが床に倒れ込み、ジュピターを庇ったアテナの腹に、雷槍が突き刺さった。

 ジュピターが顔を上げたときには雷槍は消え、アテナの腹からは大量の血が溢れ出していた。


「アテナ!」


 ジュピターが悲痛な叫びを上げ、崩れ落ちるアテナを支える。

 アテナの腹部には、大きな穴が穿たれていた。


「アテナ……どうして……」


 蒼白な顔で呟くジュピターの頬を、一筋の涙が伝う。

 アテナは光の消えゆく瞳で、ジュピターを見つめて微笑んだ。


「貴女……を、守る……ことが……ゼウス様、に、言い付か……った、私の……役目……」


 血を零しながら、途切れ途切れになりながら、アテナは話し続ける。


「で、も……それとは、関係……なく……貴女、を……守り……たい……と……」


 すべてを言い終える前に、アテナの全身から力が抜けた。

 ジュピターは両の目から涙を溢れさせ、アテナを横たえて傷口に手をかざす。


「だめ……! 死んではだめですアテナ!

 私なんかより、貴女が……貴女は、生きなければ……!」


 治癒の力を使って傷を塞ごうとするのだが、やはりリリスの力に比べると弱い。


 時雨は、その場から動けなかった。

 リリスの治癒の力を引き出す方法が、解らないのだ。

 ルシエルを助けたときは、無我夢中だった。

 時雨はほとんど意識を失った状態で、リリスの力を行使していた。

 思えば、あのときは時雨の内に眠るリリスが、力を貸してくれたのかもしれない。

 あのときはどうやって治癒の力を使ったのか、まったく覚えていないのだ。

 目の前で、死にそうになっている人がいるのに、自分は何もできない。

 助けられる力があるのに、何もできない。

 時雨の中に、自分自身への苛立ちが募る。


「なんと。愚かな奴よの。失敗作を庇って命を落とすか」


「まだ、死んでいません!」


 嘲り笑うゼウスの言葉を否定するジュピターの声は、ほとんど悲鳴に近かった。

 少しずつだか、アテナの傷は癒えていく。

 しかし、このスピードでは、アテナの体力が尽きる方が早いかもしれない。

 助けられる保証はない。


「ふむ、小僧。リリスの力は使わぬのか?」


 時雨が力の使い方を思い出せないことを知っているかのような口振りで、ゼウスは時雨に問うた。

 時雨は答えられない。

 治癒の力を使いたい。それなのに、使い方が解らない。


「お、俺は……っ」


 握り締めた手が血の気を失っている。目を伏せて俯いてしまった。


 あのときはできたのに、どうして今できないんだ……!

 俺は、こんなにも無力だ……




 ――そんなことないよ。




 時雨の心の中で、声が聞こえた。




「……っ!?」


 時雨がはっと目を開く。

 聞き覚えはないけれど、知っている。

 この声は――


 ――リリス……


 時雨は心で語り掛けた。

 その声なき声に、魂が応える。


 ――きみはもう、知ってるはずだよ?


 時雨の中にリリスの意識が甦る。

 リリスの魂は一つの輪廻を経て時雨の魂に溶け、混ざる。

 時雨の中で、何かが弾けた。


「俺は……俺にできることを、やるだけだ!」


 その目に宿す力強い意思の光が、まっすぐにゼウスを見上げる。

 それでもなお、ゼウスは子供の戯言を聞き流すように笑みを崩さない。


「ふむ、開き直ったところで、お主に何ができるかの」


 ゼウスはまだ、時雨の中の変化に気付いていない。


 そのまま油断していてくれ……!

 場を読み、機を読み、心の流れを読め! 今の俺なら、できるはずだ!


 そして時雨が、口を開く。

 慎重に。しかし、大胆に言うべき言葉を選ぶ。


「確かに、俺は何の力もないガキだよ。リリスの力だって、どうやって引き出せばいいのか解んねぇよ。

 でもな、こんな俺にだって、できることがあるんだ!」


 ゼウスは、面白いものを見るような目で時雨を見下ろす。

 力の使い方も知らない子供が、何をするのかと観察しているのだ。


 ゼウスは、完全に己の優位を確信し、慢心している。

 まだ大丈夫だ、今ならば。


 時雨は隣にいるルシエルの腕を掴んだ。

 ルシエルがはっとして時雨に目を向ける。

 時雨の手の平から、暖かい何かが流れ込んできた。


「ルシエル。この中でゼウスを停められるのは、お前しかいないんだ。

 頼む、力を貸してくれ」


 ルシエルは驚いたように瞬きして、震える手を自身の胸元に当てる。


「ほっほ、怯えた堕天使に縋るか。お主も相当な愚か者よな」


 胸に当てた手を握り締めるルシエルを見下したように笑い、ゼウスは再度雷の槍を造り出す。

 時雨は真剣な表情でルシエルを見つめた。


「ルシエルならやってくれる。俺は、信じてるぜ」


「時雨……」


 ルシエルの目が、時雨の視線を受けとめた。


「今度こそ、その魂からリリスの力を引きずり出してくれようぞ!」


 ゼウスが生み出した一筋の雷が、時雨に向かって撃ち出された。

 雷光が迫る。その瞬間。

 何か別の力が、ゼウスの雷を弾いた。

 それはルシエルが放った、光の珠だ。


「なんだと!?」


 初めて驚愕の声を上げるゼウスの眼下で、ルシエルが時雨を守るように立っていた。


「馬鹿な……お主に植え付けた恐怖の種は、決して取り除くことはできぬはず……!」


 驚きを隠すことができずに、驚愕の呟きがゼウスの口をついて出た。

 ルシエルの顔には、もう恐怖の色は浮かんでいない。

 いっそ穏やかとすら言える表情で、ルシエルは時雨に微笑みかけた。


「ありがとうございます、時雨。貴方が信じてくれるなら、僕は全力でそれに応えますよ」


 時雨は照れ臭そうに笑う。

 ゼウスには理解できなかった。

 何故、恐怖の種から逃れることができたのか。

 ルシエルの心に植え付けた恐怖は、誰にも解けない絶対の呪いだったはずだ。

 術者本人であるゼウスにすら、その呪いを解くことはできないようになっている。

 それを解いたきっかけは、時雨だ。それは間違いない。


 時雨の言葉に感化され、心の力が呪いを打ち破ったのだろうか。

 サタンの助力も、それを後押しした要因なのかもしれない。

 ゼウスはそう結論付けた。

 そうでなければ、恐怖の種の呪いが解けるはずがないではないか。


「ふむ、恐怖の種が消えたからといって、お主にわしを停められるかのぅ?」


 ゼウスは落ち着きを取り戻したようで、長い白髭を一撫でする。

 ルシエルは大きく羽を広げてはばたいた。

 その身体が宙に浮き、足が床から離れる。


「ええ、停めてみせますよ」


 ルシエルはきっぱりと言い放つ。

 それが戦闘の合図となった。


 ルシエルが掌から光の珠を撃ち出す。

 サタンの力によって増幅されたエネルギー弾だ。直撃すれば、たとえゼウスでもひとたまりもない。

 今までその場から動かなかったゼウスが、初めて回避行動をとった。

 高速で飛来する光球を、身を捻って躱す。

 老人とは思えない素早い動きだ。


 ルシエルは瞬時に次の光球を放った。

 以前までは攻撃の前に力を溜め込むタイムラグがあったのだが、サタンの力を得た今では、一瞬でエネルギーを練り上げることができる。

 ゼウスは身を捻った不安定な体勢のまま、ほとんど何の動作もなく雷を生み出した。

 ルシエルの光球は、雷によって相殺される。

 光と雷がぶつかり、その一瞬だけ室内をとてつもない光量で照らした。


 その閃光が消え遣らぬうちに、互いにカウンターの一撃を放つ。

 光球と雷槍は交差して標的を狙うが、一撃を放ったと同時にルシエルは下に、ゼウスは上に飛び攻撃を躱した。


 一進一退の攻防は続く。 否、この戦闘で、ルシエルは防御を一度もしていない。

 彼は、破壊の大天使なのだ。

 身を護る術は持っていない。

 ひたすらに攻撃することが、ルシエルに与えられた力なのだ。


 破壊しか知らぬ天使が、時雨という少年を、そしてこの世界に住まう人間たちを守る戦いに身を投じている。

 それはなんと皮肉なことかと、人々は笑うだろうか。


 しかしここには笑う者はいない。

 ゼウスさえも、今や口許を引き締めてルシエルの攻撃を受け止める。

 ゼウスの顔からは、余裕が消えていた。

 ここまで互角に闘えるとは、思っていなかったのだ。

 ほんの一瞬だけ焦りが過り、それを打ち消すように、ゼウスは雷の矢を放つ。

 ルシエルはそのことごとくを気の力で打ち落とした。


「随分としつこいことよの。早う諦めい、若造が!」


「そちらこそ、いい加減隠居なさったらどうですか、ご老人!」


 互いに嫌味を投げつけ、それと同時に攻撃も放つ。

 雷と光球は空中でぶつかり、盛大に火花が散った。

 舞い散る火花に、視界が一瞬奪われる。

 ゼウスはその一瞬で標的をルシエルから時雨に変更した。


 雷の一撃を、部屋の隅で固唾を呑んで闘いを見守っていた時雨に向けて放つ。

 時雨は突然自分に向かって撃ち出された雷に、驚愕の表情で目を見開いた。


「っ、時雨!」


 それに気付いたルシエルが、咄嗟に時雨を狙う雷を撃ち落とそうとする。

 しかしルシエルが光球を撃つよりも、雷の方が速い。

 時雨には、雷を避ける術がなかった。

 雷は凄まじいスピードで時雨に迫る。


 だが、雷は時雨には当たらなかった。 時雨を護るように飛び出した人形が、左手で雷を打ち払う。

 カストルの左腕は、肘の辺りから砕けた。


「カストル!」


 時雨の悲痛な叫びが響く。

 雷に押されるように後ろに飛ばされたカストルを、時雨が両手で支える。

 自分も静電気で腕が痺れるが、そんなことに構っていられなかった。


 皆が崩れ落ちるカストルに気をとられた、その一瞬の隙にゼウスが時雨に接近する。

 目の前に降り立ったゼウスを目にして、時雨は喉の奥で悲鳴を呑み込んだ。

 ルシエルがゼウスを追うが、間に合わない。


「リリスの力を……!」


 ゼウスの血走った眼が目の前に迫り、その手が時雨の首を絞めた。


「…………っ!」


 時雨は声も出せず、苦悶の表情を浮かべる。

 しかしそのとき、時雨の腕からカストルが抜け出し、低い姿勢から飛び上がるようにゼウスの顎を蹴り上げた。

 思わぬところからくらった衝撃に、ゼウスは思わず時雨から手を放す。

 ゼウスが後ろによろけた隙をついて、カストルと時雨を護るようにルシエルが降り立った。


 人形であるカストルは、痛みを感じない。

 片腕を失くしたままでも、まだ自由に動くことができるのだ。

 唇でも切ったのか、ゼウスの白い髭の中に赤い粒が見える。

 彼は何事もなかったように、髭を一撫でしてそれを拭った。


「ふむ、そやつが人形であったことを失念しておったわ」


「歳をとると、忘れっぽくなっていけませんね」


「何、わしはまだ耄碌しとらんぞ、小僧」


 笑顔の中に敵意を込めて。紡いだ嫌味は、部屋の空気を数段張り詰めたものに変えた。


「弁えい、青二才めが!」


 先に仕掛けたのはゼウスだった。

 雷の槍がまっすぐにルシエルを狙う。

 ルシエルは光の珠を放って迎撃した、つもりだった。

 光の珠が当たる直前に、雷の槍は軌道を変えてルシエルの頭上に停止し、槍から拡散型の電撃に変化した。


「な……っ!?」


 電撃はルシエルを中心に、頭上から降り注ぐ。

 側にいた時雨も巻き込まれそうになったが、寸でのところでカストルが突き飛ばし、電撃から時雨を遠ざけた。

 しかし真下にいたルシエルには、電撃が容赦なく襲い掛かった。

 拡散した電撃は、その分威力は弱まっている。

 だが、攻撃範囲が広いため、避けることは難しい。

 そして電撃は、一度でも触れればその身の自由を奪う。


 人の身体を動かせるのは、脳から送られる電気信号があるからだ。

 そこにまったく別の電気が送られると、どんなに屈強な人間でも身体が硬直して動けなくなる。

 それは天使も同じだ。


 電撃を浴びたルシエルは、身を仰け反らせて硬直する。

 ゼウスは動けないルシエルの心臓目がけて、二撃目を放った。


 肉を穿つ鈍い音をたてて、雷槍がルシエルの翼を撃ち抜いた。

 神経などないカストルが、咄嗟にルシエルの腕を引いたのだ。

 お陰でどうにか心臓に受けることは避けたが、身を躱しきれずに左の羽に当たってしまった。


「くぅっ!」


 苦痛の呻きが口から漏れる。

 翼に開けられた穴から血が溢れ、ルシエルの白いローブを赤く染めた。

 この傷では、飛ぶことはできない。

 宙すらも自在に駆ける神を相手に、これはかなり不利となる。

 ルシエルの表情には、はっきりと焦りの色が刻まれた。


 しかしルシエルは、びりびりと痺れる手を握り締め、歯を食い縛ってゼウスを睨み付ける。

 圧倒的に不利な状況であれ、その瞳から闘志は消えていない。


「……最高神と言えど、大したことはありませんね。僕一人すら、殺すことができないのですから」


 ゼウスを挑発するルシエルだが、その程度で憤慨する程、最高神は未熟ではない。


 敵を挑発して隙を狙っているようだが、そんな手段に頼る様子を見るに、奴は相当焦っているのだろう。


 その読みに絶対の自信があるのか、ゼウスはその場から微動だにしない。

 ルシエルは小さく舌打ちすると自ら動いた。

 大きく踏み出し、ゼウスに接近戦を挑むつもりだろう。

 虚空に身を置くゼウスを引きずり下ろそうと、高く跳躍して手を伸ばす。


 だがその手が届く前に、ゼウスは後ろに退がって距離をとった。

 ルシエルの手が虚しく空を切る、そのとき。

 ルシエルの背から、小柄な人影が飛び出した。


「何!」


 ゼウスが驚いて動きを停めた一瞬、ルシエルの背を踏み台にして飛び出したカストルが、ゼウスの頭上から思い切り踵を振り下ろした。

 右肩に強烈な一撃を受けて、神が地に落ちる。

 背中から床に叩きつけられたゼウスは、衝撃で息が詰まり、すぐに起き上がることができなかった。


「これで!」


「……!」


 そこに追い討ちをかけるように、ルシエルの放った光球が叩き込まれる。

 ゼウスは咄嗟に雷を打ち出し、相殺を謀った。

 しかし、ルシエルはただ光球を撃ち出した訳ではない。

 ゼウスの雷が当たる直前、光の珠は拡散し、雨となってゼウスに降り注いだ。

「バカな!」


「最後です!」


 ゼウスの驚愕の声と、ルシエルの咆哮が重なる。

 降り注ぐ光の雨は、容赦なくゼウスの身体を撃ち貫いた。

 相手を手負いの天使と見縊った、ゼウスの慢心が招いた結果だった。


「……っ、おのれ、小童が……!」


 全身に傷を追ったゼウスだが、エネルギーを拡散させた分、一つ一つの傷は浅い。

 藻掻いて起き上がろうとするゼウスに近寄ってきたのは、時雨だった。


「……もう、やめよう」


 ルシエルが制止するよりも先に、時雨はゼウスの傍に膝をつき、その手を取る。

 手の平を通して、暖かい何かが、ゼウスの心に流れ込んできた。


「何じゃと……!」


 ゼウスが驚愕に声を震わせる。

 時雨から流れ込んでくるものに、治癒の力が感じられないのだ。


「どういうことじゃ……? リリスは……!」


「俺は、リリスじゃない。時雨だよ、じいさん」


 怒りか絶望か、ゼウスの震える声とは対照的に、時雨の声は穏やかだ。


 時雨が今まで、リリスの力を使えなかったのには、理由があった。

 巡る輪廻の中で、魂は少しずつ変化する。

 生まれ変わったときに容姿も記憶も、性格や技術や運命まで、すべてを受け継ぐ者はいない。

 多くの者は記憶だけを受け継いでいたり、容姿と性格を受け継いだ代わりに記憶を失っていたりする。


 時雨の場合は、リリスの記憶のみを受け継いだ。

 時雨には、治癒の力は宿っていなかったのだ。


 ならば何故、致命傷を負ったルシエルの傷を治癒できたのか?

 それはリリスが、ルシエルと交わした約束を果たすために遺した、最後の力だった。

 百年後に助けると言った、あの言葉通り、リリスがルシエルを助けるために遺したもの。

 それはゼウスを騙すための罠でもあった。


 転生してからたった一度だけ、治癒の力を行使できるように、転生した魂の中に力を封印していたのだ。

 ゼウスはその力を嗅ぎとり、時雨の中にリリスの力が眠っていると思い込んだ。


 さらにリリスは、ルシエルを救うために封印を解除すると、リリスの記憶が徐々に甦ってくるように、予め仕掛けを施していた。

 謂わば賭けのようなものである。


 一度リリスを失ったことで、ゼウスは性急に時雨を欲する。

 そのことがミカエルに疑念を抱かせ、ルシエルに真実を語らせる。

 時雨を巻き込んだ責任感で、ルシエルは時雨を守ろうとするだろう。

 真実が語られた後には、ルシエルの言葉を信じる者が現れるかもしれない。

 ルシエルならばアビスの王とも面識があるから、サタンを味方につけることもできるだろう。

 そうすれば、ゼウスに対抗できる可能性が出てくる。

 本当に確実なものなど、何一つなかった。

 百年前にリリスが思いついた、勝てる可能性などないに等しい賭け。

 だがリリスは賭けに勝った。

 リリスの感覚から感情、記憶までもが甦った時雨だけが、その賭けの内容を知っていた。

 だから、こんな勝手な思いつきに付き合わせてしまったルシエルたちには内緒だ。時雨とリリス、二人だけの秘密にしておく。


「あんたがやろうとしてることは……きっと、大事な人を失った人から見たら、正しいことだと思えるんだろうな」


 時雨はゼウスの手を握ったまま語り掛ける。

 ゼウスは何も言わずに時雨の次の言葉を待った。

 ルシエルとカストルは、すぐにゼウスの攻撃に対処できるように、二人の近くに立っているが、時雨の話を邪魔することはなかった。


「でもさ、いくら本物の世界に戻すためだって、切り捨てられる人たちは堪んないよ。

 だって俺たちには、心があるんだぜ?

 この世界の人間は、皆あんたらが造った人形なんだろうけどさ、楽しいとか、悲しいとか、あんたらと同じように感じることができるんだ」


 時雨の穏やかな言葉に、いつしかこの場にいる全員が聴き入っていた。

 アテナの傷を塞いだジュピターも、眠るアテナの横で時雨の言葉を聴いている。

 ゼウスは小さく口を開いた。


「しかし、この世界は偽りじゃ。真実も知らぬまま、人間はわしの創った虚構に騙されておる」


「ついた嘘がでかすぎて、誰も騙されたなんて思わないさ。疑う奴がいなければ、『嘘』は『本当』になるんだ」


 後悔にも似たゼウスの言葉を、時雨は笑って受け入れた。

 この偽りの世界を、誰もが本物と信じて生きているのだ。


 固く閉ざされたゼウスの心に、暖かな時雨の心が触れる。

 今までずっと、気の遠くなるような時間を、最愛の娘を失った悲しみの中で過ごしてきたゼウス。

 その悲嘆が心を閉ざし、娘を思う狂愛で世界を取り戻そうとした。

 悲しみと狂気に塗り固められた心が、少しずつ溶けていくのが判る。

 まるで、時雨が心の傷を癒しているようだと感じた。


 そしてゼウスは、初めて気付いた。

 リリスの力は失われてはいなかった。生まれ変わり、変化したのだと。

 リリスが持っていた身体の傷を癒す力は、時雨の中で心を癒す力に生まれ変わっていた。

 先程ルシエルから恐怖の種が消えたのも、時雨の心を癒す力が作用したからだ。

 愚か者と見下していた人間に、心を救われたという事実が、ゼウスは気に入らなかった。


 元の世界を模倣して造ったはずの世界は、いつも自分が思った方向には進んでくれない。

 まったく、この世界の人間ときたら、わしの手の上にいるはずなのに、気付くと好き勝手に奔走している。


「嫌になるわい」


 心の呟きは、知らずゼウスの口を突いて出た。


「な、なんだよじいさん。そりゃ俺みたいなのに手ぇ握られるのは嫌かもしんないけどさ……」


 ゼウスの呟きを聞き取った時雨が、ばつが悪そうに目を泳がせた。

 自分だって、どうせ握るなら爺の手より若いお姉さんの方がいい。


「そんなこと言っておらんよ。自ら選択肢を捨てたわしが嫌になると言ったんじゃ」


 ゼウスはそう言って静かに笑った。

 その顔は、この世界の人々を慈しみ愛する、神の笑顔だ。


「わしは、娘がここに戻ってくることを待つばかりじゃった。

 何故、自ら逢いに行かなかったのか……歳をとると、動くのが億劫になるからかのぅ……」


 ゼウスは時雨から手を離し、一人で立ち上がった。

 皆が見守る中で、傷だらけの神は穏やかに微笑む。


「この世界のことは、お主たちに任せるとするかの。わしはもう引退じゃ」


 そう言うと好好爺然とした顔から一転、人を食ったような笑みを浮かべて、何もない空間に一枚の大きな鏡を喚びだした。

 ゼウスは躊躇わずに鏡に向かって歩きだす。

 するとその身体は扉をくぐるように、鏡の中に入り込んだではないか。

 時雨たちが驚いて駆け寄るが、誰も鏡の中に入ることはできなかった。

 時雨の手が、鏡の表面を叩く。


「おい、じいさん!」


「何じゃ? わしは娘に逢いに行くんじゃ。邪魔するでない」


「解ってるけど、ここの後始末とか……」


「わしはそこまでお人好しじゃないわい」


 ゼウスはからからと愉快そうに笑い、時雨たちに背を向ける。

 するとゼウスが入った鏡は、まるで床に融けるように消えてしまった。

 鏡が消えて完全に姿が見えなくなる直前、「すまんかったのぅ」と呟く小さな声が聞こえたような気がした。

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