決意
小屋の外に出てみると、確かに先程までとは雰囲気が変わっていた。
辺りにうっすらと漂う霧は深くなり始め、嫌な気配が充満していく。
物陰からこちらを覗き見ているような、針の視線。
その感覚に、時雨は覚えがあった。
最初にここに来たときと、一人で迷い込んでしまったときと。
そのときの雰囲気に酷似している。
思い出してみれば、最初に来たときにルシエルが言っていた。
小鬼が集まってきた、と。
時雨には何のことか解らなかったが、鬼と言うくらいだから地獄の住人なのだろう。
つまり、あのときもアビスへの道が開いていて、そこから小鬼が入り込んできたのだ。
そのときの雰囲気と同じということは、まさに今、この場所にアビスへの道が繋がったということなのだ。
ふと時雨は、疑問に思ったことを訊いてみた。
「サダルメリクは何で解ったんだ? ここに道ができるって」
アビスへの道は、完全に予測不可能だと言っていたのは、サディンだった。
しかし、道が開くのを感知したのもサディンだ。
だが時雨の言葉に、サディンは首を振る。
「道を察知したんじゃない。小鬼の気配を捉えただけだ」
つまり、道が開くのを予想した訳でも、道の出現を知り得た訳でもなく、アビスの獣の気配を感じ取ったのだ。
誰よりも敏感なセンサーは、サディンの能力だった。
彼はミカエルが結界を張ったそのときから、ずっと周囲の気配を探っていたのだ。
「僕が行きましょうか?」
「時間が惜しい。俺が行く」
ルシエルの申し出に、しかしサディンは静かに断り一歩前に出る。
その手には数本の針が握られていた。
針と言っても一本が手と同じくらいの長さがあり、太さも編み棒程ある針だ。
それを指の間に挟み、胸の高さで構える。
霧はだんだん濃くなり、辺り一面が真っ白になっていった。
そんな中、サディンが動いた。
持っていた針を霧の中に投げる。
その直後、霧の中から奇妙な鳴き声が聞こえてきた。
その数三つ。
そしてそれ以降、何も聞こえなくなる。
時雨たちのいる場所からは見えないが、少し離れたところには、三匹の小鬼が頭に数本の針を刺して転がっていた。
まさしく瞬殺である。
大天使クラスの二人と比べても、サディンの戦闘技術は目を見張るものがある。
近、中距離戦ならば、ルシエル以上の実力を発揮するのだ。
「お見事」
ルシエルが手を叩きながら称賛する。
時雨は呆気にとられたようにサディンを見ていた。
「道はまだ消えていないようだな。場所は覚えているか?」
ミカエルは冷静な顔でサディンに尋ねる。
その言葉に頷き返し、サディンは皆の先頭に立って歩き出した。
小鬼の気配が最初に現れた場所に、道がある。
結界の外に出たため、すぐに神に見つかるだろう。
できることならば、その前にアビスへと逃げたい。
少し歩くと、それはあった。
雲のような地面の一部が、赤黒く変色して渦巻いている。
これが道に違いない。
が……
「小さいぞ?」
眉をひそめて時雨が言う。
道は、人が通るにはあまりにも小さかった。
膝くらいまでの大きさしかない小鬼なら楽に通れただろうが、時雨たちには無理だろう。
期待していただけに、皆がっくりと肩を落とした。
「お手上げですかね……」
「しかし他に方法は……」
ルシエルとミカエルが言い合っている中、時雨は興味深そうに道の近くまで近寄って行く。
「危ないぞ、時雨」
「平気だって」
時雨はサディンの声に適当に答え、ひらひらと手を振り、道の前にしゃがんで覗き込んだ。
その瞬間に。
道から細い無数の手が飛び出した。
それはあっと言う間に時雨に絡み付き、物凄い力で道の中へと引きずり込んでいく。
「時雨!」
咄嗟にサディンが時雨の腕を掴むが、青白く細い手の群れはサディンにも絡み、時雨もろとも引きずり込もうとする。
先程まで小さかった道は、今や大きく口を開け二人を飲み込もうとしていた。
異変に気付いたルシエルとミカエルが振り返ると、既に時雨の身体は半分以上道の中に消えており、それに引っ張られるような形でサディンも引き込まれていくところだった。
「何だ!?」
「サディン! 時雨!」
口々に叫びながら二人の許へと駆け寄る。
ルシエルとサディンが互いに手を伸ばす。
指先が触れ、しかしその手を取ることなく、時雨とサディンは道の中に引き込まれていった。
その直後から、道は少しずつ小さくなってゆく。
それに気付いたルシエルとミカエルは、躊躇いもせずに道の中に飛び込んでいった。
長いとも短いとも思える距離を、時雨たちは落ちていった。
細長い腕が全身に絡み付いていて、身動きがとれない。
辛うじて左手に感じるサディンの手を、時雨は離さないように握り締めた。
道の中を通っている最中なのだろう。
周囲に景色はなく、太い筒状の赤黒い壁に、同じような腕が何本も生えていた。
不気味な光景だが、時雨にはそれを見ている余裕はなかった。
落下速度はだんだんと上がり、絡み付いた腕が痛い程に全身を締め付ける。
時雨と共に落ちていくサディンにも、その細い腕が絡み付こうとしていた。
右腕から肩、胸と腕が伸びてくる。
サディンは袖の中に仕込んでいた針を取り出し、自分の腕に絡み付く触手のような腕に突き刺した。
途端にキィィィという甲高い叫びと共に、二人に絡み付いていた腕が解けてゆく。
「時雨……!」
締め付けられた腕が痛むが、構わず力任せに時雨を引き寄せた。
そのまま時雨を守るように抱きかかえ、落下していく。
先の方にかすかな光が見えた。
それを確認すると、光は物凄い速さでサディンたちに迫ってきた。
眩しさに目を細める。
次の瞬間、唐突に視界が開けた。
「ここが……」
呆然と呟くサディン。
空はなく、赤茶けた土が天井となり、この場所を覆っている。
限られた空間でありながら、端の方が見えない程広い。
煙を吐き出す高い山、枯れ木が群生している森、濁った水が溢れる湖。
地下にあるはずのこの国を照らすのは、地獄の王が作った偽りの太陽。
岩肌がむき出しになっている壁からは、威圧感さえ感じる。
天井はかなり高いらしく、それらを見渡してなお地は遠い。
風を切る音を聞きながら、腕の中の時雨を気遣うように確かめる。
先程まできつく締め付けられていたため気を失っているようだが、目立った外傷もなく命に別状はなさそうだ。
サディンは冷静にそれらの状況を観察していた。
焦る気持ちなど微塵もない。
彼は、信じているのだ。
彼が来ることを。
かすかに、鳥のはばたきにも似た音が聞こえた。
そして、一拍の間を置いて景色が止まる。
「サディン! 大丈夫ですか!?」
背中から聞こえた声に、肩越しに振り向き笑みを返す。
「ああ」
わずかに遅れてミカエルが並び、時雨を支える。
「時雨は?」
サディンは時雨をミカエルに任せて、ルシエルに掴まった。
「気を失っているだけです。大事ありません」
「そうか。
とりあえずどこかに降りよう」
ミカエルは時雨を抱いてルシエルを見る。
ルシエルは頷き自分たちの真下の大地を指差した。
「この場所には見覚えがあります。
比較的安全な場所ですから、まずは時雨を休ませましょう」
そう言って下へと降りていく。
ミカエルも後に続いた。
数分間の降下の後、四人は地面に降り立った。
赤茶けた大地は荒れ果てており、所々生えている木々はみな枯れている。
見通しは良いため、魔物に襲われる心配はないだろう。
少しでも近付けば、サディンが気配を察知する。
ミカエルは時雨を寝かせ、怪我がないか調べている。
目立つ外傷もなく、呼吸もしっかりしている。
これならすぐに目が覚めるだろう。
ルシエルとサディンはその近くに立っていた。
周囲に聞こえないように、小声で言葉を交わす。
「サディン、大丈夫ですか?」
ルシエルは言ってサディンの腕を見た。
先程巻き付かれていた腕だ。
袖から見える細い手首に、赤く痕が残っている。
「大丈夫だ。心配ない」
サディンは笑いながら、軽く手を振ってみせた。
間違って痛いとでも言おうものなら、ルシエルのことだ、大騒ぎするに違いない。
それに実際大して痛みもないのだから、大袈裟に騒がれる方がもっとイタイ。
「すみません……僕がもっと早く来ていれば……」
言って肩を落とすルシエルを見て、サディンは眉を寄せる。
「……どうしてお前はいつもそう、マイナス思考なんだ。
今度は来てくれた。それだけで充分だ」
そう言ってルシエルの背を叩く。
あのときは、間に合わなかった。
だが今回は間に合った。
それだけで、充分なのだ。
「サディ……」
「いっ……てぇ〜……」
ルシエルが何か言おうとしたときだ。
時雨の呻くような声が聞こえた。
ルシエルとサディンは、はっとしたように振り向く。
時雨がミカエルに支えられて身を起こすところだった。
「時雨、大丈夫か?」
「怪我はありませんか?」
二人は時雨の側に寄って、片膝をついて口々に言う。
時雨は頭を振りながら
「あー……たぶん平気だ」
と答え、改めて辺りを見回した。
荒涼とした大地や、まばらに生えている木々。
華やかな天国とはかけ離れた、寂れた景色に眉をひそめる。
「ここが地獄……? なんか、想像と違うなぁ……針山とか血の池とかないのかよ」
そんな時雨の普段と変わらぬ物言いに、皆一様に笑みが零れる。
なにはともあれ、大事はなさそうだ。
時雨は差し出されたミカエルの手に掴まって、ゆっくりと立ち上がった。
皆がその周囲に並ぶ。
「で、来たはいいけど、これからどこに向かうんだ?」
時雨の一言にルシエルが笑みを返す。
「僕の記憶に間違いなければ、この先に知り合いの住む村があるんです。ひとまず、そこに行きましょう」
皆、その言葉に従って歩きだした。
荒涼とした大地は、歩く度に赤い砂塵を巻き上げる。
時雨は呑気に喋りながら歩いていたのだが、それに付き合っていたルシエルと一緒に砂埃を吸い込み、二人で激しくむせたので、仕方なく今は黙って歩いている。
この辺りは、どうやらひどく乾燥しているようだ。
そのままどれ程歩いただろう。
同じような景色が続く場所は、時間の感覚をマヒさせる。
実際は一時間も歩いていないのだが、もう何時間も歩き続けた気分だ。
そして皆、この何もない荒れ地の景色に嫌気がさしてきていた。
特に会話もなく歩いて行くと、しばらくして前方に輝くものが見えた。
近付くにつれ、それははっきりとその大きな姿を現わす。
湖だった。
土に覆われた天井付近から明々と照らす太陽の光を、黒い水面に反射させ、地下の密閉された空間にも空気の流れはあるのか、ゆらゆらと小さく波打ちながら濁った水を湛えている。
かなり広大な湖だ。
対岸は見えず、光を反射してキラキラと輝く水平線が見えるのみ。
湖に添って対岸まで歩いたとしたら、一日や二日では辿り着くことはできないだろうと思われた。
かと言って、飛べない二人を担いで湖を飛び越えるのもかなり難しい。
まず間違いなく、対岸に着くまでに疲労して飛べなくなるだろう。
「なんだよ、ルシエル!
これじゃ向こうに行けねえじゃんかよ!」
歩き通しだった疲労感も手伝って、苛立ったように時雨が声を荒げる。
乾燥した空気の中、水も飲めなかったため、その声は少し掠れていた。
近くに誰かが住んでいる気配はないし、都合良くボートがある訳でもない。
困ったように立ち尽くしていると、ゆらりっと水面が揺れた。
濁っていてよく判らないが、水面下に何かいるようだ。
それも、かなりの大きさの。
四人は一斉に振り向いて湖を凝視した。
すると、見計らったかのように水面下にいた物体が水上に現れた。
ざざざしゃばざばぁぁぁっ!
などと盛大な水音と水飛沫を辺りにばらまき、一頭のトカゲにも似た水竜が鎌首もたげてこちらを見ている。
その大きさは、首だけで大人二人分くらいの高さはある。
突然の来客に時雨たちが浮き足立つ中、ただ一人ルシエルが水竜を見つめて声を上げた。
「……サチエ!」
『誰だサチエって!』
三人の声が見事にハモった。
「こっちで仲良くなったんですよ。
僕のことを覚えてて会いにきてくれたんですね」
ルシエルはそう言うと臆した様子もなく水竜に近付き、「よしよし、良い子ですね〜」などと言いながら、身の丈程もある水竜の頭を撫でている。
そんなルシエルの姿を少し離れた場所から見つめる三人。
ただ一人、時雨だけが羨ましそうに指をくわえている。
ルシエルが振り向いて三人を呼んだ。
「そんなとこにいないでこっち来てくださいよ。
サチエが背中貸してくれるそうですよ。この湖を渡れそうです」
その言葉に三人は顔を見合わせ、仕方なしに水竜の方へと近寄る。時雨だけは嬉しそうにわくわくしていたが。
改めて近くで見ると、かなりでかい。
ヒトは自分より大きな生物に対し、無意識に恐怖を感じるものだ。
触りたそうにしていた時雨も、思わず緊張して汗を浮かべる。
水竜の歯はナイフのように鋭く、それを得てしてサチエが肉食であることを物語っている。
噛み付かれたらたまったものではない。
その末路は容易に想像できる。
三人が渋っていると、ルシエルが時雨の手を引いて無理矢理に近寄らせた。
大丈夫だと言っているものの、ルシエルの『大丈夫』はあまり信用できない。
時雨は緊張の面持ちでサチエを見上げた。
目は、意外と可愛かった。
「サチエー! 乗せてくれんのか、ありがとなー。
俺、一度でいいから恐竜に乗ってみたかったんだよ」
それだけで恐怖心はどこかに吹き飛んでしまったらしい。
時雨はサチエの頭に抱きつき、笑いながら頬擦りしていた。
時雨の様子を呆然と眺めていた二人だが、ようやく危険ではないと判断したのか、諦めたような表情でサチエの背中に飛び乗った。
ルシエルが時雨を抱えて背中に乗ると、サチエはゆっくりと方向転換して対岸に向かって泳ぎだした。
結構速度もあり、この分なら数時間もしないで対岸に着くだろう。
ゆらゆらと揺れる水面は黒く汚れている。
しかし水面が黒い分、反射する太陽の光が引き立ち、キラキラと輝いていた。
湖の中央付近にくると、水平線の上にぽつんと佇む無人島に漂流したような錯覚を覚える。
サチエの背中に寝転がって空を見上げれば、赤茶けた土で覆われたドーム状の天井に白々と輝く光。
ゆったりと時が流れてゆく、そんな中で――ルシエルが酔った。
「ううぅえぇぇぇぇ……」
「おまえなぁ……そんなに弱いなら乗らないで飛んでけよ」
サチエの背中でぐったりしているルシエルを、呆れたように見下ろし時雨が呟く。
ルシエルは青くなった顔を上げて時雨を睨んだ。
もっとも、そんな状態で睨まれても、迫力などまったくないが。
「無理ですよ……こんな広い湖、飛んでったら確実に力尽きて落ち……うをえぇぇぇ……」
「あーあー、解ったから黙ってろ」
弱々しく反論するルシエルを軽くあしらい、時雨はサチエの背中に寝転がる。
視界の端では、呆れたような顔をしたサディンがルシエルの背中をさすっているのが見えた。
ミカエルは、黙って前を見ている。
あと半分くらいとはいえ、対岸はまだまだ先だ。
横になっていると、眠気に襲われ欠伸が口をついて出た。
自分でも気付かないうちに疲れが溜っていたのかもしれない。
「疲れたか?」
不意にミカエルに声を掛けられた。
時雨がそちらを見ると、いつの間にかミカエルが近付いてきていて、時雨を見下ろしている。
「ん、ああ、いや、別にそんなんじゃねえよ。眠いだけ」
眠そうに目をこすりつつ時雨は答える。
ミカエルは時雨の隣に座った。
「無理はするな。きみは今、魂を守る肉体を失っている。
魂が剥き出しの状態は疲労が蓄積しやすい。今のうちに休んでおけ」
ミカエルなりの気遣いだろうか。
言うと同時に優しく頭を撫でられた。
子供扱いされているような苛立ちと、人の手の温もりを感じる安心感と。
普段の時雨なら、うざい! と手を払い退けただろう。
だが少なくとも百年以上は生きている――この表現で合っているのかは解らないが――彼からして見れば、自分はまだ子供であろう事実と、疲れたところに感じる優しい掌の感触に、特に何も言わずにゆっくりと目を閉じた。
実際、ひどく疲れていたのだろう。
目を閉じてから数分とかからずに、時雨は深い眠りに落ちていった。
深い眠りに入る直前に、夢を見た。
小さな少年が、笑顔を浮かべて立っていた。ただ、それだけの夢。
しかし時雨は気付いた。
この夢の中で自分に微笑みかけている少年が、リリスなのではないかと。
名前を尋ねる前に、夢は終わってしまった。
深い深い眠りに落ち、夢は暗い闇の中へと消えていった。
しかしその少年の顔は、時雨の脳裏にしっかりと焼き付けられたのだった。
「時雨、着いたぞ」
ミカエルのよく通る声に起こされ、時雨は目を開いた。
何時間くらい寝ていただろう。
疲労はすっかり抜けたものの、まだ少し寝惚けた目を擦りつつ身を起こす。
サチエは岸辺に身を乗り出し、サディンが酔ってでろでろになったルシエルを背負って降りていくところだった。
「立てるか?」
そう言って差し出されたミカエルの手に掴まり立ち上がる。
時雨はまじまじとミカエルの顔を見つめた。
その視線に気付いたのか、ミカエルが訝しげな表情をしたので、時雨は慌てて手を放しぶんぶん首を振る。
「あ、いや違うんだって。
ミカエルって最初冷たい印象だったから、意外と優しいとこあんじゃんとか思ってさ」
何が違うのかは知らないが、自分に不信感を持たれていたわけではないことを知り、ミカエルは柄にもなく安堵の溜め息を吐いた。
やはり、リリスの生まれ変わりということを意識してしまうのだろう。
時雨の言動が気になって仕方ない。
こんなにも心乱れている自分は久しぶりで、ミカエルは小さく苦笑を漏らした。
それに気付き時雨が慌てる。
「あっ、俺、何か変なこと言ったか?」
「いいや。行こう時雨。ルシファーたちが待っている」
そんな時雨の言葉に、ミカエルは口元に笑みを浮かべて首を振った。
不思議そうに首を傾げる時雨の手を引き、背中の大きな白い羽をはばたかせる。
ふわりと、サチエの背から地面に降り立った。
時雨が振り返りサチエに手を振ると、サチエは一声鳴いて別れを告げ、再び濁った湖へと潜っていった。
先程まで天井の頂上付近にあった日はすっかり傾き、辺りは夕焼け色に染められていた。
つまり、それだけ広い湖だったということか。
湖を渡るだけでこんなに時間がかかるとは思ってもみなかった。
その間ずっと酔いと戦っていたルシエルは、もうぼろぼろだ。
サディンの肩を借りてようやく立っている状態である。
案内役の蒼白な顔を見て、三人は嫌が応にも先行きの不安を駆り立てられた。
「……で、これからどっちに向かえばいいんだ?」
ここで黙っていても始まらない。
仕方なく、ミカエルはぐったりしているルシエルに尋ねた。
こんな状態のルシエルに酷とも思うが、道を知っているのがルシエルだけなのだから仕方ない。
ルシエルはゆっくりと重たい手を持ち上げ、枯れ木が重なるように立っている不気味な森を指差した。
ぐねぐねと曲がった枝が幾重にも重なり、森の中はまだ夕方だと言うのに、すでに真っ暗だ。
ここを通らねばならないのか……
皆の心は一つだ。 行きたくない。
だが、時には嫌でもやらなければならないことがある。
これがまさにその時と、半ば諦め混じりに覚悟を決めた。
先頭にミカエルが立ち、後ろに時雨。
その後ろにルシエルを背負ったサディンが続いた。
道の指示はルシエルがする。
どれ程歩いただろう。
すっかり日も落ち、薄暗い森の中はさらに暗い闇に閉ざされた。
すぐ前を歩いているはずのミカエルの背中さえ見えなくなってきて、時雨は不安そうに目をこする。
がさがさと草を踏み歩く音だけが頼りだ。
辺りには、地獄に住む魔物がいるのだろうか。
こちらを観察してくるような視線が、じっとりと絡み付いてくる気がした。
この道で合っているのだろうか。
サディンたちは後ろにいるだろうか。
ミカエルの後ろについて行けているだろうか。
不安に駆られ、前にいるはずのミカエルに手を伸ばす。
手は、空を切った。
慌てて後ろを振り向き手を伸ばす。
だが、すぐ後ろを歩いているはずの二人には届かなかった。
はぐれた!
どこで道を間違えたのだろう。
皆はどこにいるのだろう。
自分は今どこにいるのだろう。
とっさに思考を巡らせ、時雨は辺りを見回した。
「……ミカエル?」
名を呼んでも返事はない。
「サディン? ルシエル!?」
叫んでみても返事はない。
どうやら皆とは、かなり離れた場所にいるようだ。
皆を捜すべきか、ここで皆が来てくれるのを待つべきか。
下手に動き回るよりは待っていた方が良いだろうが、先程から感じる魔物の気配が、それを許してくれそうにない。
奴らは時雨が一人になるのを待っていたのだろう。
気配の数が増え、辺りは異様な雰囲気に包まれた。
走れ!
時雨は誰に言われるでもなく、本能が告げるままに走り出した。
ここにいたら危険だ。
立ち止まったらだめだ。
こういうときの勘には自信がある。
視界のない暗い森の中、木々にぶつからないように道を選んで走る。
しかし、やはり途中で何度も木に引っ掛かったり、足を滑らせたりしてしまう。
その度に魔物に追い付かれそうな恐怖を感じながら、時雨は走った。
そのときだ。
前方の茂みから何かが飛び出した。
時雨は思わず足を止める。
それには見覚えがあった。
「お前は……」
肩で息をしながら時雨が呟いたときだ。
背後に迫ってきていた魔物が飛び出してきた。
狼のような姿をした魔物は、時雨に向かってその鋭い爪を振り下ろした。
約十分程前のことだ。
「時雨がいない!」
最初にそのことに気付いたのはサディンだった。
辺りを警戒するあまり、目の前を歩く時雨を見失ったのは、暗闇で見えなかったためとは言え己の過失だ。
サディンのその声に、前を歩いていたミカエルが振り返る。
ルシエルも幾分顔色が良くなった顔を上げた。
「申し訳ありません……俺がもっと注意していれば……」
悔しそうに唇を噛むサディンの肩を、ミカエルは気にするなと軽く叩く。
「この暗さだ。見失っても仕方ない。
それより、どうやって時雨を捜す?」
「僕が行きましょうか? ここの道を知ってるのは僕だけですし」
サディンの背中から手を挙げるルシエルだが、思った以上に船酔い(サチエ酔い?)はひどく、顔色はまだ元通りではない。
さすがにそんな状態のルシエルを行かせる訳にはいかない。
皆で戻って捜すにしても、手分けして捜すことができなくては効率は悪い。
「あれに行かせよう。きっとそれが一番早い」
静かに言ったのはサディンだった。
サディンの持つ能力なら、時雨を見付けることは可能だろう。
「頼む」
ミカエルは短く言って頷いた。
サディンはルシエルを下ろし、そっと目を閉じる。
だが、この場でサディン自身がセンサーを使うことはしなかった。
サディンの身体が淡く光ったかと思うと、小さな光の球がサディンの身体から分離した。
それはすぐに人型をとる。
感情のない顔、作り物じみた髪に少し大きめの燕尾服。
その身体は木で作られており、身長は子供くらいの人形。
サディンの分身であり、普段は彼の魂の中にいるのだ。
探査能力を持ち、自力で動くこともできる。
サディンが持つ探査能力は、この人形の力なのである。
この人形が魂の中にいる間、サディンは人形の持つ力を自分のものとして扱えるのだ。
この人形はサディンの祖父が生前作ったものだ。
カラクリで動くその人形に、兄という意味のカストルという名を付け、サディンは幼い頃からずっと一緒だった。
ところがサディンがカエルスに来る前に、カストルは壊れてしまったのだ。
しかしサディンの祖父が、まさしく魂を込めて作ったカストルは、壊れて魂だけになってもなお、カエルスでサディンが来るのを待っていた。
そして二人は、カエルスで再び一緒になったのだ。
カストルが他の魂たちと違うのは、サディンの魂と同調し、サディンと魂を共有しているところである。
そのため、天使として能力を授かっているはずのこの人形の背にも、サディン同様羽はない。
サディンが翼を失ったと同時に、カストルの翼も消え去ったのだ。
「時雨を捜してきてくれ」
サディンの命令に頷き、カストルは森の奥へと走り出す。
この人形はサディンの言葉に絶対の服従を誓っている。
彼に任せておけば心配はない。
「僕たちは先に進みましょう。この森を抜けると、すぐですから」
ルシエルの言葉を合図に、三人は歩き出した。
森の出口へと向かって。
狼のような魔物の爪が時雨を襲う。
避けることすらできずに、立ち尽くす時雨と狼の間に割って入ったのは、サディンの人形だった。
小さな身体からは想像もできないような力で、狼の爪を受け止め押し返す。
時雨は呆気にとられてその光景を眺めていた。
目の前で、昼間に見た人形が魔物と戦っている。
時雨はその人形がサディンのものだとは知らないが、自分を守るようにして現れた人形に、どこか安心感を覚えた。
起き上がった魔物は、怒りの矛先を人形に向けて爪を振るう。
人形は相手の力を利用して、正面から受け止めるのではなく、横に軸をずらすことで易々と身を躱す。
二頭相手にも拘らず、その動きが乱れることはない。
動く度に燕尾服の裾が翻る。
無駄のないその動きは、さながら演舞でも見ているかのような錯覚に陥る。
やがて疲れの見え始めた魔物の動きは鈍くなり、その一瞬の隙をついて人形が渾身の力を込めた突きを繰り出した。
魔物はもう一匹を巻き込んで吹っ飛び、木の幹に叩き付けられて止まる。
そのまま二度と動かなかった。
少し乱れた服を直して、人形は時雨の許に小走りでやってきた。
こうしてみると愛嬌のある人形なのだが、先程の戦いを目にした後では、そのギャップが怖い。
どうしたら良いのかと思案する時雨をじっと見上げ、人形は手を差し出した。
「……え?」
時雨は途惑いがちにその手を取る。
すると人形は時雨の手を引いて歩き出した。
まるでついて来いとでも言うように。
時雨は不安そうな顔をしつつも、人形に従い歩きだす。
人形だからか、歩いている途中会話はない。
なんとなく気まずい沈黙の中、手をつないで歩く時雨と人形。
人形の身長が低いため、遠目には幼児誘拐にも見えたりするのだが、幸い目撃者もいないので、誰も勘違いすることはないだろう。
二人はただ黙々と森の出口へと向かって足を進めた。
ルシエルたちは一足先に森を抜けていた。
辺りはすっかり暗くなり、天井には薄赤く光る月が昇り始めていた。
時雨たちが心配だが、あまり時間を掛ける訳にもいかない。
三人はひとまず、ルシエルの知り合いが住むという村に向かった。
先刻のルシエルの言葉通り、森を抜けてすぐに建物らしき陰が見えてきた。
小さな村は、しんと静まり返っている。
誰も住んでいない訳ではない。
その証拠に村人の気配は家の中にあるし、稀に窓の隙間から三人を覗く人影が見えた。
見知らぬ人物を警戒してのことか、単に夜だから家にいるのか。
村の入り口付近で立ち止まり、周囲の様子を窺っていた三人だが、意を決して村に足を踏み入れた。
ざくざくと雑草を踏む音が辺りに響く。
地獄の村は、何とも異様な雰囲気の村だった。
ごく普通の民家風の家があったかと思えば、その隣に建っているのは泥を固めたような丸い家だったり、巨大な木をくりぬいて作ったような家もあった。
建築様式が、時代も地方もバラバラだ。
ルシエルはそのうち、一際大きな大木に半分同化しているような形の家の前で足を止めた。
レンガ造りの中世風の家の後ろ半分が、木の根元にめり込んでいる。
ルシエルたちがその家の玄関先で立ち止まっていると、内側から玄関の扉が開かれた。
ギィ、と扉が引かれるかすかな音がして、続いて扉の向こうから一人の女性が現れた。
金色の長い髪に黒い服の、目付きのキツイ美貌の女性だ。
その女性は三人を一瞥すると、ルシエルに顔を向け顔をしかめる。
「ルシエル……ここには来るなと言ったはずだよ。何しに来たんだい?
それも、天使サマなんか連れてさぁ」
女性の言葉は冷たい。
アビスの住人は、やはり天使をあまり良く思ってはいないようだ。
「そんなこと言わないでくださいよ。僕とメフィの仲じゃないですか」
まったく動じずに笑みさえ浮かべて言うルシエルに、ミカエルとサディンは内心ハラハラしていた。
ルシエルがメフィと呼んだ女性……その姿を目にしただけで判る。
強い。
大天使であるミカエルと同等か、或いはそれ以上の力を持っているのではないだろうか。
知らず流れる冷や汗を拭い、ミカエルは成り行きを見守った。
「どんな仲だい。アタシはあんたに言ったはずだよ、二度と来るなってね」
「貴女しか頼れる人がいないんですよ。サタンに会えるように、取り計らってくださいませんか?」
ルシエルの必死の交渉中に出た、サタンという単語にメフィの目が更にきつくなった。
サタンというのは、このアビスの最高責任者である。
カエルスでいうところのゼウスと、同等の立場だ。
そのサタンに、しかも敵対しているはずの天使が会わせろと言うのだから、それは無茶な話というものである。
メフィの顔が険しくなるのも頷ける。
「あんた……今度は何を企んでるんだい?」
呆れたような声で肩をすくめ言うメフィに、ルシエルはただ笑みを返すだけだった。
メフィは溜め息を吐いて髪を掻き上げる。
メフィは三人を順に見て言った。
「あと一人いるんだろ? そいつが来るまでなら、うちにおいてやるよ」
メフィのその言葉に、三人は驚愕の表情を浮かべる。
時雨がいることなど、ただの一言も言っていないのに。
なぜ知っているのか?
三人の困惑を見てとったか、メフィはくすりと笑い扉を開ける。
「あの人はちゃぁんと見てたのさ。あんたらが来たのも、ここに向かってるのも。
さあ、入りな。それとも、そこで突っ立ってる方がいいのかい?」
あの人というのは、恐らくサタンのことだろう。
そして、四人がここに向かっていることを、何らかの方法で先にメフィに伝えた。
さすがは地獄王といったところか。
ルシエルたちは互いの顔を見て頷くと、メフィに促されるままに家の中に入っていった。
家の中は到ってシンプルだった。
必要最小限の家具類が部屋の隅に置いてあるだけで、飾りなどは一切ない。
メフィに言わせれば、飾りなどあっても鬱陶しいだけだそうだ。
一番広い部屋に通されると、部屋の中央にある円卓を囲むように椅子に座った。
しばらくの間は気まずい沈黙が辺りを支配していた。
何を話すでもなく、各々が椅子に腰かけたまま動こうともしない。
ルシエルだけはお茶を煎れようかとか、つまみでも作ろうかとか、色々と行動を起こそうとしているのだが、その度にメフィが牽制するのだ。
勝手に家の中をうろうろされたくないのだろう。
かと言って、メフィ自身はお茶の一杯も出すつもりはないらしい。
そのままでさらに数分が経過したときだ。
サディンがふと顔を上げた。
外を見ようと首を巡らせるが、生憎この部屋に窓はない。
仕方なく、サディンはルシエルに言う。
「時雨が来た」
短く呟かれたその一言に、ルシエルは立ち上がった。
「では、出迎えに行ってきますね」
さすがにそれにはメフィも口を挟むつもりはないらしく、ルシエルは一人家の入り口へと歩いていった。
ルシエルが出ていってから数分もしないうちに、時雨と人形がルシエルに連れられて部屋に戻ってきた。
時雨は物珍しそうに辺りを見回していたが、サディンとミカエルの姿に気付き笑顔で駆け寄った。
「あー、良かったぁー! お前らも無事だったんだな!」
いつもと変わらない時雨の様子に、サディンとミカエルの顔にも笑みが戻る。
「それはこちらの台詞だ」
「良かった。ちゃんとカストルに会えたんだな」
呆れたようなミカエルと、安心した様子のサディン。
二人の反応はばらばらだったが、時雨を心配していた様子は伝わってくる。
「カストル?」
時雨は、サディンの台詞の中に出てきたカストルという単語に首を傾げた。
サディンは人形を指差して言う。
「あの人形のことだ。名前はカストル」
簡潔に説明すると人形を手招きする。
人形は素直にサディンの側まで近付いてきて、一瞬その身体か光ったかと思うと、人形の姿はサディンの身体に溶けこむように消えていた。
「へぇー、すげぇなぁ……ルシエルやミカエルも出せるのか?」
目を輝かせて問う時雨に、ミカエルは首を振る。
「いや、サダルメリクだけだ」
何やら和気藹々と話をする三人を見て、メフィは口の端を持ち上げる。
「なんだい、さっきまでと全然違うじゃないか、お二人さん。そんなにその坊やが心配だったのかい?」
「…………」
メフィに言われ、ミカエルとサディンは互いに顔を見合わせた。
心配だったのはあるが、カストルがついていたのだから、ある程度の安心感はあった。
何故か時雨の顔を見た瞬間に、緊張がほぐれて自然と笑みが浮かんだのだ。
時雨には、人の心を和ませる何かがあるのかもしれない。
メフィはそっと時雨を盗み見た。
見た限りでは、平和ボケしている普通の子供にしか見えない。
だが、その口元は知らず知らずのうちに綻んでいた。
それを見たルシエルは、指先でメフィの肩を軽く叩く。
それでようやく自分が笑っていることに気付き、メフィは頭を振って表情を引き締めた。
「さ、さあ、坊やも来たんだ。もうここで待ってる用はないだろ?
とっととサタンのとこに行っちまいな」
メフィに言われてサディンとミカエルはすっと立ち上がった。
事情を知らない時雨だけが、ぽかんとした顔で四人を見回している。
「わかってますよ。貴女にはもう迷惑は掛けません」
ルシエルがそう言って、部屋を出て行こうとしたときだ。
ごぎゅきゅるるるるぃ
奇妙な音が部屋の中に鳴り響いた。
皆、一斉に音の出所に目を向ける。
即ち、時雨の腹に。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
ルシエル、メフィ、サディン、ミカエル、四人の視線が時雨に集まる中、時雨は一人恥ずかしそうに顔を真っ赤にして怒鳴った。
「なっ……何だよ俺だよ悪いかよっ! 腹が減っちまったもんはしょーがねーだろうが! こちとら今日は寝坊しちまったから朝から何も食ってねえんだよ! だいたい、死んでるのに腹が減るっておかしくねぇ!? 幽霊のくせに腹が減るなんてどーゆー造りしてんだよこっちが聞きたいよ何とか言えよコラァ!」
ワンブレスでここまで言えるのは称賛に値する。
が、ほとんど逆ギレである。
ぜえぜえと肩で息をする時雨を見て、四人は一斉に吹き出した。
「はっ、あっはははははっ!
こりゃいいや! あんた最高だよ!」
「いやぁ、そんなこと言われましても、僕にも分かりませんからねぇ……でも、お腹が空くのは元気な証拠ですよ」
腹を抱えて目に涙を溜めながら、テーブルをばごんばごん叩いて大笑いするメフィと、笑いを隠そうともせず、にやにやした顔で時雨を励ますルシエル。
サディンとミカエルは後ろを向いてぷるぷると震えている。
笑いを堪えているのだろう。
そんな四人の反応に、時雨は益々顔を赤くした。
「うっ、うっ、うっ、うるせー! 腹減ったんだよ俺は! 何か食わせろこんチクショー!」
もはやヤケになって叫ぶ時雨に、メフィは笑いながら言う。
「ほんと良いねぇ、あんた、気に入ったよ! 飯くらい食わせてやるから、そこでおとなしく待ってな」
時雨の肩をぽんと叩き、目に浮かんだ涙を拭って隣の部屋へと移動した。
しかし、何故かそれを見た途端ルシエルの顔色が変わる。
ルシエルは慌てて時雨の肩を掴んで言った。
「時雨! あなた、何てことを!」
ルシエルのこんなに真剣な顔を見るのは初めてだった。
額に冷や汗を浮かべ、時雨の肩に置いた手がかたかたと震える。
その緊迫した様子に、時雨もぴたりと騒ぐのを止めた。
サディンとミカエルも、思わず口をつぐみルシエルを見遣る。
ルシエルは震える声で囁いた。
「……彼女は、この界隈ではとても有名なんです。
その通り名は『デス・テイスト』(死の味)
彼女の料理を食べた者は、あまりの不味さに胃がただれて二度と物が食べられなくなるという……」
ルシエルはそこで言葉を切った。
しばしの沈黙。
「……俺が手伝ってくる……」
そう言ってメフィの後を追ったのはサディンだった。
その後ろ姿を見送って、ルシエルとミカエルはほっと息を吐く。
どうやら、料理で即死は免れることができそうだ。
「……サディンて、料理できんの?」
何も知らない時雨は疑わしげにルシエルを見る。
「何を言ってるんですか。サディンの手料理は最高ですよ」
ルシエルの演技掛った口調と仕草に、時雨は胡散臭そうに半眼になった。
だが、先程のルシエルの慌て様から考えると、サディンの料理の腕は確かなものなのだろう。
「僕は毎日味見してましたからね。保証しますよ」
それは、たかりに行っていたの間違いでは?
密かに思うミカエルだったが、その事実に時雨は気付いていないようだった。
三人はそれぞれ椅子に座り、料理ができるのを待った。
やがて良い香りが部屋に漂い始める。
どうやらサディンの助っ人のお陰で、壊滅的料理は食べずに済みそうだ。
数分後には両手に料理の乗った皿を持って、サディンとメフィが戻ってきた。
何かの具材がたっぷり入ったシチューに、何かの肉の香草蒸し、何かの葉をふんわりと盛り付けたサラダには得体の知れないドレッシングがかかっている。
パンはパンに見えるが……
そう。よくよく考えればここは地獄。
一般的に使われている食材が、時雨が今までに食べてきたものと同じとは限らない。
それはカエルスにも言えることなのだが、何と言うか、おどろおどろしい雰囲気が満載のアビスでは、やはりどうしても気になるのだ。
しかも、自分は今、それを食べようとしている。
見た目は普通、いや、一流レストランにも負けない出来栄えだし、漂う香りも決して悪くない。むしろ食欲をそそる。
だが、肝心の中身が解らない。
料理を並べられ、その手にナイフとフォークを握った瞬間に、時雨はこの可能性に気付いてしまった。
まさか、死人の肉とか使っているんじゃなかろうかと。
サディンも一緒に作っていたのだから、毒物が混入していることはないだろう。
が、得体の知れない料理を前に、にこにこ笑いながら皆で食事など、余程肝の座った人間でないとできない。
時雨は恐る恐る訊いてみた。
「あの……これって、何の肉使ってんの……?」
びくびくしながら尋ねる時雨を見て、メフィは思わず吹き出した。
「あっはっは! 安心しなよ、食えないもんは使ってないから。
男だろう? 細かいことぐじぐじ気にしてんじゃないよ!」
そう言いながら近付いてきて、時雨の背中に一発平手打ちをぶち込んだ。
息が詰まりかけるが、そう言われては食べない訳にもいかない。
そもそも、何か食わせろと言ったのは時雨本人だ。
時雨は思いきって香草蒸しを小さく切り、一口食べてみた。
舌の上に広がるまろやかな味と香り。
嚼む程に深みを増す味わいは、今までに食べたどんな料理よりも上品で……
「う、うまいっ!」
時雨は思わず叫んでいた。
「だろ? いっぱい食って力つけな」
時雨の一言に機嫌を良くしたメフィは、にこやかに笑みを浮かべて言う。
心なしか自慢そうにしているのは、見間違いではないだろう。
「あ、やっぱり美味しいんですね。
メフィも作ってたから心配しましたけど、さすがサディンですね」
時雨を毒見に使っていたような台詞をサラリと吐き、さらにメフィの神経を逆撫でするような台詞も付け足して、ルシエルがナイフとフォークを手に取る。
案の定、一瞬にして怒りの表情になったメフィから強烈な右ストレートをくらい、ルシエルは派手に吹っ飛んだ。
その様子を哀れみの目で見つめながらも、ミカエルは黙々と料理を口に運んでいる。
サディンはオロオロしながらルシエルとメフィを交互に見つめていたが、途中で諦めて料理を食べ始めた。
三人が談笑するその背後で、ルシエルはメフィにぼこぼこにブン殴られている。
楽しい時間が過ぎるのは、あっと言う間だ。
結局メフィに料理を食べさせてもらえなかったルシエルは、サディンがこっそり作っておいてくれたホットドッグを懐に忍ばせることになった。
もうしばらくはサディンに頭が上がらないだろう。
食事の後、とても清々しい笑みを浮かべるメフィに、苦笑いを浮かべながら別れの挨拶を告げて三人は村を後にした。
至福の笑みを浮かべてホットドッグを頬張りながら歩くルシエルを横目に、ミカエルが尋ねる。
「これからどちらに向かえば良いのだ?」
何しろメフィの家ではルシエルは殴られていただけで、今後の進路も対策もまったく話し合うことができなかった。
ルシエルは最後の一口を口に放り込み、指についたケチャップを舐めつつモゴモゴと言う。
「ふま、もいあえむははんのみおえ……」
「飲み込んでから喋れ」
ミカエルの正当なツッコミにルシエルはもぐもぐ口を動かし、満足そうな顔で口の中のものを嚥下する。
懐から取り出したハンカチで舐めた指を拭き、ミカエルに顔を向け説明を始めた。
「やはりサタンの城に行かなくてはならないでしょうね。
何にしても、彼の協力なくしては、あの神に対抗できません」
神に対抗……
改めて言葉にすると、その重みを感じる。
神話でもおとぎ話でも、神に戦いを挑んだ者の結末は悲惨だ。
それでもなお、神と戦おうとしている。
そのために悪魔の力を借りようと言うのだから、自分たちは既に天使などではなく魔と同列だ。
それでも、やらねばならないのだろう。
そのためには、魔王の住まう城へ行かなければ。
城までの道のりは遠い。
結局今日中には辿り着けず、村から離れた荒野で野宿することになった。
村に泊めてもらいたかったのだが、村人たちは天使を毛嫌していたので諦めたのである。
寝込みを襲われるよりは、野宿の方がマシだ。
辺りの枯れ木を集めて火をおこす。
小さな炎だがそれでも十分暖かく、時雨はすぐにうとうとし始めた。
「時雨、眠ってて構いませんよ? 見張りは僕たちがやりますから」
気遣うように言ってくるルシエルを、時雨は眠そうな目で見上げた。
「俺だけ寝るのも悪いじゃん」
目をこすりながら口を尖らせる。
その様は夜更かししている子供とそっくりだ。
「ならば交代で番をしよう。時間になったら起こすから、それまで休んでくれ」
ミカエルが寄ってきて時雨の肩を叩く。
時雨もそれならばと納得して横になった。
どうやら、ミカエルは時雨の扱いを心得ているようだ。
「……上手いですね。時雨を納得させるの」
時雨の寝息が聞こえてから、ルシエルが感心したようにミカエルを見る。
ミカエルは小さく笑って頷いた。
「お前は子供の扱い方を知らないからな」
時雨が聞いたら怒りそうな台詞だが、ミカエルはそんなことは気にしていないようだ。
ルシエルは肩をすくめミカエルの向かい側に座る。
丁度そのとき、周囲の偵察に行っていたサディンが帰ってきた。
「辺りに危険なものは無さそうです。
でも見張りは必要でしょうね」
簡潔にミカエルに報告してから、ミカエルとルシエルの間に座る。
焚き火の炎がゆらりと揺れた。
サディンの正面で眠る時雨の顔が、炎を透かして見える。
「じゃあ僕が見張りを」
「先に寝てろ」
口を開いたルシエルを牽制するかのように、ぴしゃりと言い放つサディン。
ゼウスに撃たれ、サチエに酔って、メフィにぼこぼこにされたルシエルの体調を気遣ってのことだろうが、サディンはそれを正直に言おうとはしない。
心配だからと正直に言うと、ルシエルのことだ、調子に乗って舞い上がるか、遠慮して起きているかのどちらかだ。
今のルシエルはサディンに負い目を感じている。
サディンの言うことには逆らわないだろう。
まして、ああもきっぱりはっきり言われて、それに反論したら力ずくで眠らされるかもしれない。
ルシエルは渋々横になった。
固い地面の上では中々眠れないが、目を閉じれば次第にうとうとしてくる。
それを見てミカエルが口を開いた。
「お前は眠らなくて良いのか?」
それは暗に自分が見張りをやるから、サディンは寝ていろと言っているようなものだが、それを理解した上でサディンは首を横に振った。
「慣れていますから……ミカエル様こそ、お休みください」
慣れているというのは見張りのことだろう。
彼は百年近く門番として生きてきたのだから。
気遣うように自分を見つめるミカエルに気付き、サディンは笑みを浮かべる。
「……門の守りは、辛くはなかったか?」
唐突にミカエルに尋ねられた。
サディンはしばらく黙っていたが、笑みだけは絶やさずに口を開く。
「辛くはないと言えば、嘘になるでしょうね……
何度逃げ出そうとしたか……それでも、俺は門を守り続けられたことを誇りに思います」
「そうか……」
ミカエルは静かに目を伏せる。
彼は、処刑された当時のサディンを知っている。
背中の大きな傷には大雑把な手当てしかされず、暗く寒い一室に入れられ監視されていた。
傷は痛むだろう。それでも満足な治療はされず、ミカエルがその部屋に訪れたとき、サディンはまるで廃人のような目をしていた。
あんな目をしたサディンを見たのは初めてだった。
それまでのサディンは外見年齢と相違なく、よく笑いよく表情の動く少年だったのに。
彼の暗い瞳の闇を救ったのは、何だったのだろう……
「ミカエル様?」
ミカエルの思考を止めたのはサディンの声だった。
顔を上げれば、こちらを見ていたサディンと目が合う。
「いや、何でもない。では先に休ませてもらうとしよう」
その瞳から、完全に闇が消えたわけではないが、今はもう真っ直ぐに前を見つめることができる。
ミカエルは安堵の笑みを浮かべて、近くに生えていた木の幹に背を預けた。
目を閉じるミカエルを見ながら、サディンは小さく首を傾げる。
小さくなった焚き火に、拾ってきた木の枝を投げ入れ、そっと目を閉じる。
今までに何度も感じた独特の感覚。
二つの魂の結び付きを残したまま、一つの魂を分離させる。
魂は外に出されると徐々に形をつくり、まずは手、次に腕、肩、頭、胸。
サディンの背中から生まれるもう一人のサディン、 小柄な人形。
完全に姿を現したカストルは、サディンと背中合わせに座り背後を守る。
二人だからできた。魔物の侵略を許すことなく、門を守り続けることが。
この日二人は、互いの背を守り合って一晩中起きていた。
朝になると、何故起こさなかったと時雨とルシエルから文句を言われたが、ミカエルがなんとか宥めて、四人は再び歩き出した。
魔王の城はまだ遠い。
荒れた大地を踏みしめ歩くこと数時間。
途中何度か魔物に襲われたが、ことごとくサディンとルシエルが追い払った。
しばらく歩いていくと、遠目に巨大な山のようなシルエットが見えてきた。
人工の建造物と言うには余りにも歪で、人の手で同じものを造れと言われても、それは不可能だろう。
しかし自然にできたものではなく、明らかに人の手が加わった箇所が見受けられる。
土が塗り固められたような外壁に、頂上付近から飛び出した尖塔。
数ヵ所に開けられた明かり取りの窓や鉄の扉は、人が造らなければ存在しないはずだ。
それらを見付けなければ、誰もが小さな山だと思って通り過ぎるだろう。
四人はその小さな山の前で足を停めた。
「これが魔王の城なのか?」
時雨の問いに頷くルシエル。
「ええ……変わってませんね。さて……」
懐かしそうにぽつりと呟くと、遠慮も何もせずに入り口を開いた。
「おい、ルシエル!?」
「お邪魔しますよー?」
慌てて引き止めようとする時雨にもお構い無しに、ずかずかと中に足を踏み入れる。
仕方なくサディンとミカエルも後に続いた。
中は不気味な程に静まり返っていた。
人の気配もしない。
「……誰もいないじゃん」
「……本当にここで間違いないのか?」
「おかしいですね……以前来たときはもっと賑やかだったのに……」
口々に呟く四人だが、いくら待っても誰も出てくる様子はない。
しかしその時。
『ぎゃああああぁぁぁっ!』
城の奥から誰かの叫び声が聞こえてきた。
四人は一瞬顔を見合わせ、一斉に声のした方へと走り出す。
ルシエルを先頭に、二つ程角を曲がると、厨房と思しき場所に男が一人蹲っていた。
三角巾で紅く長い髪をまとめ、緑色のエプロンをしている。
手を押さえて蹲るその側に、包丁が落ちていた。
料理人が怪我でもしたのかと、時雨とサディンとミカエルは顔を見合わせたが、ルシエルだけは違った。
蹲る男の側に駆け寄り、膝をついてしゃがむ。
そして……
「あんたこんなとこで何やってんですか」
素早く言いながらその男の頭をびっしと叩いた。
「う、うるさい! どこで何しようが俺様の勝手だ!」
頭を叩かれた衝撃に、男はようやく顔を上げる。
顔立ちは整っており、深紅の瞳はちょっぴり涙でうるんでいた。
だがそれよりも目を引くのが、とがった耳と頭に生えた一対の角。
「だからって、なんで貴方が料理なんか? 地獄王のくせに何やってんですか」
『地獄王!? そいつが!?』
時雨たちの声が見事に揃った。
「いかにも。俺様がサタン様だ」
尊び敬えとでも言うように立ち上がり、両手を腰に当ててふんぞり返るサタン。
だがエプロン姿に三角巾では、今一つ迫力に欠ける。
しかもエプロンのポケットには、可愛らしいヒヨコさんのアップリケまであったりする。
最早どこから何をつっこめば良いのか解らず、時雨たちはただただ呆然と立ち尽すのみだ。
そんな時雨たちを見かねた訳ではないだろうが、ルシエルはサタンに向き直りその肩を叩く。
「で? なんで貴方が料理なんかしてたんですか? 使用人の姿も見えないようですが?」
ルシエルの問いに、サタンは言いにくそうに目を逸らし頬を掻く。
しかしルシエルは答えるまで離してくれそうにないので、仕方なく目線を戻した。
「聞いて驚くなよ……」
「驚きませんよ」
あっさり即答されたのが気に入らなかったのか、不満そうに口を尖らせサタンは言う。
「この城の悪魔どもが全員反乱しやがった」
…………
『ええぇぇぇえぇええ!?』
サタンを除く四人の声が重なったのは、数瞬の間を置いてからだった。
「驚くなって言っただろうがよ」
「驚きますよそれは! 反乱てどういうことですか!」
まだ機嫌が直ってないらしく、むくれたままでサタンが言う。
ルシエルは掴み掛からん勢いでサタンを問い詰めた。
他の三人は事態について行けず、ルシエルとサタンをただ呆然と眺めている。
「反乱は反乱だ。言葉の意味が分からないなら辞書を引け辞書を」
そんなサタンの態度を見ていると、反乱が起きても仕方ないと思えてくる辺り、何だか虚しい。
ルシエルは疲れた溜め息を一つ吐き出し、改めてサタンに向き直った。
「反乱の原因は訊きませんよ。で、その反乱した悪魔たちはどこへ?」
「さぁな。アビスは深く広い。ひょっとしたら、俺様の目の届かないところに隠れてるのかもしれん」
肩にかかった赤い髪を指で跳ね上げ、サタンはひょいと肩をすくめた。
嘘を吐いている様子はない。
ルシエルはやれやれ、といった様子で首を振った。
「困りましたね。ただでさえ危険な場所なのに、どこに悪魔が潜んでいるか判らないとなると……」
「……長居はできん、か」
ルシエルの言葉をミカエルが続けた。
サタンの力を借りるつもりだったのだが、こんな事態に陥っているとは、ルシエルでさえも予想していなかった。
どこか他に、神から逃げられる場所はあるだろうか。
「ところで貴様ら、何故ここに来た?」
四人が悩んでいると、唐突にサタンが口を挟んだ。
ルシエルが顔を上げて今までの経緯を説明する。
「話せば長くなりますが、彼がゼウスに狙われ……」
「そんなことは知ってる」
だが、サタンは片手を挙げてルシエルの説明を遮った。
訝しむルシエルを見据え、順にミカエル、サディン、そして時雨に目を遣った。
「そこのガキが、女神復活のためにゼウスに利用されそうになっている。それで、何故貴様らはここに来た?」
「それは……ゼウスの目が届かないここに、ひとまず身を潜めて……」
「それで? その後はどうする。ずっとここに隠れてるつもりか?」
「それは……」
サタンの強い口調に圧されるように、ルシエルは口籠もる。
サタンの言うことはもっともで、いくら一時的に身を潜めようが、いつかはゼウスに見つかるだろう。
かと言って、時雨をゼウスに引き渡せば、この世界に住む人々は滅ぼされてしまうかもしれない。
運良く時雨を身体に戻すことができても、再びゼウスに狙われたら今度こそ逃げられない。
それはつまり、どうしてもゼウスとの対決が避けられないことを意味している。
神に戦いを挑むということがどういうことか。
勝ち目など全くないことは、時雨にでも解る。
だが、もう一つ。
もう一つ方法は残されていた。
だが、それにはどうしても犠牲が生じる。
なるべくなら、犠牲を出さずにすませたい。
だが、サタンは敢えて彼らに問い掛けた。
「何故そいつの魂を消滅させないのだ?」
「…………え?」
時雨が小さな声を上げる。
「ゼウスが欲しがっているのは、このガキの魂だろう。ならば、この魂を跡形もなく消滅させればいい。違うか?」
それは三人の天使が決して考えないようにしていたことだ。
この世界を守るために、時雨を犠牲にすること。
強大な回復能力を持つ時雨の魂さえ無くなれば、女神を目覚めさせる手段はなくなる。
そうすれば、ゼウスは再び治癒能力を持つ魂が目覚めるまで、この世界の人間を滅ぼすことはしないだろう。
他の世界を攻め滅ぼすこともない。
だが、それは……
「そんなこと、できるはずがない」
ミカエルが呟いた。
いつもは無表情なその顔が、今は酷くしかめられている。
サタンはミカエルを正面から見据えて、軽く鼻で笑った。
「ハッ……何の犠牲も出さずに終わらせたいってのか? 随分と傲慢な天使様だな」
サタンの言葉に口をつぐむミカエル。
自分が言っていることが、ただの理想論でしかないことは解っている。
だが、それでも願わずにはいられないのだ。
誰一人犠牲になることなく、時雨を帰してやりたいと。
「このガキ一人犠牲になればすむ話じゃねぇか」
サタンの言葉は続く。
それに答えたのはサディンだった。
「時雨は……もう俺たちの友だ。仲間を殺すことなど、できない」
サディンの決意を込めた言葉さえ、サタンは笑って否定した。
「以前に一度は殺してるんだ。今更何を吐かす。貴様は自分の手が汚れることを恐れているだけだ」
時雨はリリスの生まれ変わり。
そのリリスは昔、ルシエルが殺した。
誰もがリリスの死を嘆いた。
誰もが悲しんだ。
もうあんな思いはしたくない。
させてはいけない。だから……
「どうした? 貴様らができねぇってんなら、俺様が手を貸してやってもいいぞ?
こんなガキを消滅させるなんざ、容易いことだ」
サタンは彼らの言葉を待たず、そう言って時雨に手をかざす。
その手を止めたのはルシエルだった。
「やめてください。時雨を傷つけることは許しません」
サタンの手を抑え、立ち塞がる。
背後に時雨を庇うように、サタンと時雨の間に割って入った。
「……それで?」
まるで面白がっているように、口許に笑みを浮かべてサタンが尋ねる。
ルシエルはしばらく黙っていたが、ようやく己の中で決心がついたのか、ゆっくりと口を開いた。
「貴方が言うように、今時雨を殺せば、ゼウスの計画は先送りになるでしょう。
ですが、それはその場しのぎにしかならない。ゼウスの目的が潰えたわけではない……」
ルシエルは一度目を閉じて息を吸った。
ミカエルとサディンが、ルシエルの横に並ぶ。
ルシエルはすっと目を開いた。
「僕達は、ゼウスを停めてみせます。時雨も身体に帰します。
そのために、貴方の力が必要です。どうか、力をお貸しください地獄王」
ルシエルはまっすぐにサタンを見つめた。
ミカエルとサディンも同様だ。
彼らの意思は決まった。
ゼウスと戦うこと。
ゼウスの野望を阻止すること。
サタンは真剣な表情で、三人の天使を順に見つめた。
どの眼もまっすぐで、並ならぬ決意を感じさせる。
不意に、サタンの口許に笑みが浮かんだ。
「……いいだろう。俺様の力を貸してやる。それをどう使うかは貴様たち次第だ」
その言葉を聞いた瞬間、三人の顔に安堵の表情が浮かんだ。
「ありがとうございますサタン……感謝します」
ルシエルの感謝の言葉に「けっ」と悪態を吐いて、サタンは三人に背を向けた。
「誰がただで貸すか。俺様は腹が減ってるんだ。礼の一つに美味い飯くらい作ってくれるんだろうな?」
「もちろんですよ」
ルシエルたちは笑顔で頷き、早速調理にかかる。
その様子を見たサタンは、静かに厨房を後にした。
「待てよ」
今まで黙って成り行きを見ていた時雨が、サタンを追って厨房から出てくる。
少し薄暗い通路で、サタンが足を止めた。
「何だ」
振り返らずに問うサタンに、時雨は言う。
「あんた、わざとあいつら焚き付けただろ」
「ほう……?」
時雨の言葉に興味が沸いたか、サタンがゆっくりと振り返った。
「あんた、始めから俺たちを助けてくれるつもりだったんだろ?」
「……何故そう思う?」
サタンは面白そうに時雨を観察した。
時雨はうーんと唸りながら片手で頬を掻く。
「何故って言われてもなぁ……あんた、悪い奴には見えなかったし、勘ってやつかな」
そう言って時雨はにっと笑った。
サタンはその様子を見て可笑しそうに笑うと、くるりと踵を返して城の奥へと歩き去って行った。
「んまいっ!」
出された料理を頬張りながら、サタンが感嘆の声を漏らした。
「そうでしょうそうでしょう。サディンのご飯は最高ですからねぇ」
何故かその隣で一緒に料理をつまみながら、自信満々で胸を張るルシエル。
それにしても、こっちに来てからというものサディンは料理ばかりしているような気がする……
「そうかそうか貴様が作ったのか」
ガツガツと食べる勢いを止めぬまま、サタンがサディンを見つめた。
「あ、えぇ、まあ……」
サタンの余りの食べっぷりに軽く引きながら、サディンは頷く。
テーブルに並べた料理の数々は、ものの数分とかからずに、サタンの胃袋へと消えていった。
最後の肉の一切れを口に運び、食後の紅茶を啜ってナプキンで口元を拭う。
「ふむ、中々美味であったぞ。誉めてやる」
サタンは偉そうにそう言うと、いきなり立ち上がってサディンに近付いた。
「はぁ、ありがとうございます……」
呆気にとられていたサディンは、急に近寄ってきたサタンの顔を見上げる。
サタンとサディンでは頭一つ分くらい身長が違うので、ここまで近寄られると、かなり上向きにならなければ目を合わせられない。
「……てか、接近しすぎ」
時雨の小さなツッコミが聞こえた者はいただろうか。
サタンはこれまたいきなり、サディンの手を取り腰に手を回し……
「貴様、気に入ったぞ。どうだ? 俺様の専属シェフとして働かないか?」
「は……えぇ!?」
かなり引きつった顔で、サディンが素っ頓狂な声を上げる。
慌ててルシエルが飛んできて、サタンを後ろから羽交い締めにする。
そこにすかさずミカエルが駆け寄って、サディンをサタンから引き離した。
「……何してんですか」
「えー、いいだろー口説いたってー。俺様好みだしー」
殺気の満ちた眼でサタンを睨み付けるルシエルに、何故か駄々っ子のような反論をするサタン。
「いや……好みって……」
時雨の呻き声に、ルシエルは沈痛な面持ちで頷いた。
「気を付けてくださいよ。何でもいけるクチですから」
「節操なしみたいに言うな失礼な。ブサイクは嫌いだ」
真顔で話すサタンを、どこか遠い目で眺めつつ、二、三歩後退る時雨とサディンとミカエル。
助力を頼む相手を間違えたような気がしないでもないが、ここまで来てしまったのだから仕方ない。
天使たちは重い溜め息を吐き出した。
「さて、腹も膨れたところで、貴様らにいくつか説明せねばならんことがある」
ルシエルのホールドから抜け出したサタンは、真面目な顔でそう言うと皆を座らせた。
とりあえず邪魔な食器類を寄せて、サタンの近くの席に着く。
「まず確認したいのだが、貴様たち、ゼウスの目的はどこまで知っている?」
唐突に切り出したサタンの言葉に応えたのはミカエルだ。
「世界創造の女神を目覚めさせ、世界を一つに戻す。そのために時雨の治癒能力を必要としている。
更に、世界を元に戻すにあたり不必要な人間を狩るために、我々天使を造り上げた……」
要点だけをまとめたミカエルの言葉を、サタンは肯定も否定もせずにただ笑った。
「フ……まあ、大まかに言えばその通りだな。……だが本当の目的は知らぬか……」
「え……?」
サタンの台詞の最後の呟きは、誰も聞き取れなかった。
サタンはそのことについては何も言わず話を進める。
「まず言っておくが、貴様ら天使では神には勝てん。そこには圧倒的な力の差が存在する」
四人はサタンの話に黙って耳を傾けた。
神と天使では、根本的な魂の造りが違う。
神、そしてアビスにいる悪魔と呼ばれる者は、かつて存在した世界に住んでいた者たちなのだ。
世界が砕け散ったとき、世界と共に散り散りになった魂たち。
そのうちいくつかの魂は集まって、消えゆく世界をどうにか救おうと、世界の欠片を集めて繋げた。
だが、無数の欠片を全て集めることはできず、あちらこちらに元の世界を模倣した小さな世界が創られた。
「この世界を創ったのが、ゼウスたち神と呼ばれる者。そして俺様たち悪魔と呼ばれる者だ」
サタンの言葉は続く。
ルシエルたちは全く口を挟めず、ただ静かに聞いていた。
世界の欠片を使って創られた模倣世界。
その世界にも、いつしか命が生まれ、文明を築き、現在の姿になった。
この模倣世界を創った魂たちは、遥か上空に住まい、新たに生まれた魂たちの管理をしていた。
だが、いつしかゼウスは、この世界を元の姿に戻したいと願うようになった。
何故突然そんなことを言いだしたのか。
当然反対する者もいた。
ゼウスに歯向かった者はカエルスを追放され、ここアビスに墜ちた。
アビスは元々、ゼウスの目的に不必要な魂を押し込めるために創られた場所だったのだ。
力のない者、ゼウスに反抗的な者、ゼウスの立場を脅かす者。
様々な者がここに閉じ込められている。
「……ではサタン、貴方も……」
ルシエルがぽつりと呟いたが、サタンは黙って口許に笑みを浮かべるのみだった。
アビスに墜とされた元の世界の住人だった魂は、ゼウスの呪いによって異形の姿に変えられた。
更に、二度とカエルスに戻れぬように結界を張られた。
そのために、サタンを含めた数名の悪魔が、このアビスから出られなくなっているのだ。
「だから俺様は直接手を貸せん」
「そんな……」
ルシエルたちは表情を曇らせて首垂れた。
サタンなら、ゼウスの力にも対抗できると思ったのに。
ルシエルたちだけでは、ゼウスに敵うはずがない。
「……なら、あの時のように……」
ルシエルが顔を上げてサタンを見た。
百年前の時も、ルシエルはサタンの力を借りたのだ。
あの時と同じく、サタンの力を分けてもらって、自らゼウスに戦いを挑まねばならないだろう。
「もちろん、貴様らには俺様の力を分け与える。だがそれでもゼウスを倒せるかどうかは解らん。
こちらの話を聞くような奴でもないしな。もとより話し合いができる相手なら、俺様がとっくに説き伏せとるわ」
最後の方は不機嫌そうに口を尖らせ呟いた。
四人はそんなサタンの様子に苦笑いを浮かべる。
とにかく、ルシエル、ミカエル、サディンの三人で、神の軍団を相手にしなければならないのだ。
当然、事情を知らない他の天使たちも立ちはだかるだろう。
彼らは出来る限り巻き込みたくない。
かなり厳しい戦いになるだろうことは、容易に想像できた。
四人が押し黙ってしまった中で、サタンがやおら口を開いた。
「俺様に一つ、案がある。確実とは言い難いが……」
彼にしては珍しく言葉尻を濁している。
だが、今はどんな小さなことでも聞いておきたい。
皆、サタンの話に耳を傾けた。
「カエルスにもゼウスに反対するやつはいる。上手く誤魔化しているようだが、そいつらに接触できれば力になってくれるやもしれん」
ゼウスに目を付けられないように、当たり障りなく過ごす者。
彼らを捜すことができれば、かなり戦力は増すだろう。
問題は、それが誰かということだ。
「ゼウス派の奴に、ゼウスを倒す手伝いをしてくれなんて、言えませんものねぇ……」
「誰か、心当たりは?」
ミカエルの問いに、ルシエルは静かに首を振った。
「そんな方を知っていたら、わざわざ一人で喧嘩売ったりしませんよ」
それもそうだ。
もちろん、ミカエルやサディンにも心当たりはない。
一同の目はサタンに向けられた。
「……まぁ、ないこともない」
頬杖をつき複雑な表情で話すサタンを、皆は静かに見つめた。
「……ゼウスの娘だ」
「娘?」
天使の三人はまるで初めて聞いたと言わんばかりに首を傾げた。
事実、サディンもルシエルも、ミカエルでさえ、ゼウスに血縁がいたことなど知らなかった。
サタンは静かに語り出す。
ゼウスの娘は神殿の奥深くにいること。
姿を現すことは滅多にないが、神々はその存在を知っていること。
その力はゼウスに次ぐもので、彼女さえ味方にできれば他の神たちを従えることさえ可能かもしれない。
「深い新緑色の長い髪が特徴だ。ジジィに似ず美人だぞ」
サタンはそう締めるとニヤリと笑った。
「新緑色の……長い髪……?」
ぽつりとサディンが呟いた。
何かを思い出すように顎に手を当て考え込んでいる。
「どうしました?」
その様子に気付いたルシエルがサディンの顔を覗き込んだ。
サディンははっとしたように顔を上げる。
「一度だけ……会ったことがある……と思う」
その言葉に、ルシエルとミカエルと時雨は一斉にサディンに注目した。
サタンは面白そうに片眉を跳ね上げサディンに目を向ける。
「以前……拘留されていたときに、一度だけ新緑色の髪をした女性が訪ねてきたことがある。恐らく彼女だと思うんだが……」
サディンは百年前の処刑の後、しばらく神殿の奥に拘留されていたのだ。
傷の手当てもされずに薄暗い牢に押し込められ、誰も何も信じられず自暴自棄になっていたとき。
彼女がやって来てサディンの傷を癒してくれたのだ。
少しの間だけ話もした。
どこの誰かも判らず、名前すら聞いていないことに気付いたのは、彼女が立ち去った後だった。
「ほんの数分の時間だったけれど……俺はとても救われた」
懐かしそうにぽつりぽつりと話すサディンを見て、サタンは確信したように頷く。
「間違いないな。ゼウスの娘、ジュピターだ」
「では……」
「ああ。俺が彼女を捜してみる。一度でも会ったことがある人なら、居場所を捜せるからな」
そう言ってそっと胸元に触れる。
カストルの能力を使えば、すぐに見付けることができるだろう。
これでゼウスに勝てる可能性が出てきた。
「ならば、天使たちのことは私が何とかしよう」
自ら申し出たのはミカエルだ。
大天使であるミカエルならば、他の天使たちを説得することも可能だろう。
「では、時雨を守るのは僕の役目ですね」
にこやかに言ったのはルシエルだ。
サディンが神々の、ミカエルが天使たちの説得を担当するのなら、必然的にルシエルが時雨の守護役になることになる。
実を言うと、それが最も危険な役割なのだ。
ゼウスが狙っているのは時雨だ。
ならば、時雨を捕らえることを最優先にするだろう。
強力な者を遣わすか、もしかしたら自ら姿を現すかもしれない。
時雨を守りながら戦うのは、かなりの危険が伴うだろう。
しかし、ルシエルの決意は揺るがなかった。
まっすぐに時雨を見つめる。
「貴方は、僕が絶対に守ってみせますよ」
静かに言い放つルシエルの言葉を正面から受け止め、時雨は大きく頷いた。
「ああ。俺も足手まといにならないようにする」
ルシエルと時雨は微笑んで互いの拳を打ち合わせた。
そんな四人を見回してサタンが席を立った。
「役割分担も決まったようだな。
とりあえず今のうちに作戦でも決めとけ。空いてる部屋は勝手に使っていい。
貴様らをカエルスに戻すのは、明日の夕刻だ」
それだけ言うと背を向け歩き出す。
「あ、サタンどちらへ?」
「これでも俺様は忙しいんだ。話がまとまったら広間に来い」
それだけ言うとサタンは部屋を出ていってしまった。
ルシエルは訝しそうにしながらも、話の輪に戻る。
普段ならもう少し気に留めただろうが、やはり今後のことに気をとられていたのだろう。
その代わりに時雨が席を立った。
サタンを追って足を踏み出す。
「時雨、どこへ行く?」
ミカエルに呼び止められて、時雨は慌てて振り向いた。
「これからのことを話し合わないと……」
「あー、俺はルシエルの後ろにくっついてればいいんだろ?
そんだけ解ってりゃ充分だって」
そう言うと、ルシエルたちの返事も聞かずに部屋を出ていった。
城の中の通路の一画に、サタンはいた。
窓から外を眺めてぼんやりしている。
「あーっと、ここにいたのか」
通路の向こうから時雨の声が聞こえて、サタンは窓の外から視線を外した。
振り向くと、時雨がこちらに向かって走ってくるところだった。
サタンは時雨が来るまでその場から動かず、時雨が自分の前で立ち止まってから口を開いた。
「貴様、いつまで小僧のふりをしている。下手な演技はよせ」
唐突なサタンの言葉に時雨は首を傾げた。
「……は? 何言ってんだ?」
「とぼけるな。俺様の目を誤魔化せると思うなよ」
サタンの鋭い視線に時雨はしばらく立ち尽くしていたが、ややあって軽く頭を掻きながら笑った。
「ははっ、すげぇや。さっすが地獄王」
時雨はそう言ってサタンにまっすぐ視線を向けた。
「貴様、リリスとかいうガキか……?
……いや、違うな。小僧でもあり、ガキでもある……これが一番近い表現か……」
サタンは独り言のように呟く。
それを聞いた時雨は満足そうに大きく頷いた。
「正解。と言ってもまぁ、八割くらいは時雨だけど」
時雨は普段とは違い、やわらかな表情で笑う。
ルシエル辺りが見たら、熱でもあるのかと、さぞかし大騒ぎすることだろう。
「いつからだ?」
サタンのごく短い問いに、時雨は唸って腕組みし、先程とは反対側に首を傾げた。
「んー、アビスに来てから? ……いや、はっきり気付いたのはあんたに会ってからかな。
俺が、いつもの俺じゃないことに気付いたんだ」
そう話す時雨の口調は時雨そのもので。
しかし、時雨の中に別の時雨が顔を出していた。
アビスの空気がそうさせたのか、サタンの気がそうさせたのか、はたまた全く別の何かが原因なのかは解らない。
ただ、時雨の中にリリスの感覚が目覚め始めたのだ。
それははっきりと別人格を感知するのではなく、もう一人の自分と表現することもできないような奇妙な感覚。
リリスの記憶が甦った訳でもなく、人格が入れ替わった訳でもない。
強いて言うなら、リリスの心を感じるのだ。
だが、それをリリスとして感じている訳ではなく、時雨の心の中にリリスの心がゆっくりと浸み出し、融けていく感覚。
言葉では言い表わせないような、不思議な気分だった。
「リリスの記憶が甦った訳じゃないんだ。ただ、何となく、リリスが感じるのが解るって言うか……」
上手く説明できずに口籠もる時雨を見て、サタンは納得したように頷いた。
「つまり貴様は、リリスと感覚を共有をしているという訳だ」
「感覚を共有?」
おうむ返しに問う時雨を見下ろしながら、サタンは要点だけを簡潔に答えた。
「ああ、例えば、一枚の絵を見て貴様はつまらないと感じた。しかしリリスは面白いと感じた。
今の貴様はその絵を見たときに、リリスと同じ感じ方をするようになっているんだ。二つの心が混在している訳だな」
「はー……解ったような解んないような」
サタンの話を不思議そうに聞いていた時雨だったが、あまり理解していない様子だ。
サタンはひょいと肩をすくめ、再び窓の外に顔を向けた。
外にはもうすぐ沈もうとしている金色の光。
サタンは自ら作り出した、偽りの太陽の光に目を細めた。
「それで? わざわざ何をしに来たのだ?」
外に顔を向けたままでサタンは問う。
それで時雨はサタンを追ってきた最初の目的を思い出した。
「あ、そうそう。お礼を言いに来たんだった」
「礼だぁ?」
サタンはあからさまに嫌な顔をして時雨に目を向けた。
「あ、なんだよ人が素直にお礼したいって言ってんのに」
時雨は不満そうに口を尖らせてサタンを睨む。
そう言ってから照れ臭そうに頭を掻いた。
「……ありがとな」
小さく呟いた言葉を聞いて、サタンが呆れたように鼻で笑った。
「貴様に礼を言われる筋合いはないぞ。そもそも、貴様は巻き込まれただけの被害者だろうが」
こうもはっきり言われると、時雨は改めて己の立場を考えずにいられない。
つい先日までは普通に暮らしていたはずなのに、いきなり天国行きになって神様に追われて地獄の果てまで逃げてきた。
こんな話、家族だって信じないだろう。
正直、最初は何で俺がこんな目に、と思ったものだが、今はそんなに憤りを感じない。
これもリリスの心のせいなのかもしれないが、時雨は今の自分の気持ちを信じている。
迷いや恐れはない。
「いいんだよ、被害者だって。被害者が犯人に立ち向かっちゃいけないなんて決まりはないし」
サタンは黙って時雨の話に耳を傾けた。
「それに俺、今すっげぇ楽しいんだ」
時雨はそう言うと心底楽しそうに笑った。
普通に生きていた頃には、こんなにも楽しいと思えることはなかった。
毎日決まった時間に起きて登校して勉強して。
友人との会話は毎日同じようなものばかり。
両親は共働きだからあまり顔を合わせないし、最後に会話したのはいつだったかさえ定かではない。
そんな中で時雨は、少しでも楽しくなるようにと、進んで場を和ませたり盛り上げたり、周囲に気を配りながら生きてきたのだ。
時折、友人と話すことさえ苦痛に思えることもあった。
でもこちらに来てからは、ありのまま、思ったままに行動している。
癖でつい周囲に気を配ってしまうのは変わらないが、今までよりずっと生き生きしている自分を感じている。
まあ、死んでから生き生きするというのもおかしなものだが。
とにかく時雨は、今この現状に不満を感じてはいない。
これからのことに緊張や不安はあるが、それ以上に自分の心が充実しているのが解る。
サタンはそんな時雨を見て面白そうに笑った。
「ふっ、貴様は……まるで死人に見えんな」
サタンのその言葉を聞いて、時雨はふと思い出したように手を叩いた。
「そうだ。なぁ、不思議に思ってたんだけど、何で俺死んでんのに物掴んだり腹減ったりすんの?」
「何で俺様に訊く。奴らに訊けば良かろうに」
「いやぁだって会議が白熱してるから、邪魔しちゃ悪いと思って」
サタンは面倒臭そうにしていたものの、どうせ何もすることはないし、仕方なく時雨に説明し始めた。
「貴様は今、肉体から抜け出た魂だけの存在だ。これは解るな?」
サタンの言葉に時雨はこっくりと頷く。
「人間は皆、生きていた頃の感覚を魂だけになっても覚えているのだ。五感のすべてを、生きていた頃と同じように感じることができる」
「なるほど……」
そういえば、確かに眩しいとか疲れたとか、生きていた頃とほとんど同じように感じていた。
「空腹感も同様だ。本来、魂に必要とされる精気は、自然界に満ちる気を吸収するだけで補える。
だが、今まで食事でエネルギー補給していたものを、気を吸収しろと言われたところで簡単にできるものではない。
だからわざわざ気を食物の形にして食すのだ。解るか?」
突然聞かれて時雨は困ったように首を傾げた。
「えーっと、つまり……
いきなり断食すっとストレス溜まるから、幽霊になっても飯を食うってことか?」
「……まぁ、そんなもんだ」
時雨の解釈を聞いて疲れたような溜め息を吐いてから、サタンは仕方なく頷いた。
かなり雑な解釈だが、概ね解っているならそれでいい。
こんな小僧にすべてを理解しろと言うのが、所詮無理な話なのだ。
サタンは今更ながらに、時雨の疑問に答えてやろうなどと思ったことを後悔した。
「じゃあさ、物を掴んだりできるのは?」
サタンの気持ちなど知らずに、時雨は次々と質問してくる。
あの陰険眼鏡が説明しとかないのが悪いんだ。
サタンはそう思うことにした。
時雨に罪はないのだし。
「……魂だけの状態でも質量はあるんだ。かなり軽いがな。
だから触れることができる。……解るか?」
時雨は腕を組み首を傾げて考えながら言う。
「えっとぉ……ま、とにかく触ることはできんだよな」
やはりほとんど理解していないようだ。
「それと、身体が透けて見えることもあるんだけど。なんで?」
サタンは嫌そうな顔をしながらも答えてやる。
「……今の貴様は空気みたいなもんなんだ。
ただ生前の記憶に基づき、姿形を具現化しているにすぎん。
さっきも言ったが、五感の記憶が強烈に残っているから、生前とまったく同じ感覚で触れたりできる。
本来ならば質量にかなりの差があるため、触れることはともかく持つことなど到底不可能なのだが、魂に記憶されている感覚を基に」
「ちょっと待った!」
話の途中で時雨が声を上げた。
サタンが時雨を睨むと、時雨は困ったように笑いながら頭を掻いた。
「なんかもう、全然解んないんだけど……もちっと簡単に説明してくんない?」
「…………」
サタンは呆れたように時雨を見遣り、脱力感に逆らわずにがっくりと肩を落とした。
「……つまりだなっ! 慣れれば何でもできるってことだ!」
もはややけくそである。
サタンはこれ以上ないくらい簡単に説明すると、踵を返して時雨に背を向けた。
「もういいか!? 俺様はもう何も答えんぞ! どうせ貴様のような小僧には何も理解できまい!」
一息にそう言って立ち去ろうとするサタンを、時雨が呼び止める。
「なんだよ俺だって理解してるよ。まだ聞きたいことあんだけど」
「何も答えんと言った!」
「そこをなんとか」
「するかっ!」
さっさと行けばいいものを、サタンは律儀にも立ち止まって時雨に言い返している。
サタンはあれでいて結構人付き合いが良い。
時雨もそのことを察しているのか、しつこく食い下がる。
しばらく言い争っていたが、やがて諦めたサタンが一つ一つ解説してやることで落ち着いたようだ。
その後ルシエルたちが捜しに来るまで、二人はそこでずっと立ち話を続けていた。
「サタン、こちらにいましたか……って、何してたんです?」
「貴様ぁっ! ガキの教育に手を抜きおってぇ!」
ルシエルが回廊の向こうから顔を見せた瞬間、サタンはまるで瞬間移動でもしたかの如き素早さで突進し、ルシエルの胸ぐらを引っ掴んだ。
そのままがっくんがっくん揺さ振る。
ルシエルは訳が分からず、しかしその力の差の前に抵抗すらできずに目を回している。
……アビスに来てからというもの、こんな役ばかりな気がするのだが……
だがまあ、それはルシエルの気のせいだろう。
ルシエルが完全に白目をむいたところで、ようやくサタンは手を放した。
ルシエルは仰向けにひっくり返り、ぴくぴくと痙攣していたりする。
時雨はその様子を黙って見守っていた。
少しでも口出ししたら、命がないような気がしたからだ。
サタンはフンと鼻を鳴らし、倒れたルシエルを冷ややかな目で見下ろした。
そんな中に姿を現したのはサディンだった。
中々戻らないルシエルを呼びに来たのだが、目の前の惨事を見た途端に無言で踵を返して歩き去ろうとする。
だが、時雨はそれを許さなかった。
偶然現れた天の助け。逃がしてなるものか。
時雨は気力を振り絞りサディンに肉迫する。
「ままま待てよサディン俺ら呼びに来たんだろってゆーか逃げるな」
声を震わせ一気にまくし立て、がっしとサディンの腕を掴む。
「いっ、嫌だ離せ! 俺は何も見なかった!」
「見捨てないでくれっ! 次に狙われるのはきっと俺だ!」
死なばもろとも。
時雨はサディンを離そうとしない。
サディンは何があったか知らないが、どうせ下らないことなのだ。巻き込まれるのはゴメンである。
そんな二人の攻防を目にしたサタンは、怒る気力も失せたのか、舌打ち一つして歩き出した。
時雨とサディンがぴたりと動きを止める。
サタンはそんな二人の脇を通り過ぎ、回廊の奥へと消えていった。
取り残された時雨とサディンは顔を見合わせ、白目をむいて倒れているルシエルを見下ろした。
そして二人同時に息を吐き出し、もう一度顔を見合わせて思わず噴き出した。
「あービビった。マジビビった」
「なんだ、情けないな時雨」
「サディンだって逃げようとしただろ」
そして声を上げて笑う。
重々しい巨城に似付かわしくない、楽しげな笑い声だった。
ようやく気が付いたルシエルがのろのろと起き上がり、笑い合う二人を見て首を傾げた。
時雨たちが回廊で笑っている間に、サタンはミカエルがいる部屋に戻ってきた。
ミカエルはサタンの姿を見ると無言で立ち上がる。
「……話がある。ついてこい」
サタンはそう言って隣の部屋へ移動した。
ミカエルは黙って後に続く。
部屋の扉を閉めたところで、サタンが振り返った。
「貴様、既に相当の力を有しているな。今、無理に俺様の力を吸収したら、死ぬぞ」
遠慮も躊躇もなく、サタンは蕩々と言葉を紡ぐ。
ミカエルは大天使である。天使の中では最も強い。
だが、その強い力に身体が耐えきれなくなっているのだ。
天使の身体は、魂に宿る力を入れておくための器だ。
容積を超えると壊れてしまう。
ミカエルはぎりぎりの状態で身体を維持しているのだ。
この上サタンの力を取り込んだら、器が壊れてしまうかもしれない。
サタンはそれを見抜いて警告しているのだ。
だが、ミカエルはサタンの言葉に首を振った。
「この身が壊れる覚悟など、とうにしている。その上で私はここにいるのだ」
ミカエルの言葉に嘘はない。
その瞳には迷いも恐れもない。
ただ純然たる決意がそこにあった。
ミカエルは守護の大天使。仲間を守るためにここまで来たのだ。
ミカエルの覚悟を知ったサタンは、ふっと口端を持ち上げて笑った。
「大天使ともあろう者が、無謀だな」
口から滑り出たのは皮肉。
だが、ミカエルは気にした様子もなく肩をすくめた。
「無謀とは思わん。無茶をしようとしていることは事実だがな」
ミカエルも、自ら死にに行く訳ではない。
短時間ならば器の許容量をオーバーしても、すぐに壊れることはないと知っていたし、ミカエルには『替え』があるのだ。
もし、今の器が壊れても、新しい器に魂を移し替えればいい。
実際、今のミカエルの器は二つ目だ。
そのことは、他の天使は誰も知らない。
魂さえ無事ならば、ミカエルは復活することができるのだ。
だから、この身を犠牲にしてでも、仲間を守りたい。いや、必ず守る。
だから――
「貴殿の力を貸していただきたい。地獄王サタン」
ミカエルは恭しく頭を下げた。
サタンはそれを見下ろし、腕組みして口を開く。
「本気のようだな……いいだろう」
その言葉を聞いたミカエルが顔を上げる。
「では……!」
「ふん。天使と神の戦が、これで面白くなりそうだ」
サタンは楽しげに喉を鳴らして笑い、ミカエルが礼を言う前に部屋から出ていってしまった。
サタンが先程の部屋に戻ると、そこには既にルシエルたちがいた。
ミカエルと話している間に戻ってきたらしい。
サタンは彼らを一瞥すると一番奥の席についた。
サタンが入ってきたすぐ後にミカエルが姿を現した。
ルシエルたちの許へ歩み寄ると、互いの顔を見合わせて頷く。
決戦はもうすぐだ。
「今日はもう遅い。空いてる部屋で好きに休め」
サタンはそう言うと、脚を組んで鷹揚に天使たちを見回した。
「明日の夕刻にカエルスへの道が開く。そのときに俺様の力を貴様らに分け与える。いいな?」
「はい。ありがとうございます、サタン」
その後は皆、思い思いに過ごすことになった。
明日の夕刻には、敵地へ乗り込むことになる。
今のうちに充分休んでおかなくては。
そのためにはたっぷりと睡眠をとって、ゆっくり身体を休めることが大切なのだが……
「なーなー、んで結局のところ俺は何すりゃいい訳?」
時雨はルシエルの部屋に来て、寝ようとしていたルシエルを叩き起こしていた。
「何なんですか貴方は。どうでもいいですけど寝かせてください」
「どうでもいいならいいだろ。俺、ほとんど話聞いてなかったからさぁ」
時雨はルシエルのベッドに飛び乗り、胡坐をかいて座ったままルシエルを見下ろした。
「あのー、寝たいんですけど」
迷惑だとでも言いたげに――実際迷惑なのだが――苦笑いを浮かべて、布団に潜り込もうとするルシエル。
しかし時雨は相手の迷惑顧みず、ゆさゆさとベッドを揺らして尚もしつこく話し掛ける。
「おーい、ルシエルー」
「…………」
「ルーシーエールー」
「あああもうっ! 何なんですか!」
我慢しきれなくなったルシエルが、がばっと身を起こして叫んだ。
時雨はにんまり笑って言う。
「だから、明日の作戦」
「そんなの明日説明しますから」
ルシエルは冷たくそう言うと、頭から布団を被り狸寝入りを決め込んだ。
時雨がどんなに揺り起こそうが、無視している。
「なんだよ。いいから聞いてくれって」
寝たふりをしているルシエルの横で、時雨は勝手に話し始めた。
その話を聞いて、ルシエルは思わず起き上がる。
明日の決戦に、時雨は時雨なりの覚悟があったのだ。
ルシエルは反対したが、時雨の熱意に負けて渋々承諾した。
ミカエルたちに言うと当然反対されるだろうから、彼らには秘密にしておく。
短い話し合いを終えると、その後は何事もなかったかのように時が来るのを待った。
それからの時間はあっという間だった。
もうすぐ日が傾き、サタンの城の前にカエルスへと通じる道が開く。
ルシエルたちは、道が開くと予想された場所に並んでいた。
その前にはサタンがいる。
ルシエルたちは緊張の面持ちでサタンを見つめた。
サタンはルシエルたちを見渡しながら、ゆっくりと口を開いた。
「いいか? 俺様が力を貸すのはこれで最後だからな」
「解ってますよ」
ルシエルたちが頷いたのを見て、サタンはフンと鼻を鳴らした。
「では道を開くぞ」
サタンの声に応えるように、ルシエルたちの目の前で魔法陣が輝きだした。
天使たちは驚愕して目を丸くする。
何しろ、カエルスとアビスを繋ぐ道を自ら作るのは、不可能と言われていたのだから。
「ちょっ、サタン、人工的に道を作るなんて……」
「ああ、不可能だな。そのために、俺様は準備していたのだ」
まるで信じられないといったルシエルの声に、しかしサタンは自信たっぷりに答えた。
床に描かれた魔法陣の輝きに呼応するように、アビスのあちこちで光の柱が立ち昇る。
光の柱は少しずつ先端が曲がり、柱から水の流れのように変わった光の束が、魔法陣に吸い込まれるように集まってくる。
魔方陣はその光を受け、一層明るく輝いた。
魔法陣から溢れる魔力が、周囲の空気をはためかせ風が流れる。
翻弄される髪を片手で押さえ、ミカエルはサタンに尋ねた。
「いったい……どんな技術を使えば道が作れるのだ……? こんなことは初めてだ……」
「なに、俺様の部下たちがアビス中の魔力の泉を開放しているのさ」
アビスには悪魔たちの力の源となる、魔力の泉と呼ばれる場所がいくつか点在している。
そこには高い魔力が秘められていて、確かにその力を使えば一時的にゼウスの結界を破り、カエルスとアビスを繋ぐことができるだろう。
だが……
「あなた、悪魔たちは反乱したと言ってませんでした?」
ルシエルのツッコミ通り、昨夜サタンはこう言った。悪魔たちは全員反乱したと。
それなのに、これはどういうことなのか?
時雨たちが皆首を傾げる様子を見て、サタンはくつくつと笑った。
「誰も『俺様に』反乱したとは言っていない。悪魔たちが反乱したのは、己の運命にだ」
アビスから事の成り行きを見ていたサタンは、配下の悪魔たちに提案したのだ。
神に復讐してやろうと。
アビスに住む悪魔は、元はカエルスから追放された者たちだ。
彼らは、一方的に反逆者扱いされ、異形の姿に変えられてアビスへ堕とされたのだ。
皆がゼウスを、少なからず恨んでいるだろうことは明白だ。
サタンは彼らを各地の魔力の泉へと向かわせ、泉に満ちる魔力を解放させた。
それをこの一点に集めて、正に今、カエルスへの道が造られようとしている。
「あなた……本っ当に性格が悪いですね」
ルシエルの溜息混じりの呟きを聞いて、サタンはフンと鼻を鳴らす。
「お互い様だボケ」
そう言うとサタンはルシエルに手を差し出した。
傍から見れば、握手を求めているようにしか見えない。
だがまぁ、今までのサタンの言動から考えると、それはないだろう。
「今から貴様らに俺様の力を分け与える。一人ずつ手を出せ」
サタンの呼び掛けに、ルシエルたちはいよいよといった風に表情を引き締めた。
まず、ルシエルが手を差し出す。
二人の手が重ねられた。
「王の名の下に黒き翼を授けよう……」
サタンの声が聞こえた瞬間、ルシエルを悪魔の羽が包み込むような錯覚を覚えた。
それは当のルシエルだけでなく、それを見ていた時雨たち全員がだ。
その感覚は一瞬のことだったが、ルシエルは確実に、自分の中に別の何かが宿ったのが判った。
サタンはルシエルの手を放し、順にミカエル、サディンにも同じように手を差し出した。
サディンの手を放したと同時に、魔法陣が一際強く輝きだした。
道が繋がったのだ。
「さあ、行け。うまくいけばカエルスに繋がったはずだ。
……まぁ、この俺様が失敗などするはずないがな」
静かに微笑うサタンに感謝の意を示し、天使たちは深く礼をする。
神の使いが魔王に首を垂れる光景は、真実を知らぬ者から見ればとても滑稽に映っただろうと、時雨はぼんやりとそんなことを思った。
時雨はルシエルたちと共に、光の魔法陣の上に乗る。
目の前を眩しい光に包まれて、地獄の景色が薄くぼやけてゆく。
天使たちと一つの魂は、魔王に見守られながら、遥か天上の神の箱庭へと戻っていった。




