エピローグ
ゼウスが去った後は、瞬く間に時が過ぎていった。
今回の事件がこんなに早く片付いたのは、主要な神々が運良く出払っていたことが一つの要因だろう。
ひょっとしたら、それすらもリリスの計算通りだったのかもしれない。
ルシエルたちに与えられたサタンの力は、翌日には身体からすっかり抜け出ていた。
彼らは今、過ぎた力を行使した副作用で、物凄い疲労感と筋肉痛に唸されている。
ミカエルだけは、器そのものを取り替えたのでピンピンしていたが。
ルシエルとサディンは、未だ病院のベッドの上だ。
アテナも順調に回復していると、ジュピターが時雨に教えてくれた。
事件の後、本当の意味で一番苦労したのは彼女だろう。
ゼウスに代わってカエルスの指揮を執り、神々や天使たちに、真実をすべて打ち明けた。
ゼウスに賛同していた神からは激しく非難されたが、ゼウス自身が考えを改めたことと、一番幼い神であるキューピッドにたしなめめられたこともあって、表向きはこの世界の存続を維持する方向で落ち着いた。
それについては、これから少しずつ話し合っていくのだろう。
アビスとの関係も見直していく予定らしい。
しかしそれは、ひとまずカエルスの中が落ち着いてからになるのだろうが。
そんな忙しい政務の合間に、彼女は時雨を身体に還す準備も進めてくれた。
あのとき、ルシエルを撃った雷が残った魔虫を全滅させていたので、後は身体と魂の結びつきを調整するだけだった。
実は時雨は完全に死んでいた訳ではなく、仮死状態にあったのだ。
魔虫が孵化した後も地上に留まるのは、犠牲者の――今回の場合は時雨の――身体と魂を結ぶ糸を食べるためだ。
その糸を食い千切られてしまうと、いくら魔虫を倒しても、魂が身体に戻れなくなってしまう。
魔虫の退治は終わっていたので、身体と魂の波長が合う瞬間を見計らい、時雨を地上へと帰すだけで、時雨の身体は目覚めるだろう。
そして時雨は今、地上にある己の身体に還るため、天国の外にある、あの大木のゲートの前に立っている。
ゲートは相変わらず不気味に赤黒く渦巻いており、それを見た時雨は少しだけ嫌そうに眉間に皺を寄せた。
時雨の隣には、ミカエルが立っている。
本当はルシエルが見送りに行くと言っていたのだが、身動きがとれない状態なので、ミカエルが代わりに来たのだ。
「お別れ、だな」
「また、逢えるさ。君が寿命で死んだときに」
「そういや、そっか」
時雨は小さく笑って鼻の頭を指先で掻いた。
二人の間を、風が吹き抜けていく。
時雨がここに来てから、まだ一週間も経っていないのだが、まるで何年もここで過ごしたような錯覚を覚えた。
去り難い感情に捉われて、時雨は中々地上へと踏み出せない。
「……ああ、ルシファーから伝言があったのだ」
不意に思い出したように、ミカエルが口を開いた。
時雨は迷っていた足を停めて、ミカエルを見る。
「ルシエルから? なんて?」
「『もう貴方のお守りは疲れたので、当分こちらには来ないでください』だそうだ」
ミカエルは伝え終わると、少しだけ可笑しそうに笑った。
時雨もつられて笑みを浮かべる。
「なんだよそれ」
「奴らしいだろう?」
ひとしきり笑い合って、ミカエルは時雨に右手を差し出した。
時雨はその手をしっかりと握り返す。
「またな」
「達者でな」
短く言葉を交わして手を離した。
「あ、そうだ。俺からも伝言、いいか?」 ゲートに入る前に、時雨は振り返って言った。
「『世界一の長寿になって自慢してやるから、楽しみに待ってろ』って」
「ああ、承った」
ミカエルがしっかりと頷くのを確認して、時雨は意を決したようにゲートに飛び込んだ。
以前のように落ちていく感覚はなく、何かに引っ張られているような感覚。
やがて目の前が真っ白になって、何も見えなくなった。
まるで、白い霧に覆われているかのように、頭がぼんやりしている。
自分の身体は酷く重く、指一本動かせなかった。
「…………!」
誰かが、近くで自分を呼んでいる。
時雨は、一度瞬きをしてゆっくりと目を開けた。
最初に目に飛び込んできたのは、泣きながら自分を見つめる母の顔だった。
時雨は、病院のベッドに寝かされていた。
登校途中で事故に遭い、五日も意識不明だったそうだ。
後からそう聴かされた。
意識を失っていた五日間のことを、時雨はすべて覚えている。
しかしそれは誰にも言わないつもりだ。
父も母も友人も、皆この世界が偽物だったなんて知らないのだから。
近いけれど遠いところにいる友に再び出会える日は、何十年、或いは百年先かもしれない。
そのときに胸を張って精一杯生きたと言えるように、時雨は今、毎日を全力で楽しんでいる。
END




