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TRUE ANGEL  作者: 三九
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2/6

胡乱




 白い……白い霧が辺りを覆っていて、ここが一体どこなのかまったく判らない。

 ただ、自分が仰向けに寝ていること、身体がひどく軽くなったようで、どこか浮遊感を感じることなら判る。


「…………」


 そして何処か遠くで、誰かが自分を呼んでいるような声と……


「いつまで寝てんですかさっさと起きてください」


 どぶっ!


「………っっ!!」


 自分がその声の主に、思いっきり腹を踏ん付けられたことだけは解った。


「って……てめぇっ! いきなり何しやがんだ!」


 彼は踏み付けられてズキズキと痛む腹を両腕で庇うように押さえ、なんとか起き上がって相手を睨み付ける。

 彼が着ている学生服には、くっきりと二九センチの靴跡が残っていた。

 きつく睨まれているにも拘らず、靴跡の主は怯むことなく、逆に思わず鳥肌が立つほどにこやかな笑みを浮かべて、


「いやぁ、貴方が中々起きなかったもんで、つい実力公使を」


 などとのたまった。

 それを聞いて、腹を踏ん付けられた方の青年……まだ少年と言ってもいい年頃の男は、怒りを露にして怒鳴る。


「なぁにが実力公使だこの変態!

 いきなり人の腹をしかも初対面のくせに踏ん付けやがって!

 ごめんなさいすみませんでした二度としません平にご容赦くださいぐらい言ったらどうだ!」


 霧のたゆたう静かな空間に、少年の声が朗々と響く。

 その文句はほぼワンブレス。中々の早口である。


 とりあえず言うだけ言って落ち着いたのか、少年は改めてまじまじと相手を観察してみた。

 肩まで伸ばしたストレートの黒い髪が左側だけ外に跳ねていて、顔の半分を覆う程にでかい重そうな黒縁の眼鏡まではよしとしよう。

 着ている服は、昔話で魔法使いなどが着ていそうな、純白のローブ……いい歳こいてこんなの着て歩いたら、筋金入りのコスチュームプレイヤーだと思われるだろう。

 しかしそれよりも更に目を引くのが、背中に見える大きな白い翼だった。


 変 態 決 定。


 どこで売ってるおもちゃか気にならないではないが、大の大人がそんなもん身に付けて喜んでるなんて、きっと変態に違いない。

 どうやら先程勢いで言った単語は、かなり的を射ていたらしい。

 しかし変態の割には、すらりと背が高く、顔も悪くないのが少し気に入らない。

 何を食べたらそんなにでかくなれるんだと、中肉中背の少年はこっそり羨望を覚えた。


「変態って……僕は天使です。変態じゃありませんよ」


 少年の視線に疑わしさを感じたのだろう。自称天使は微笑みを崩さず語りかける。

 内容が内容だけに、余計に不信感を募らせていることには、まったく気付いていないようだ。

 案の定、少年はより一層眉間の皺を深くして言った。


「ほー、そーか、天使か。

 もう春だし、変態の一人や二人、突然変異の自然発生しててもおかしくねぇわな」


 少年の言葉が終わると同時に、自称天使は肩の高さではたはたと手を振った。


「だから変態じゃないですってば」


 変態と決め付けてかかってくる少年の言葉を、天使とやらは否定する。

 が、少年はまるで聞いていない。


 少年はその天使とやらを無視して、ふと思い出したように辺りを見回した。

 瞳に映るのは相変わらず白い霧だけで、自分と天使とやら以外、他には何も見えなかった。

 独り言と言うには大きすぎる声で、少年は呟く。


「ここ何処だよ。ってゆーか、何で俺こんなとこにいんだよ。マジ訳わかんね」


「ここは……」


「変態の住みか?」


「違います!」


 計らずも少年の問いに答える形で口を開いた自称天使の声を遮り、少年は天使とやらには見向きもしないで、すっとぼけた質問をしてみた。

 その言葉に間髪入れずにツッコミを入れ、自称天使は大きく咳払いを一つ。


「ここは神の国カエルス。あなた方の言葉で言う天国ですよ、木高時雨さん」


「なっ……」


 その言葉に少年……木高時雨は絶句する。


「な……何で変態が俺の名前を……!?」


「驚くべきところはそっちですか」


 確かに初対面の相手に、名乗ってもいないはずの名を呼ばれるのは、充分驚くに値することである。

 しかしまさか、まずそちらに驚愕を示すとは。

 まるで予想もしていなかった時雨の言葉に、天使とやらはがっくりと肩を落とした。

 天国と聞いて驚き、慌てふためく少年の図を予想していたのだが。


 初対面に怒鳴り付けたり、いきなり変態呼ばわりなど、実はそれなりに図太い人間だとは思っていたが、ここまで言っても気付かないとは……いや、敢えて気付かないふりをしているのか?


 自称天使はそんなことを脳内で悩み、しかし自分もつい先程、その初対面を踏ん付けたという図太い行動は、既に忘れている。

 それはもう、綺麗さっぱりと。


「はぁ……僕は天使ですから、人々の魂の管理も僕の仕事なんです」


 この少年が人並み外れて図太いだけだ、と結論付けた自称天使はにこやかにそう言って、どこからともなく黒いメモ帳を取り出し、ぱらぱらとページを捲りだした。


「えー、木高時雨、十七歳、高校二年。本日午前八時三二分、通学途中に死亡しました」


「ちょっと待て」


 メモ帳の内容を音読する自称天使の目の前に、時雨の手の平が突き付けられる。

 こめかみを指で押さえ、沈痛な面持ちで待ったをかける時雨に、自称天使は極めて明るい表情で答えた。


「何か?」


 人と話すときは笑顔が基本。

 しかし、それも時と場合と会話の内容により変化する。

 特に今回のような、非常にデリケートな話題では。

 自分が死んだなどという話を笑顔で聞かされて、納得する人間はいないだろう。特別に温厚かつ器の大きな人物でもない限り。

 もちろん、時雨はそんな希少な人種ではない。

 自称天使に向かって、勢い良く顔を上げ血相を変えて叫んだ。


「何か? じゃないわい!

 何なんだよその通学途中に死亡っつーのは!

 俺はここにこうして生きてるじゃんかよ!」


 そう言いながら鼻息も荒く、時雨は自分の胸部を平手で叩き、片足で霧に覆われた地面を踏み付ける。

 そんな時雨の剣幕に圧されることもなく、自称天使はあくまでにこやかに言った。


「言葉の通りですよ。貴方は、死んで幽霊になったんです」


 その言葉を聞いた瞬間、時雨は天使とやらの胸ぐらを引っ掴み、血走った目でずずぃっと詰め寄った。


「俺が幽霊だぁ!? ふざけたことぬかすんじゃねえ!

 大体、俺が死んだなんて証拠はあんのかよ!」


 唾が飛びそうな勢いである。

 しかし急に胸ぐら引っ掴まれても、その天使とやらは怒ることも焦ることもなく、静かに胸ぐら掴む時雨の手を外す。


「では現場を見てみましょうか。これは監視カメラが捕らえた映像です」


 まるでニュースキャスターが言いそうな台詞を言いながら、彼はポケットから取り出した小さな四角いものを時雨に見せた。これは……


「……iPod?」


 正しくiPodだが、天使とやらは「なんですかそれは?」と首を傾げている。


「これは監視カメラから録画した映像を映す道具ですよ。

 貴方みたいに、実際に見ないと理解していただけない方が多くて」


 言いながらスイッチを押すと、上から見下ろす角度で撮影されたと思しき映像が、小さな画面に再生される。

 映像の中で、一軒の家から時雨が出てきて走っていく。今朝の通学の様子が映っているのだ。

 そして走ること六秒。

 いきなり角から曲がってきたトラックに跳ねとばされて地に臥した。


「家出た直後っ!?」


 時雨の驚愕の声が辺りに響き渡った。

 残酷だとは思うが、現状を理解してもらうには、これが一番手っ取り早い方法なのだ。

 天使とやらはiPodもどきをポケットに仕舞い時雨を見遣る。

 時雨はまじまじと自分の手を見て、ゆっくりと自分の身体に触れてみた。

 自分の身体はここにある。触れた手は確かに己の身体に触った感触があった。

 しかしその手は、心霊写真の幽霊よろしく、重ねた部分が一瞬だけ透けて見えたのだった。


「……マジかよ」


 一度確認すると、あちこち触ってみて確かめる。

 だが、やはり結果は同じだった。

 こうなると、いよいよ自分が幽霊だという事実を認めざるをえなくなってきた。

 しかし当たり前かもしれないが、そう簡単に死を受け入れることができるはずもなく。

 時雨はその場にしゃがみ込み、頭を抱えて虚ろな目をしてぶつぶつと呟き始めた。


「夢……これは夢だ。そうに違いない。とゆーか、現実であってたまるか」


 既に自分を無視して独り呟く時雨を、自称天使は不思議なものを見るような目で見ていた。

 ここまで頑なな人間も珍しい。

 大抵の者は、映像を見せられると取り乱して泣き喚くものなのだが。


 そのままで幾何かの時が過ぎた頃。

 突然辺りを包む霧が濃度を増した。

 自称天使は慌しく周囲に目を配ると、何かの気配を感じ取ったのか、今までにない程真剣な表情で時雨を呼んだ。


「時雨、少し場所を変えましょうか。いつまでもここにいると危険です」


 その真剣な口調に何かを感じ取ったのか、時雨はおとなしく顔を上げ、


「いきなり呼び捨てか」


 とりあえずツッコミを入れておく。

 しかし天使はそれに構わず時雨の手を取ると、早口で説明した。


「小鬼どもが集まってきています。

 どうやら、新鮮な魂の存在に気付いたようですね」


 天使は時雨を見遣り、手を引いて立ち上がらせる。

 渋々立ち上がった時雨の腕を掴んだまま、背中に生えた大きな羽をはばたかせた。

 一度、二度、力強く羽が翻り、ゆっくりと身体が宙に浮く。

 もちろん、時雨の手を引いたままで。

 足が地面から離れたことを確認して時雨が喚きだした。


「とっ……飛んでる!」


「当たり前ですよ。天使なんですから」


「だって、うわっ飛んでる! 飛んでるよおい!

 落ちる! 落ちるってばこら!」


 驚いてじたばたと暴れる時雨に、天使は嫌そうな顔をして、


「あんまり暴れると叩き落としますよ?」


 と脅しをかけてみる。

 この自称天使ならばやりかねない……

 本気でそう思ったのだろう。

 叩き落とされるのも嫌なので、時雨はおとなしく従った。

 落ち着いて深呼吸してみれば、絶叫マシンに乗っているわけでもなし、あれ程騒いでいた自分が馬鹿らしく思える。

 だが飛行中ただ黙っているのも退屈なので、時雨は頭に浮かんだ疑問を口にしてみた。


「……これからどこ行くんだよ」


 無視されるかとも思ったが、返事はすぐ返ってきた。


「もちろん天国ですよ」


「ふーん……地獄に落とされなかっただけマシか」


 時雨の声は落ち着いていたものの、未だ天使の言葉を認めた訳ではなかった。

 天使の言葉を現実として認めたくないというのが本音だが、今のこの状況を夢で済ますには、あまりにも現実的すぎたのだ。

 肌で感じる風、翼のはばたく音、手を握っている感触や自分のこの脱力感など、現実で感じるあらゆる感覚が再現される夢など、今まで見たことがない。


 ああ、たった十七年か俺の人生。

 いくらなんでも短すぎやしないか?

 十七っつったら、青春真っ盛り。将来の希望を胸に抱いて、恋に勉強に色々やってる年ごろじゃないのか?

 そんなときに死ぬなんて、人生最大の不幸だ……


 などと取り留めのないことを考えていると、しばらくして目の前に巨大な影が見えてきた。

 よく見ると、それは真ん中で区切れていて、左右対称に神話をモチーフとした、厳かな彫刻が彫ってある。

 いったい何だろうか。巨大な石板のようだが……

 時雨がじっと謎の石板を見ていると、頭上から天使の声が聞こえた。


「あれが天国への入り口、カエルスの門ですよ」


 門ということは、あれが扉なのだろうか。

 随分と巨大な扉を造ったものである。いったいどんな巨人が出入りすると言うのだ。

 時雨はその五○メートルくらいはある扉を、呆れたような目で見つめた。

 これ程のものを造れるとなると、相当な権力者か金の有り余った富豪か。

 荘厳かつ巨大な建造物というものは、どこにおいても富と権力の象徴らしい。

 入り口が見えたと言っても、そこに着くまでにはもう少し時間がかかる。

 その間は互いに何も喋らず、しばらく飛行した後にやっと巨大な扉の近くまで来た。

 ゆっくりと下降していって、少し離れたところに降り立つ。

 軽くジャンプしたりして、時雨は地に足を付ける感触を確かめた。

 辺りは霧に覆われ、地面はまるで雲のように見える。

 床が抜けて、そのまま地上まで落ちてしまいそうだが、靴を通して足に伝わる感触は、硬い土の地面そのものだった。

 時雨が足踏みしている間に、天使はさっさと扉に向かって歩いて行ってしまった。

 それに気付いた時雨は足早に後を追う。

 二人は特に言葉を交わさずに扉へと向かった。




 壁のように巨大な扉に背を預けて立っている、一人の少年がいた。

 目を閉じ、腕を組んで静かに佇んでいる。

 その顔は中性的で、少々幼さの残る、あどけない顔立ちだった。

 色素の薄い、金に近い茶色の髪を風に遊ばせていたその人物は、何かを感じ取りすっと目を開いた。

 丁度、時雨たちが扉の前まで歩いて来たところだ。

 その男と時雨たちは、向かい合う形で対峙した。


「彼が門番さんですよ」


 と、小さな声で天使が言った。

 その言葉に、時雨は扉の前に立っている男を見る。

 見た限りでは、相手の方が自分より身長がやや低いこともあり、自分と同じかもう少し年下に見える。

 その男の背中には、隣に立つ天使のような、白い翼はなかった。

 あの門番は天使ではないのだろうかと疑問に思ったが、それはなんとなく口にしなかった。

 何故と問われれば理由は解らないが、直感的に訊いてはいけないことのような気がしたのだ。

 時雨の隣に立っていた天使が、ゆっくりと門番の方へと歩み寄る。

 門番は動かない。

 そして、天使と門番が正面から対峙する。

 門番はまるで怒っているかのような表情で天使を見ているのに対し、天使は悲しむような、哀れむような複雑な表情をしている。

 離れたところに立っている時雨からは、それは見えていないだろう。

 ほんの数瞬の睨み合いの後、門番は無言で道を譲り、扉に手を付いた。

 さして力を込めた様子もないのだが、門番が押すと巨大な扉は音もなく開いた。


「……さ、時雨、行きますよ」


 天使が振り返って時雨を呼ぶ。

 扉が開くのをぼーっと見ていた時雨は、その声を聞いて慌てて天使の許へと歩いてきた。

 時雨が来るまで待ってから、天使は扉をくぐる。

 その後に時雨が続く。

 時雨が扉をくぐるとき、門番が天使をじっと見つめていたような気がした。

 眉をひそめ小さく首を捻りながらも、時雨は何も言わずにその場を後にした。




 扉をくぐると、時雨は差し込んだ光の眩しさに目を細めた。

 明るい光と穏やかな風が満ちていて、今までいた霧の中とは全く違った雰囲気を醸し出している。

 道行く人々は穏やかに笑い、美しく着飾った天使が空を舞う。

 目の前の変態天使や先程の門番は、どちらかと言えば地味であることが判った。

 レンガ造りの塀に囲まれ、緑の芝生の中央には大きな花壇が鮮やかな花を抱いている。

 ここはちょっとした広場のようだ。

 カフェでも飲みながら散歩するのに丁度良い。

 実際、散歩している風の人や天使がいる。

 普通の人々に交じって羽の生えた人が歩いている光景は、何とも言い難い不思議な気分にさせる。

 珍しそうに時雨が辺りを見回すのも気にせず、天使はどんどん先へ進んで行く。

 時雨は、大分離れた場所に天使の背中を見付けて、慌ててその後を追った。


 整然と敷き詰められた石畳を歩いていくと、市街地のような場所に出た。

 頭上にそびえる高層ビルに、華やかに飾り付けたショーウインドウ。

 よくよく見れば、ジュースの自動販売機や銀行のATMのようなものまであるではないか。

 そこがあまりにも普通の街並みすぎて、余計にこれは夢なのではないかという思いが頭を過る。

 だが、人々から突き刺さる好奇の視線は夢などではなく、現実のものだった。

 そんなに学ラン姿の自分が珍しいのかと思ったが、どうやら違うようだ。

 どちらかと言えば、人々は時雨よりもその前を歩く天使に注目している。

 見ず知らずの通行人から聞こえるヒソヒソ話と、そこから感じるいくつもの視線。

 その奇妙な雰囲気に耐えられなくなったのか、時雨は天使に話し掛けた。


「……なあ、さっきから見られてるけど、お前って実はすっげー有名人?」


 すると天使は顔だけ時雨の方に向けて苦笑してみせた。


「ええまぁ、有名と言えば有名でしょうね。

 色んな意味で」


「…………」


 その、色んな意味とは一体何なのか気になるところではあるが、あまりしつこく聞いて良い雰囲気でもなさそうだ。

 他に何か話題はないかと思案していた時雨だが、ようやく目の前の天使の名前を聞いていないことに気が付いた。


「そういえば俺、まだあんたの名前聞いてなかったよな。なんて名前?」


 しかし天使は問いには答えず、はぐらかすように笑う。


「別にそう長い付き合いになる訳じゃないんですから、名前なんてどうでもいいじゃないですか」


 そう言ってすぐに前を向いてしまった。


「何て呼べばいいんだよ」


 一人で取り残された形の時雨の呟きに、天使は前を向いたままでただ一言、「好きに呼んでください」と言った。

 それが気に入らなかったのか、時雨は眉間に皺を寄せて天使を睨み付ける。

 直後に何事か思い付き、ニヤリと口の端を持ち上げ右手の人指し指をピンと立てて、きっぱりはっきり言い放った。


「んじゃあ、ポチ」


 ずがしゃあっ


 時雨の言葉を聞いた瞬間、天使は前につんのめり盛大に砂埃を上げて転んだ。

 中々派手なリアクションをしてくれる。

 しかし命名ポチはすぐさまがばぁっと起き上がり、ずいっと時雨に詰め寄って怒りを露に叫んだ。


「何ですかそのポチっていうのは!」


 その言葉に、しかし時雨は怯む様子もなくあっけらかんと答える。


「何って、呼び名。好きに呼んでいいんだろ? 俺、犬好きだし」


 犬と言えばポチ。いやハチ公も捨てがたい。

 時雨の反省も何もない態度に、天使はこめかみを押さえつつ怒りとも呆れともつかない溜め息を吐いた。


「……もっと違うのはないんですか」


 すると時雨はこれ以上ないくらい真面目な顔で、目の前に右手の人差し指をびしっと立てて、再びきっぱりはっきり言った。


「タマとか」


「ルシエルですっ!」


「最初からそう言えよ」


「…………」


 ルシエルはがっくりと肩を落とし、疲れたような溜め息を吐くと時雨に背を向けて歩きだした。

 そんな天使を見て、時雨は勝ち誇った笑みを浮かべ、得意げに鼻歌なぞ歌いながらその後を追う。


 しばらく歩くと、人通りが少なくなってきた。

 建築物が減った代わりに緑が増え、なんとも田舎のような雰囲気である。

 のどかと言えばのどかだが、時雨は寂しい景色だとしか感じなかった。

 そんな中に、ぽつんと建っている一軒の家があった。

 新しくもなく古くもない、ただそこにあるだけの小さな家。

 ルシエルは躊躇いもせずにその入り口を開けた。


「ま、狭いとこですがゆっくりしてってくださいね」


 そう言うとさっさと中に入っていってしまった。

 時雨もその後を追う。

 確かに狭い家だった。

 独り暮らしにしても狭すぎる。

 その原因は、入った瞬間に解った。

 元から狭い家の中に、モノが溢れ返っているのだ。

 置き場がないのか、廊下に無造作に重ねられた本を見て、時雨はそれに気付いた。

 よく見れば、本だけでなく、何に使うのかも定かではない様々ながらくたも転がっている。

 どこからか拾ってきたのか、それとも自ら購入したのか。

 窓枠にずらりと並んだ親指サイズのこけしの群れを見て、時雨は疲れたような溜め息を吐いた。

 なんとも息が詰まりそうで、時雨はシャツの襟元を緩める。

 因みに学ランのボタンは最初から全開だ。

 短い廊下を進み、ドアをくぐるとこれまた狭い部屋だった。

 床は既に本で埋もれている。


「……お前、こんな狭い部屋で苦しくない?」


 思わず口をついて出た疑問に、ルシエルは、まだがらくたに埋もれていない椅子を差し出しながら答えた。


「仕方ないでしょう、広い家は家賃高いんですから」


 その、なんとも庶民じみた答えに、時雨は思わず言葉に詰まる。

 天使っていうのは、もっとこう、神殿っぽいとこに住んでるもんじゃないのか?

 などと思いつつも、差し出された椅子に座る。

 小さなテーブルを挟んで、向かい側にルシエルが座るのを待ってから、時雨は口を開いた。


「……なぁ、俺が死んだって話だけど……」


「ええ、本当ですよ。通学途中に殺されました」


 時雨が言い終わらないうちに、ルシエルは笑みを崩さず言った。

 その言葉を聞き、時雨がわずかに眉をひそめる。


「殺された? でもあれ、さっきの事故ってたように見えたんだけど」


 あのiPodもどきに映った映像では、確かに自分はトラックに跳ねられていた。

 まさかあれは故意に起こした事故だとでも言うのか。

 ルシエルはそんな時雨の様子を見ながら、なるべくゆっくりと話しはじめた。


「いいですか? ここはカエルス……貴方たちの言うところの天国です。カエルスには対を成す世界があり、それがアビス。言うなれば地獄です。

 アビスには、無数の生き物が住んでいますが、その中の一種に魔虫という虫がいます」


「……ふーん」


 頬杖をついて時折相槌を打ち、あまり気のない返事をしながら、時雨はルシエルの話を聞いていた。


「この魔虫は生きた人間に卵を生みつけ、孵化させます。

 この卵が孵化するための条件は一つ。

 生みつけた人間に悪事をさせること」


「悪事?」


 人が何か悪いことをしたからといって、それが何故卵の孵化に繋がるのかは知らないが、初めて聞く犯罪の説に少しばかり興味がわいた。

 ルシエルの話は続く。

 なんでも、人間の負のエネルギーと、その人間の悪事で奪った他者の寿命の残りを得ることによって、初めて魔虫は孵化できるんだとか。


「悪事といっても色々ありますね。

 まあ、世の殺人事件は大抵魔虫の影響を受けていると思って間違いないですよ」


「ってことは、俺が死んだのは偶然起きた事故じゃなくて、その虫のせいだってことなのか?」


 ようやくこの非現実的な状況に慣れてきたのか、時雨は真面目な顔で聞き返した。


「ええ、この場合、貴方は定命で生を全うしてないので、こちら側としても死んでもらっては困るんですよ」


 こういうアビス絡みの突発的な事件で定命――いわゆる寿命――に関係なく死んでしまった場合、その人間を生き返らせることができるんだとか。

 その方法はただ一つ。

 孵化した魔虫を殺すこと。

 何やら殺伐としてはいるが、自分の命が懸かっているのだ。

 文句など言えるはずもない。

 魔虫は暫らく人間界に留まり、新たな卵を産むそうだ。

 なんとかその前に虫を退治したい。

 ルシエルは神殿に行って、人間界に降りる許可を取ってくると言った。


「少し待っててくださいね?」


 などと言いつつ家の外に出ると、背中の羽を大きく広げて飛び去っていった。

 後に残された時雨は、やっぱり天国には神殿があるんだなぁ……などと呑気に考えながら、ルシエルが戻ってくるまで暇を持て余すこととなった。




 ルシエルはしばらく一人で空を飛ぶ感覚を楽しんだ。

 なにしろ久しぶりの飛行だ。

 やはり空を飛ぶのは、一人でのんびり飛ぶのがいい。

 頭上を過ぎる空の青と、眼下に広がる草葉の緑。

 鳥が空を飛ぶようになったのは、ひょっとしたらこんな景色が見たかったからなのかもしれない。

 そんなことを考えている間に、遠くに神殿が見えてきた。

 神殿の周りには他に建物はなく、日の光を受けて碧色に輝く木々の葉が並んでいる。

 小高い丘の上で、神の住まう社は眩しいほどに真白く佇んでいた。

 その様相は西洋の神話を彷彿とさせる。

 恐らく、多くの人々が描くイメージと同じではないだろうか。

 荘厳な彫刻が掘られた白石の壁、整然と並んだ純白の柱。

 それらを囲む高い塀は外敵を排除するためのものか、それとも外界から聖域を隔離するためのものなのだろうか。 人を寄せ付けないその姿は、威圧感さえ感じる。

 ルシエルは神殿の正面、周囲を取り囲む高い壁の中央にある門の前に降り立った。

 その門の前には、カエルスの門番と似たような服を着た二人の兵士が、細い槍を構えて立っていた。

 その背には一対の白い翼。一人は男、一人は女だった。

 ルシエルが近付くと持っていた槍の穂先をルシエルに向け、声を張り上げた。


「何をしに来た!」


「まず用件を言え」


 二人の天使のあまりにも強い警戒心は、門を守る任務のためだけではないように見える。

 明らかにルシエルに対し敵意を剥き出しにして、さらに嫌悪の視線を送っているのだ。

 だがルシエルはそれをまったく気にした様子もなく、笑みを崩さずにこやかに答える。


「いえ、ちょっと下に降りる許可を取りに来たんですよ」


 その言葉に二人の天使が気色ばむ。


「何故そんなものが必要なのだ」


「貴様、今度は何を企んでいる!」


 じわりと殺気にも似た気を放ち、槍を構えてにじり寄る。

 もう何を言っても聞き入れてはくれないようで、ルシエルが強行突破も仕方ないかなどと物騒なことを考えだしたときだった。


「何をしている」


 凛とした声が門の中から聞こえた。

 その声を聞き、二人の門番は慌てて門を開いた。

門の中から現れたのは、一人の天使。

 普通の天使とは一線を画しているような、どこか威厳ある天使だった。

 神父が着るような白い礼服を、動きやすいように要所要所でまとめてある。

 黄金の髪は肩の下まで伸ばしており、風が吹く度に光を反射して柔らかに揺れた。

 夕焼け色の鮮やかな瞳が、門番とルシエルを交互に見つめる。

 ルシエルはその間笑みを絶やさずに、門の内側から自分を観察しているその天使を見つめていた。

 しばらくの間沈黙が続き、それを打ち破るように威厳ある天使が口を開いた。


「……中に入れてやれ」


 その天使の一言に、二人の門番は慌てたように抗議する。


「し、しかし……」


「奴はあの……」


「構わん。責任は私が取る」


 有無を言わさずに天使が言うと、門番たちは渋々ながらにルシエルを中に通した。

 門番たちが不満顔で見送る視線を背に受けて、ルシエルは悠々と中に入った。

 その天使はルシエルを連れて神殿の方へと歩いて行く。

 二人は暫し黙って歩いていたが、門から充分に離れたところでルシエルが口を開いた。


「お久しぶりですね、お元気そうでなによりですよ、大天使ミカエル」


 嫌味を込めて言ったその言葉に、しかしミカエルは振り向きもせず言う。


「……お前がいなかったからな」


「どーゆー意味ですか」


 逆に嫌味を返されて反論するルシエルだが、ミカエルはそれを無視して別のことを話しはじめた。


「……で、何をしにここへ来た」


「貴方までそう言う……

 ちょっと下に降りる許可を取りに来ただけですよ。仕事です、仕事」


「…………」


 ルシエルの言葉に何事か考えを巡らせていたミカエルだったが、不意に振り向いて口を開いた。


「お前が行ったところで無駄だろう。私が一緒に行って掛け合ってみよう」


 まさかそんなことを言われるとは思っていなかったのか、その意外な申し出にルシエルはぽかんと口を開けた。

 だが、好意で言ってくれたのなら従おうとでも思ったか、


「それはどうも」


 などと気のない返事をしながらミカエルの後ろをついていった。

 神殿に行くまでには、広い中庭を通って行かなければならない。

 ここまで話しながら大分歩いたが、神殿まではまだまだある。

 聖樹と呼ばれる、庭の中央にある巨大な木が、二人を静かに見下ろしていた。


 ようやく神殿内に入ると、そこにはひんやりとした空気と、重い雰囲気が充満していた。

 誰もいない回廊を歩いていくと、一番奥に一際厳かな扉がある。

 そこがこのカエルスの、ひいてはこの世界の万物の父である神の部屋だ。

 扉の前までくると、こちらが何か言う前に扉の中から声がした。


『開いておる。二人とも入るがよい』


 ミカエルはその声に従い扉を開ける。

 扉は音もなく内側に開いた。

 重く厳かな空気が中から流れだす。

 天窓から日の光が入っているので、部屋の中は明るい。

 この広い部屋の一番奥に、一人の老人が飾り気のない椅子に座っていた。

 真っ白な長い髪と髭。

 この小柄な老人こそが、このカエルスの最高神、ゼウスなのだ。

 二人はゼウスの前に立ち深々と頭を下げた。


「して、何用かの?」


 ゼウスの問い掛けに答えたのはミカエルだった。


「ガイアに降りる許可を頂きに参りました」


「そなたがか?」


「いえ……」


 ゼウスの問いにミカエルは首を振り、ちらりとルシエルを盗み見る。

 ルシエルは俯いたまま黙して語らない。


「……彼が、です」


 仕方なくミカエルが言った。

 ゼウスは黙ったままのルシエルを気にした様子もなく、ミカエルの言葉に頷いた。


「そうか……しかし、こやつに許可を出して良いものか……お主も知っておろう」


 ゼウスの言わんとしていることに気付き、ミカエルは口を開いた。


「それは重々承知しております。

 しかし今回はこの者の意思を試す良い機会。許可を出して頂けないでしょうか。

 ……何かありましたら、責任は私が取ります」


 ミカエルのその言葉に、ようやくゼウスは首を縦に振った。


 そのやり取りを、ルシエルはどこか遠くで聞いていた。

 声も出せず、ただ黙って立っている。

 ゼウスを見たときから、心の奥底に生まれた感情……それに抗いたくても、抵抗することすら難しい。

 この世の全てが、逃れようのない闇に堕ちて行くような感覚。

 幸福などどこにもありはしないと思わせる程に強く、容易く人の心を絶望に陥れる暗闇……それは恐怖だ。

 突如心に沸き上がったそれを必死に押し殺し、ともすれば逃げ出したくなる衝動を抑える。

 額には冷や汗が浮かび、どうにも気分が悪い。

 ルシエルは、ゼウスに部屋を出ることを許されるまで、ただじっと耐えていた。

 その間のゼウスとミカエルの会話はほとんど覚えていない。

 だが、気が付けば自分は部屋の外にいた。

 ふらふらと手近な壁に寄り掛かり、深く息を吸う。

 未だ震えが残っていたが、ゆっくりと心に浸み出した恐怖の色が薄れていくのが解った。

 ミカエルはそんなルシエルの様子をただ黙って見ていたが、小さく息を吐くとルシエルの側に近寄ってきて言った。


「……あまり大丈夫ではなさそうだな」


 ミカエルの声に、なんとか言い返すだけの気力は戻っていた。


「これは……仕方ないですよ。

 自業自得、というやつですかね……」


 力なく笑い大きく息を吐く。

 不意にミカエルがルシエルの手を取り、手のひらに何かを押しつけた。

 それは小さな紙きれだった。

 中央に何やら複雑な紋様が描かれている。

 ルシエルがそれを確認した瞬間、紙きれは小さな炎を発して燃え上がり、一瞬にして消え去った。

 しかしルシエルが手を翻すと、その手の甲には紙に描かれていた紋様と同じものが刻まれていた。

 その紋様こそが通行証なのだ。

 この紋様がないと、内側からあの巨大な門を開けることができない。


「くれぐれも不祥事を起こすなよ。私の責任になってしまう」


 ミカエルはそう言うと、腕を組み僅かに眉を寄せて不機嫌そうな顔になった。

 それを見て、ルシエルはくすりと小さく笑う。


「誰もそこまでしてくれと頼んでませんよ。相変わらずお節介な御方だ。

 心配しなくても、今回はもう貴方に迷惑をかけるような真似はしませんから」


 ようやく元の調子を取り戻した口調で軽口を飛ばす。

 その様子にミカエルは少し安心したように息を吐き、ルシエルを前にして初めて小さく笑った。


「そのような軽口が言えるのなら、もう大丈夫だな」


 その言葉に、ルシエルは不思議そうにミカエルを見つめる。

 堅物と評判だったミカエルが、自分を心配してくれていたことに少しだけ驚いたのだ。

 神の言こそ全ての基とする天使にとって、自分の存在は許せないものだろう。

 ましてや、大天使という他の天使たちよりも神に近しい立場にいるはずのミカエルなら、会った途端に刺されてもおかしくはないのだ。

 それとも、しばらく逢わずにいるうちに、ミカエルの考えが変わったのだろうか。

 ……いや、そうではなかった。

 彼は昔から、そういう性格だったのだ。

 例え自分が不利になろうとも、まず相手のことを優先する……そんな人なのだ。

 ルシエルはようやく思い出した。

 思わず口元が弛む。


「ありがとうございます」


 久しぶりに、ルシエルは素直に礼を言った。

 こんな自分を気遣ってくれるミカエルを、その昔尊敬していたことを思い出した。

 それが可笑しくて、思わずくすくすと笑った。

 ミカエルはそんなルシエルの様子に、何事かと眉を寄せる。


「……何のことだ」


 ミカエルはルシエルのお礼の言葉に、白々しいとさえ思える言葉を返した。

 素直に礼を受け取らないのも、昔から変わらなかった。


「では、僕が勝手にそう思っていることにしますよ」


 仕方なくルシエルがそう言うと、ミカエルは背を向け歩いていった。


「本当に、お節介な御方です……」


 ミカエルには見えていないと知りながら、その後ろ姿に深々と頭を下げた。




「……暇だ」


 時雨はルシエルの家で暇を持て余していた。

 てっきりすぐに帰ってくると思っていたのだが、既に一時間近くが経過している。

 狭い部屋の中では、風景など簡単に見飽きてしまう。

 それに、がらくたに囲まれた狭い部屋に一人でいるのも、あまり良い気はしない。

 せっかく天国とやらに来れたのだから、天国見学でもしてみようかなどと思い始め、時雨はルシエルの家を出た。

 街までは一本道だったはずだ。

 迷うこともないだろう。

 呑気に考え、一人で何もない道を行く。

 来るときにも気付いたが、もう少し街に近いところには露天商などがいる。

 そこで買い物でもしてみようか。


 時雨は、昔から大きな店などよりも、こうした小さな屋台や露天で買い物をすることが多かった。

 店員と他愛ない話をするのが好きだったので、堅苦しい大手販売店よりも、道端の小さな店の方が解放感があって良い。

 それに、こういった店にこそ掘り出し物があるというものだ。

 そこまで考えて、ふとあることに気付いた。


 ……金、使えるのか?


 なんと言っても、ここは天国である。

 時雨が今持ってるお金と言えば、制服のポケットに突っ込んである財布の中身……出してみると小銭ばかりだった。

 銀行で両替とかってできるのか?

 そもそも、ここの通貨って何なんだ。

 ルシエルに詳しく聞いておけば良かったと後悔しながら、時雨は街を目指した。

 買い物はできなくても、見物くらいはできるだろう。

 コンビニがあれば雑誌くらい立ち読みできるだろうし。

 天国にコンビニなどというものがあるかどうかさえ甚だ疑問だったが、先程の近代的な街並みならばコンビニの一軒や二軒あってもおかしくはない。

 人々の服装は現代的なものから中世ヨーロッパ風のものまで様々だったが、建造物はどれも新しかった。

 いや、まだ街の一画しか見ていないからそうと断言はできないが、少なくとも時雨が住んでいた街と何ら変わりない。

 ひょっとしたら、もっと向こうの方には中世や古代の建造物が並んでいるのかもしれない。

 ちょっとした観光気分で、時雨は街を目指した。


 街まではそう遠くなかった。

 ぱらぱらと家が増えてきたと思うと、すぐに大きな建物が並び、沢山の人々がごった返す市街地に出た。

 街の雰囲気は明るくて良いのだが、何となく作り物のように感じてしまう。

 整然と敷き詰められた石畳は傷一つなく、等間隔で建っている建造物はどれも同じような形をしていた。ビル郡なのだから当たり前と言えば当たり前なのだが。

 建物に掲げられた看板だけがそれぞれ違った。

 何だか、誰かが創った箱庭のようだ。

 そう考えると、人々の笑顔さえ、どこか作り物じみて見えてくる。

 そう思うと何故か店の中に入るのも躊躇いがちになり、結局まだ一軒も覗かないまま通りをぶらぶらと歩いていた。

 ようやくコンビニのようなものを発見したとき、時雨は視界の隅に何か変なものを見たような気がして瞬いた。

 ほんの一瞬だが確かに見えた。

 作り物のような街より更に作り物っぽい……


「人形……?」


 そちらに目を向けると、それはどう見ても人形だった。

 まるでマネキンのように動かない表情で、街の中を歩いている。

 背丈は子供くらいか、身長に合わない大きめな茶色の燕尾服を着て、紙袋を抱えて人間のように歩いていく。

 時雨は何故そんなに興味をひかれたのか自分でもよく分からないが、咄嗟にその人形を追い掛けた。

 思ったより足が速く、見失わないようにするのが一苦労だ。


 しばらく追いかけっこを続けて、もういくつ目の角を曲がっただろう。どこをどう通ったかなど、まったく覚えていない。

 しかし気が付くと人形の姿はなく、あれほど賑わっていた人々のざわめきも街の風景も消え失せ、辺りには濃い霧が立ちこめていた。


「なんだ、ここ……」


 立ち止まり辺りを見回すが、濃い霧のせいで何も見えない。

 迷子になるなど何年ぶりだろう。

 来た道を戻ろうと振り返るが、霧に阻まれ道はまったく見えなかった。

 誰かが来るまでじっとしていようか、感覚を頼りに元来た道へ引き返そうか、それとも前に進もうか。その場で佇み考え込んで……


 唐突に、ぞくりとした悪寒が背筋を走り抜けた。

 何故かは分からない。

 しかし、とても嫌な感じがして、その場に留まりたくなかった。

 一人でここに居てはいけない。早くここから離れなくては。

 そんな思いだけが頭を支配して、時雨は走りだした。

 どこに向かっているかなど分からないが、とにかくひたすらに走って走って走って……


「おい、そこで何をしている!」


 誰かの声が聞こえて、時雨はようやく立ち止まった。

 荒く息を吐き、額の汗を乱暴に手で拭う。

 辺りを見回すと霧が薄くなっていて、ぼんやりとどこかで見たようなシルエットが浮かんだ。あれは……


「門だ……」


 カエルスに通じる巨大な門だった。

 ということは、先程の声の主は、


「あ、門番」


「サダルメリクだ」


 門番は時雨の声に、咄嗟に訂正した。


「サダルメリク……? あぁ、名前ね。俺は時雨。宜しくな」


「ああ……」


 一息ついてようやくいつもの調子に戻ったらしい時雨の明るい声に、門番はごく短く返事をした。

 どこをどう通ってきたのかは解らないが、時雨はどうやらカエルスの外に出てしまったらしい。

 しかし門の近くまで来ることができたのはラッキーだった。

 見渡すかぎり一面の霧の中、目印になるようなものなどなく、下手をすれば一生迷っていたかもしれない。


 ……いやまあ、既に死んでいるのだから、改めて餓死することもないだろうけど。


 時雨は心の中だけで呟き、とりあえずは中に入れてもらおうと、門番に交渉するべく笑いかけた。


「えっと、サダルメリク?

 俺のこと覚えてっかな。ほら、さっきルシエルと一緒にここ通っただろ」


 まるで交渉とは言えなかったが、時雨はこれでも上手く交渉しているつもりだ。


「……ああ」


 サダルメリクは突然馴々しく話し掛けてきた時雨を不快に思ったのか、少し不機嫌そうに短く答えた。

 しかし時雨はそれに気付かず――寧ろ敢えて無視しているようにも見えるが――話し続ける。


「ちょっと中に入れてくんないかな。ルシエルんとこ戻んないとさあ」


「……れ」


「あ? 何か言った?」


 サダルメリクの短い呟きが聞き取れなかったのか、時雨は何となく聞き返した。


「黙れ!」


 突然叫んだサダルメリクに驚き、時雨は慌てて口を閉じた。

 完全にサダルメリクに圧されてしまっている。

 見た目は自分とそう変わらない歳なのに、この威圧感は何なのか。

 時雨は冷や汗が頬を伝うのを感じた。

 そんな時雨を見て、サダルメリクは我に返ったようにはっとなり、時雨から顔を背けた。

 サダルメリクを支配した感情は、決して怒りなどではなかった。

 しかし、言葉で表すにはあまりにも複雑なその思いは、彼の心をパンクさせ、怒りという最も簡単な感情となり噴き出したのだ。


「……すまなかった。通れ」


 それだけ言うと門を開け、時雨が来るのを待つ。

 気まずさからか、時雨の方を見ようとはしなかった。

 一瞬躊躇った後、時雨は言われるままに門をくぐった。

 通るときにサダルメリクの方をちらりと振り返ると、どこか悲しそうな、寂しそうな目で門の中を見ていた。

 彼の髪と同じ褐色の瞳が、このときはひどく暗く見えた。




 重い音をたてて門が閉まる。

 辺りには静寂と、ただ一人サダルメリクが残された。

 否、残されたのはサダルメリクだけではない。

辺りにに霧が漂い始め、周囲に複数の気配が現れる。

 サダルメリクは門に手をつき俯いた。

 その口から聞こえるのは、自己嫌悪の深い溜め息だけだった。

 時雨が逃げてきたときに、彼についてきたのだろう小鬼の気配も、サダルメリクを苛立たせた原因の一つだったに違いない。

 寄ってきた小鬼を排除すべく、彼はゆっくりと振り向いた。


 時雨はというと、閉じた門を見つめ、サダルメリクの様子を心配しながらも街へと歩いていった。

 何やらただ事ではない様子だったが、自分が何か気に障ることでも言ったのだろうか。

 いきなり馴々しくしたのがいけなかったのか。それとも騒がしくしたのがいけなかったのか。

 腕を組みぐるぐると考えながら歩いていたので、自分に近付いてくる人影に気付かず、思いっきりぶつかった。


「にゅわっ!」


「ぃてっ! 何だ!?」


 どうやらお互いよそ見をしていたらしく、正面から突っ込んだ。

 時雨はたたらを踏んでよろけるが、何とかその場に踏みとどまった。

 しかし相手の方は後ろに引っ繰り返り、尻餅をついた格好になっている。


「ったたた……もぉ〜どこ見て歩いてんのー?」


「ああ、ワリィ、ちょっと考え事してたもんだから」


 時雨は慌てて転んだ相手に手を差し伸べる。

 よく見ると相手はまだ小学生くらいの女の子だった。

 染めているのか、淡い桃色の髪を結い上げ、青を基調とした服に赤いスカートをはいている。背中には、小さな羽がついた可愛らしいバッグを背負っていた。

 その子は時雨の手に掴まり立ち上がるとぱたぱたと服についた汚れを払い、


「ぶつかってきたのは減点だけどー、すぐにレディに手を差し出したのは偉いわねー。誉めてあげるー」


 かなり偉そうにそう言った。


「ああ……そう。そりゃどうも……」


 時雨はこの生意気な少女に何と返せば良いのかわからず、曖昧に返事をした。

 少女はそれには構わず小さな腕時計に目を落とし、口元を押さえて慌てたように叫んだ。


「やっだー、あと七分しかないー!

 じゃあねお兄さん、あたし急いでるのー!」


 早口にそう言うと急いで走っていってしまった。

 残された時雨は呆然とそれを見送っていたが、足元に一枚の紙切れが落ちているのに気が付いた。

 拾ってみると、それは何かのチケットのようだ。全て英語表記されているので、お世辞にも成績が良いとは言えない時雨には、何のチケットかまでは分からなかったが。

 どうやら先程の少女は、これを観に行くために急いでいたらしいことは容易に想像できた。

 時雨は少し迷ったあと、先程の少女が走って行った方に駆け出した。

 相手は小さな女の子だし、すぐに追い付くだろう。

 何で見ず知らずの他人のために……とは思うが、一度拾ったものを再び捨てるのも気が引けた。

 ああ、俺ってばお人好し?

 などと思いながら苦笑いしつつしばらく行くと、桃色の髪の少女が大きな建物の前で立ち止まっているのが見えた。

 何やら慌ただしくバッグの中を探ったり、ポケットの中を探したりしている。

 時雨はその少女に近付き手に持ったチケットを、ポケットの裏地を引っ張り出して飛び跳ねる少女の目の前に差し出した。


「これ、お前のだろ?」


 少女はきょとんとして時雨を見上げたが、手に持っているチケットを見ると、途端に嬉しそうな笑顔を見せた。


「お〜これよー! わざわざ届けてくれてありがとねー。アナタいい人ねー。お名前はー?」


 少女は時雨の手からチケットを受け取ると、その場でくるくる回ったりぴょこぴょこ跳ねたりしながら言った。

 時雨はそんな微笑ましい光景に思わず笑みを零しながら、そういえばまだ名乗っていなかったことに気付く。


「どーいたしまして。俺は木高時雨っつーんだけど、」


 そこまで言ったところで少女はぴたりと動きを止め微かに眉を顰める。


「……きみは?」


 時雨は少女のかすかな変化に気付かず言葉を続ける。


「アナタってー……」


 少女が何か言いかけたときだった。

 通りの向かいにあった絡繰り時計が、十二時を告げるべくオルゴールの音色と共に動きだした。

 それを見て、少女は慌ててわたわたとその場で足踏みする。


「あー、やっばーい! もうはじまっちゃうー!

 ごめんねー、また今度ねー!」


 少女はそう言うと建物の中へと走り去ってしまった。

 それがあまりにも突然だったので、時雨は何もできずにただ呆然と見送った。


「……えーと……」


 困ったように頭を掻き、途方に暮れてその場に佇む。

 さて、これからどうしたものかと、再び辺りを散策しようとしたときだった。


「時雨! こんなところにいたんですか」


 聞き覚えのある声が空から降ってくる。

 見上げるとルシエルが空から降りてくるところだった。

 時雨の目の前にふわりと降り立ち、背中の大きな翼を畳む。

 背中に羽があると日常生活に邪魔じゃないのかとも思うが、それは意外にも、折り畳むと思ったより小さくなった。

 平たいカバンを背中に背負っているようなものだ。

 これならば、椅子に座るのにはさほど邪魔ではないだろう。

 時雨はルシエルに向かって片手を上げて笑い掛ける。


「よう!」


「よう! じゃありませんよ。

 どこほっつき歩いてたんですか。捜したんですよ」


 ルシエルは怒ったような顔をして時雨を睨み付ける。

 どうやら本当にあちこち飛び回って捜していたようだ。

 時雨は顔の前で手を合わせると、さして反省した風でもなく早口に言った。

「わぁるかったって。でもお前帰ってくるの遅ぇんだもんさぁ。俺、暇で暇でどーしよーもなかったんだよ」


 その、まるで反省していない時雨の様子を見て、ルシエルは溜め息を吐いた。

 ――こっちは色々大変だったのに、呑気なものだ……

 しかし時雨はルシエルの苦労など、まったくもって知るはずもなく。

 時雨は、お小言はもう御免だとでも言うように、愛想笑いを浮かべながら先程の奇妙な体験を話して聞かせた。


「あ、そーいやさ、天国って変なのがいんのな。

 俺さっき人形が歩いてんの見たぜ?」


 その言葉にルシエルは思わず眉をひそめる。

 それを見た時雨は、ルシエルに自分の話が信じられていないと思ったのか、ムキになって話を続けた。


「マジマジ! 俺そいつ追っ掛けて天国の外に出ちまったんだよ。

 ……ま、結局人形は見失ったけどさ。

 あ、でもほら、サダルメリクって門番いただろ。あいつなら何か知ってるかもよ?」


 時雨の言葉に、ルシエルは驚いたように目を見開いた。

 何事か考え込むように視線を落とし、口元に手を当てて小さな声で問い掛ける。


「……彼、何か言ってました?」


 時雨は怪訝そうに目を細めたが、腕を組んで考え、あのときの様子を思い出す。


「んー、何も? ただ、何か知んないけど機嫌悪かったみたいだった」


 時雨の話を黙って聞いていたルシエルだが、それ以上は何も話そうとしなかった。

 ただ一言、「行きましょう」と言って先に立って歩きだす。

 時雨は納得いかないような顔をしていたが、渋々ルシエルの後を追った。

 街の騒めきの中をしばらく歩くと、再度あの巨大な門が見えてきた。

 ルシエルと一緒にいると、人々の視線は相変わらずだったが、もう一々気にしないことにする。

 それよりも、この沈黙に今、耐えられるかどうか……

 歩いている間、二人は一言も喋らなかった。

 ルシエルが難しい顔をして考え込んでいたため、中々話し掛け辛かったのだ。

 時雨はわりと話好きなタイプだ。

 クラスでもムードメーカーの役を任されている。

 いわゆるお調子者なのだが、学校の友人たちからの評価は決して悪くなかった。

 時雨は、場の空気を読むからだ。

 自分が喋って良いときを知っている。

 同様に喋ってはいけないときも熟知していた。

 今は下手に話し掛けて良いときではない。

 しかし元来話好きな性格、そろそろ沈黙を打ち破りたい。

 何か今話しても良い話題はないかと、ネタになりそうなものを探してあちこちに目を走らせた。

 ルシエルはそんな時雨の気遣いも知らぬまま、ただ黙って歩いていく。

 ルシエルはずっと、時雨の言ったことについて考えていたのだ。

 サダルメリクのことも気になるが、時雨が言っていた、天国の外に出たという言葉が引っ掛かっていた。

 一人で勝手に外に出ることはできないはずだ。

 しかもあの口振りでは、門から外に出たのではない様子だ。

 出入口はあの門一つだけ。

 一体どうやって外に出ることができたのか。


「おい、ルシエル。門に着いたぞ」


 やっと話し掛けられるチャンスを掴んだのか、時雨がルシエルに声を掛ける。

 時雨の声を聞いて顔を上げると、いつの間にか門の目の前まで来ていた。

 ルシエルはのろのろと門に手をかざすと、門は音もなく開いた。

 かざした手の甲にはあの紋様。

 これは内側から門を開けるための鍵なのだ。

 これがない限り、大天使でも門を開けることはできない。

 自由に門の開閉を許されているのは、門番であるサダルメリクだけだ。

 開いた門から外に出る。

 サダルメリクが待ち構えているのではないかと思ったが、そこには誰もいなかった。


「何だよ。サダルメリクのやつ、門番の仕事さぼってんのか?」


 せっかくさっきのこと謝ろうと思っていたのに……とぶつぶつ呟く時雨に、ルシエルはやっと聞き取れるような小さな声で言った。


「……きっと、僕に会いたくなかったんですよ」


「あ? 何か言った?」


「いえ……」


 ルシエルの呟きが聞き取れなかったのか、時雨は聞き返したがルシエルは答えてくれなかった。

 そのまま歩きだすルシエルに、時雨は不機嫌そうな顔をしつつもついていく。

 背後で、重い音をたてて門が閉まった。

 歩いていく途中で時雨は一度だけ振り向いたが、本来そこにいるべき門番は、まだ戻ってこなかった。




 そのまましばらく歩くと、霧の中に大きな木が生えているのが見えた。

 こんなところに一本だけ不自然に生えている木だが、それは驚くほどどっしりと根を下ろし、四方に枝を張り巡らせている。

 その太い幹の中央には大きな穴が開いていた。


「さ、行きましょうか」


 ルシエルはそう言って時雨を手招きする。

 まるで穴の中に入れと言っているように。


「行くって……」


 時雨が近付き中を覗いてみると、暗く渦を巻く薄い闇が満ちていた。


「……なんだよこれ」


 何だかよく解らないが、あまり良い感じはしない。

 一歩引いてルシエルを睨み付ける。

 ルシエルはそんなことなどお構いなしにいつもの微笑みを浮かべ、


「何って、ゲートですよ。

 カエルスとガイアとを結ぶ」


 さも当然のようにあっけらかんと言ってのけた。

 ガイアというのは、時雨たちが暮らしている地上のことだ。

 天使たちは単に「下」と言うことも多いが。

 時雨は露骨に嫌そうな顔をして、もう一度穴の中を覗き込む。

 薄い闇が渦巻く穴をじっと見つめると、自然と顔が引きつってきた。

 ゲートということは、ここに飛び込んで地上に行くということか。

 まともな道とは思えないが……


「……なあ、」


 時雨が何かを言い掛けたときだった。

 ルシエルが時雨の背後に移動し、大樹と直線上に並ぶ。

 嫌な予感がして時雨が振り返ろうとしたときだ。


「つべこべ言わずにとっとと行きなさい」


 どげし


 あろうことかルシエルが、時雨の背中を思いっきり蹴り飛ばしたのだ。

 時雨は狙い違わず穴の中に倒れこむ。


「ひぃぃぃいょえぁあぁぁぁぁぁああ!」


 おかしな叫び声と共に穴の中へ落ちていく。

 ルシエルは満足そうにそれを見届け、自分も穴の中へ身を踊らせた。

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