第三十四話 「霧に潜むもの」
霧の中に入ってしまうと、一瞬にして視界が奪われた。ピサとオルガは予想以上の霧の深さに驚きを隠せない様子で――
「これすごいね。ホントになにも見えない……」
「所詮ただの霧と侮っていましたが、これ程とは……」
現在、視界は三十から五十センチと言った所か。まぁ、ほぼ見えないのと同義である。
これ、レイちゃんがいなきゃ突破するの不可能に近い難易度だよな。まじで知識の指環だけでもこちらの手中にあって心底良かったと思う。
下降の間は、霧の深さに慄いたか、集中しているのかわからないが、一様に無言だった。
しばらく、ジッと待っていると多少の揺れを伴い地面に昇降機が降り立つ。
「着いたようだな。どれ、早速ファヴに薔薇の匂いを覚えさせてくるか。お前らはそのまま座ってろ」
「はーい」
「了解であります」
「わかりました」
俺は竜車から降りて、ファヴに薔薇を嗅がせるフリをしながら霧の中に浮かぶレイちゃんに視線をやり、先導を始めてもらうよう合図を送る。レイちゃんはコクリと頷き、霧の奥に進み始めた。
近くのものは見えないのに、少し先を行くレイちゃんは霧の中に浮かび上がっていて、なんとも不思議な光景である。
再び、竜車に戻り先導してくれる方向に手綱を引く。
視界の効かない霧の中では、ファヴのドスッドスッ! という足音と車輪のガラガラという音だけが響いている。
……なんとも言えない空気だ。いや、重圧というべきか。この谷にも魔物が生息しているそうなので、そいつらがいつ襲いかかってくるかもわからない恐怖。襲われた所で剣を振り回すのも危ない。周りの仲間を傷付けかねないから。俺はレイちゃんという目があるからそこまで恐怖を感じていないが、なにも事情を知らないピサたちは常に緊張の糸を張り詰めている状態だろう。多少、心苦しくもあるが、備えあれば憂いなし。警戒を厳重にして損はない。
緊張を保ったまま進んで行くが、流石にずっと張り詰めた状態だとピサたちもしんどいだろうし、持たない。いざという時のためにも適度に集中してもらおう。俺は、凝り固まった筋肉をほぐしてやるようピサたちにおどけた調子で話を振る。
「難所だと聞いてたが、霧の谷はなんとかなりそうな感じだな! 魔物の気配もねえし、俺らの鋭い気配にビビって逃げ出したにちげぇねえ」
「もう、マサヒロ! 油断大敵だよ! しゃんとして!」
「わーってるって! でもよ、よーく思い出してみろ。魔界の森の帰路のこと。キメラ五体に遭遇したときだ。あん時は肝を冷やしたが、どうやって乗り切ったんだっけ?」
「ん?どうでしたか……。ワシは戦えずに悔しい思いをしたことくらいしか覚えてませんな」
このど阿呆め。どうやらオルガの知能はニワトリ程度らしい。
しかし、ピサはしっかり覚えていて、思い出のアルバムをめくるように当時の事を振り返り始める。
「私その時の事良く覚えてるっ! 確か、ファヴが追い返してくれてた。すごいよね、凶暴なキメラをひと睨みで! 流石、食物連鎖の頂点にいるだけのことはあるよね! …………あっ!! そういうことなんだ。ねえ、そうでしょマサヒロ?」
ピサは理解が早くて助かる。オルガはいまだにうんうん唸っていたので、多分まだ理解していない。説明する必要はないが、面倒見がいい事に定評がある俺は仕方なく説明してやることにした。ま、ブラッドは知らない話だし。
「まぁ、説明するまでもないんだが、若干一名アホがいるから一応説明してやる。さっきピサが言った通りファヴは魔物や魔獣と呼ばれる怪物たちの中でも最強の一角とされているファフニールの幼竜だ。まだチビ助だが、その強さは折り紙付き。俺たちに襲い掛かるってことはファヴにも襲い掛かるっことだ。普通の魔物はそんなアホな真似はしねぇだろう。要するにだ! 竜車に乗ってる限り襲われることはない! ……一部を除いて」
「待って待って。マサヒロ、いま最後になんて言った? ものすごく不吉な予感がするんだけど……」
「マサヒロ殿は、一部を除いて、と言いましたね」
ブラッドの野郎が耳ざとく聞いていた。
「万が一の話さ。下手したらファヴより強いのがいるかもしれねえ。ファヴ自身もそんなのに引っかかりたくないだろうから、避けて道を選んでるって。詰まる所、肩肘張り過ぎんなってことが言いたかったんだ。まだ最初の難所だぞ? この谷を抜けたとしても、さらに二つ、いや、下手したら三つの難所が残ってんだ」
「三つ? あれ? 待って。嘆きの霧谷でしょ? あと、血染め薔薇庭園と、あとなんとかの丘」
「久遠孔雀ですよ、ピサータ殿」
「あぁーそうだったそうだった。ありがとう、ブラッドさん。で、最後にその久遠孔雀の丘ってやつ! うん! やっぱりだ! 全部で三つしかないよ、マサヒロ! マサヒロが言ったのじゃ、四つになっちゃう」
「おいおい、ピサータ様よお。ちょっと考えが甘いんでないか〜い?」
「むっ。なによ……。なにか間違ってた?」
「間違ってるわけじゃないが、誤った認識だな。ケットシーもドワーフも友好的だったから、まぁ、そうなっちまうのも理解できるけどよ。エルフが同じように友好的かと問われると……」
「……あぁ、そっか。私、難所を乗り越えて幻の都に着けば無条件で手を貸してくれると思っちゃってた」
「そうだ、ピサ。手を貸してくれるかはわからない。下手したら敵対行動を取られることもあるかもしれん。こんな難所を三つも連ねた先に潜んでるわけだから、人嫌い? つーか、他の種族から遠ざかろうとしてんのかも」
ペラペラと喋っていたが、ピサからの返事が途絶えていた。ちょっと現実突きつけ過ぎちゃったかしら?
「そもそもエルフとやらがいるかいないかもわからねえ。もしダメだった時の事も考えとかなきゃな」
と適当にお茶を濁す。
レイちゃんから聞いた限りでは、エルフは確実に存在し、聖域の奥で待ち構えている。
どう転ぶかはわからないが、レイちゃんの話していた感じだと、敵対しているとかはないとは思うが……。
適度な緊張感を与えつつ、竜車に揺られさらに進んでいく。
いつの間にか、後ろの警戒はオルガがブラッドが交代でする事になったらしく、暇を持て余したピサは手綱を引く俺の隣に座り、他愛もない会話をした。
途中、腹の頃合いをみて昼食を取り、ファヴに飯を食わせる合間にレイちゃんに進軍状況を小声で尋ねてみる。
「レイちゃん、いまどんなもんよ?」
(至って順調よ。このペースで行けば今日中にはこの霧抜けられそう。ファヴちゃん様々だね。結構周りに魔物寄って来てたし)
「なにそれ。怖い」
(大丈夫だってば〜。ファヴちゃんが全部追っ払ってくれてるから。いや〜、良かったねホントに。ファヴちゃんいなかったら、抜けられないとこだったよ。ま、それは死の王の時もバルログの時も同じか。マサヒロくんの強運もなかなかすごいよね)
「悪運の間違いだろ? 普段の行い悪りぃのに、幸運の女神が俺にケツ振るとは思えねえ」
(わお。罰当たり! ――っと、昨晩も寝る前に色々教えたと思うけど、アイツだけはやばいから会わないよいに注意しとこうね)
アイツ……ね。昨日寝る前に話してくれた霧に潜む魔物。その中で躊躇なくファフニールにも襲い掛かる怪物が一匹だけいるらしい。
その名は、『トロール』。巨大な体躯に、鉄をも容易く引き千切る怪力、ファフニールにも恐れをなさない凶暴さ。霧の魔物でもっとも危険な相手。
できれば遭遇したくないし、レイちゃんもトロールの縄張りから遠回りして案内してくれているそうなので、出くわす可能性は限りなく低い。昨日、霧谷越えを渋ったのも、遠回りして日が暮れてしまうのを恐れてのことだそうだ。早朝から臨めば、遠回りしたとしても夜になる前にこの霧を抜けられる。
さっきは幸運の女神様に無礼な口をきいちまったが、微笑んでくれるか。それとも、そっぽを向かれちまうか――。
昼休憩もそこそこに、進軍を再開する。
道程の半分は過ぎたようで、途中レイちゃんがそう教えてくれた。その時に、この先は大きな声でお喋り禁止と言われ、何故? と首を傾げ尋ねると、「トロールは音に敏感だから」ってことらしい。
ファヴが警戒してるっぽいから近くに魔物がいる、刺激しないように極力音を立てるな、と適当な言い訳を用意して、レイちゃんからの旨をピサたちにも伝える。
トロールの住処が近付き、遭遇してしまう危険も増したが、それは同時に霧をもう少しで抜けられるということだ。
レイちゃんとファヴがいてくれたとはいえ、俺も多少なりとも気を張っていたので疲れた。
懐から煙草を取り出し、火を付け、紫煙を吐き出す、が霧に紛れてよく分からずじまい。
と、リラックスした瞬間――
(マサヒロくん止まって!!)
レイちゃんが叫んだとほぼ同時に、上の方から凄まじい音を立てながらなにかがやってくる。
パラパラと身体に土や小石が降りかかって来た。
(マサヒロくん下がって!! ――落石よ!!)
はぁ?! このタイミングで?
つか、やばい! 少しでも離れねぇと!!
「お前ら無闇に動くな!! いま反転させて逃げる!! なにかに掴まれええええ!!!!」
「なになになに!! 魔物!?」
「ただの落石だ!! しっかり俺に掴まってろピサ! 後ろの二人も落ちんなよ!!」
「「ハッ!!」」
俺は手綱を思いっきり引き、ファヴを急反転させた。遠心力がかかり、竜車から吹き飛んでいきそうになるが、なんとか踏ん張り持ち堪える。すかさずもう一度手綱をパチンと叩く。
勢い良くファヴは来た道を引き返す! 次の瞬間、大地に巨大な岩が落ちたようで竜車ごと身体が宙に浮きあがる。
「やべええええ!! ファヴ!! 全速力で離脱ぅぅ!!」
弾かれたように竜車が速度を上げる。
さっきまで俺たちがいた場所に岩が落ちているのがわかる。そして、その流れはまだ終わってない。祈りながら爆走し、来た道をひたすら戻った。
落石がやんで、しばらくは呆然として立ち尽くしていた。
いまは、落石があった場所が進めるかどうかの確認のために全員で向かったが、そこは確認の必要もないほど完全に、落石によって道が塞がれてしまっていた。
「なんで急に落石なんて……」
ピサがぽつりと呟く。
確かに、なんで今なんだ……。タイミングばっちりすぎだろうが。下手したらぺちゃんこになってるとこだ。俺はレイちゃんに視線をやる。
(……落石は、多分、自然に起きたわけじゃないわ。さっき物音が上の方からしたの。だからいち早く気付けた。あっちも油断してたんでしょうね。見えるわけがないから、こそこそ行動しなくてもいい、って。チラッと見たと思う。あれはエルフ)
エルフ……。俺たちに攻撃したのか? 聖域にたどり着かないように?
どんな意図があるかわからんが、妨害されたのは確かだろう。かなり雲行きが怪しくなってきたぞ。頼みの綱だったエルフが俺たちとの接触を望んでいないのか?
…………考えた所で、答えが出るわけじゃない。
先に、進むしかねえ。
「竜車に戻るぞ。立ち止まってる場合じゃない。引き返して違う道を進もう」
「うん。しょうがないね。それに冒険にはトラブルはつきものだし! 次行こ! 次!」
「わーったわーった。だから引っ張るな。こんな霧の中で走ったら転ぶぞ」
「大丈夫だいじょ……うわっ!」
ロープでくくってあるので、俺も身体を引っ張られる。
「うおっ! だから言ってんだろ。危ないからあんまり動きまくるな、ピサ」
「う、うん。ごめんマサヒロ」
「たくっ。しょうがない奴だな、ピサは――」
ズシンと地面が揺れた。落石とは明らかに違う揺れ。そう、これは……なにかが歩く音。
(まずいわね……。落石の大きな音でアイツがこっちに気付いた)
アイツ……。霧に潜む怪物、トロールかっ。
(マサヒロくん急いで竜車に乗り込みなさい。すぐにこの場を離脱する。落石のせいで遠回りしてアイツを避けるのはもう無理。……わかったわね?)
もちろん了解さ。トロールの住処、怪物の領域を通って行くってんだろ。なんかこうなる予感してたよ。
そう考えてるうちにも足音と思われる地響きがずんずん迫ってくる。この感じ、走って近付いてきてやがる。
ちんたらしてる暇なんてねえぞ、これ。
「全員直ちに竜車に乗り込めッ! 怪物トロールのお出ましだッッ!! この場を即時離脱し、別のルートで進むッッ!!」
「ト、トロール?! それは誠ですかマサヒロ殿?!」
「ああ。色々聞きてえだろうが今は我慢してくれブラッド。とにかくここを離れることを第一に優先しろ! 行くぞ!」
「はいっ!」
「了解です!」
「あ、は、直ちに!」
ファヴに括りつけてあったロープを辿り、竜車に全員乗り込んだのを確認した瞬間に手綱を叩く。
猛然と走り出す竜車。その場を離れることには成功したが、トロールの足音が遠ざかる気配はない。むしろ、段々と近付いてきている気がする。完全にこちらの居場所を補足されているッ!
まずい! まじでまずい!
ドスンドスンという音がすぐ真後ろまでッ!!
(マサヒロくん! 来てる! トロール後ろまで来てる! 気持ち悪いよ!)
ポンコツレイスうるせえ! 緊張感ぶち壊しのふざけた声出しやがって!
――と次の瞬間。急ブレーキを掛けたようにガクンと竜車が止まる。
(ギャー! 捕まってる! めっちゃ掴まれてる! マサヒロくーん!!)
クソうるせえ! まじでふざけんな! つか、まじで笑えねえ状況だ!
「うお、なんじゃこりゃァァ! なにかいるぞォォ!」
「トロールッ! 伝説の怪物が実在した?!」
後ろに乗っていた二人はいち早くトロールの気配を察知したが、なにもできるわけがない。オルガとブラッドは見えない相手にパニック寸前。
このままじゃ……! 俺はこの状況を打破する可能性があるものを懐から取り出しながら、ピサに叫ぶ。
「ピサァァ!! 手綱を握れッッ!! 俺の合図で思い切り手綱を叩け!」
「で、でも、私じゃファヴ言う事聞いてくれないし……」
「緊急事態だ! ファヴだって融通聞かせるだろ! 多分!」
「多分って……。……あ、うあ。うああああ!!」
突如大きく身体のバランスが崩れた。地面が傾き始めてる?! ……違えだろ? トロールの野郎が持ち上げてるんだ!
「時間がねえ! ピサ任せたからなッッ!」
「う、うん! 任せて! やってみる!」
俺は後ろの二人に繋がったロープを伝い、荷台に移動する。すると、ロープの先にオルガらしき奴の身体を発見。
「お前らはできるだけ前へ! 俺がなんとかする!」
「「ハッ!!」」
よくできた部下だ。四の五の言わずに俺の指示を迅速にこなす。
これで条件は、整った。
「ピサ以外、耳を塞げェェ! 鼓膜が破れるぞ!!」
俺の指示に従っていることを信じ、俺は荷台から顔を出す。姿は見えないが確実に、いるッ! この生臭い臭気をはらんだ風。奴の息遣いッ。
俺は手探りで左手のガントレットに例のブツをはめ込み、ピサに聞こえない程度の声量でレイちゃんに最後の仕上げをお願いする。
「レイちゃん!! 照準ッッ!!!!」
(うへ~、トロール気持ち悪い。見たくない。けど、ご主人の頼みならやったろうじゃない!)
俺の腕に添えられるレイちゃんの手。方向を定め、そしてガントレットは臨界に達するッ!
「ピサァァ!!」
「はいっ!!」
竜車が前方に走り出そうとする同じ瞬間――
「爆ぜろッッ!! 魔神の灼熱ッッ!!」
赤い閃光は解き放たれ、目の前に魔神の爆炎が巻き起こった。
そして、けたたましく響く、怪物のおぞましい悲鳴。一瞬。ほんの一瞬爆炎により垣間見たトロールの姿。浅黒い色をした体表、醜い顔。ぎらついた目には執念の色がチラつく。決して離してなるものかと。
しかし、魔神の灼熱の威力は凄まじく、トロールに甚大な損傷を与えた。致命傷になったかもしれない。でも、走るのはやめない。
「ピサァァ! 走り抜けろッッ!! このまま! このまま走れェェェェ!!」
俺たちは、トロールの足音が追いかけてこなくても、ひたすらに逃げ続けた。




