トゥーロン市内
トゥーロン市内は、緊急事態宣言の発動後の初めての夜を迎えようとしていた。不吉なことに今日に限ってイエール旧キャンプ場から地鳴りともいうようなどよめきがわき起こり始めていた。それは一向に収まるけはいもなく、次第に大きくなっていくようであった。こんなことは今までにはなかったことである。つい先程まで続いていた大きな動きはなくなったものの、散発的に市内から銃声が聞こえるようになっていた。住民は鍵をかけて家の奥に閉じこもり、市内の街路から活気が消え静寂と偽りの秩序が訪れていた。
だが一歩脇道に入れば、そこには秩序など存在しない無政府状態と化した暴徒の暗躍の場所になっていた。商店からの略奪が平然と行われているにもかかわらず、警察も安全保障隊も治安回復に出動することはなかった。たとえ、出動して鎮圧したとしても、撤収した後にまた略奪が行われるのである。安全保障隊の警備部隊には、すべての商店を長期間警備するだけの人員などいないのである。
サイレンを鳴らした安全保障隊の車両が、制限速度を遥かに超えるスピードで駆け抜けていった。フロントガラスには蜘蛛の巣のようなひびが入っていたのだが、そんなことにはおかまいなしだった。よほど慌てているのであろう。それとも、必死に何かから逃げ出そうとしているのかもしれない。そう、どちらかといえば後者の方が正解に近いように思えた。
市民は何が起きているのか事態が飲み込めず、立ち止まって安全保障隊の車両を見送っていた。自分に関係あることだと思っていないのである。その車両が通り過ぎてしまえば、何事もなかったように普段の生活に戻れるとしか考えていなかった。
ところが、車両に続いて群集が走ってきた。子供も女性も、皆が走っていた。息を切らし、わき目もふらずに、先を争っているかのようにぶつかりながら走っていた。泣き出した子供の手を無理やり引いて走っている親子もいる。走ってくる群集は途切れるどころか街路にあふれんばかりに増えていく一方だった。誰もが恐怖をかられて自分を見失っていた。
ここに至って、やっと市民にも事の異常さが理解できた。遅れながらも市内の警報が鳴り始めた。ただし空襲警報と同じサイレンであったため、混乱はさらに拍車がかかってしまった。
「ドラゴンの空襲かしら? でも、何か変だわ」
坂井美春は和田継矢中尉に、MIGHTY BOY軽トラックを壊してことを謝罪した帰りであった。彼女は警報に対して意外と冷静に受け止めていた。少なくともルテチアでは毎日のように聞いていたものだったからである。
この騒ぎが空襲とは違う何かであることに彼女は気づいていた。空襲にしては空が静か過ぎるのである。市内に設置されている対空砲は沈黙したままであり、どちらかといえば地上だけで何かが起きているようだった。
「市内でなにかがあったのだわ。それもキャンプ場の方角から、市内全域に広がろうとしている」
彼女は、そのなにかの正体をすぐに知ることとなった。奇声を発した男が、ショウウィンドウのガラスを割っていたからである。彼の後には、数人の男が続いている。略奪しようとしていることは明白だった。武器を手にしたキャンプ場の避難民が暴徒と化しているのだ。
女性が走ってきて坂井にぶつかった。相手は怯え切っていて、謝りもしないで、すぐに走り去って行った。走ってくる群衆は、坂井までもトラブルの渦中に巻き込もうとしていた。逆らうのは到底不可能のように思えた。人の流れの勢いがあまりにも強すぎる。その勢いに逆らうことなど賢明とは思えなかった。
走ってきた群集の先頭で悲鳴が上がったかと思うと群衆の一部が大きく逆流しようともがき始めた。今まで一方向に流れていた群衆の動きが突然に混乱した動きとなった。先頭の人々が後退してくる。狂乱の叫びがあちらこちらから湧き、人の壁が坂井を押し返した。
その場にいる全員が、押し戻されようとする人波と後ろから詰めかけてくる群衆に押し潰されようとしていた。人波が中心に向かって両側からぶつかりあい、その動きは正気とも思えない無謀な動きだった。だが、その反対側からも狂乱の叫びが湧き起こると、群集はその場で凍りついたように停止した。
「安全保障隊だわ」
坂井は混乱の理由を理解した。彼女とその周りの群衆は、安全保障隊の治安維持部隊に挟まれてしまったのだ。おそらく彼女の周りにいる群衆の中に、先程の略奪者が混ざり込んでいるのだろう。あるいは、そんなことはどうでもよかったのかもしれない。群衆が集まっているというだけの理由で、安全保障隊の攻撃目標にされているのかもしれなかった。が、今はそんなことを考えている場合ではない。
銃声が合図となって、ひしめき合う群衆が悲鳴とともに揺れ動いた。安全保障隊と対峙する格好になっていた両端の群衆が、他方の端の異常に気づき向きを変え始めた。パニックにとりつかれ、いくつかのルートに分かれて走り出し、人の波が崩れて殺到する人の波となった。
坂井は無理をしないで、建物のかげに身を潜ませ、事の成り行きを見守ることに専念した。下手に動かない方がいいと判断したからである。
さらに、銃声が轟いた。男が一人倒れた。だが、打たれて倒れる者は、一人に留まらなかった。武装した兵隊が人混みの中に割り込んでくる。暴徒も無関係な市民も全く関係なかった。
「撃つな!」
誰かが叫んだ。兵隊の前には、まだ群衆の人の壁があったが、その壁は大鎌になぎ倒されるように崩れだしていた。
「射撃開始!」
安全保障隊の銃火が一斉に開いた。その一つが、跳ね返って坂井のすぐ近くに飛び込んできた。今や総崩れとなった群衆は、散り散りに逃げ惑う人波となって走り出していた。坂井のすぐ目の前で、子供の背中から鮮血が吹き出した。子供は倒れ人々の下敷となったが、彼女には何もしてあげることができなかった。
逃げ惑う群集は、最初はまばらな動きであったが、どうすればいいのかわからない大勢の群衆も追随を初めていた。街路が交差するところでは、新たな人波がどっとあふれだし、安全保障隊から離れようと必死に走り出していた。そのわめき声が、銃声と悲鳴に交ざりあい押しあいへしあいしていた。しかも、その数はますます増えようとしていた。
坂井は未だに物陰に潜んでいた。状況が落ち着くまで、どうすることもできないのは変わっていない。暴徒と安全保障隊の嵐がどこかへ去っていくのを待つしかなかった。




