トゥーロン市内第27高射砲塔
トゥーロン市内各所に建設されている対ドラゴン用の高射砲塔の中で、第27高射砲塔を警護していた憲兵隊はルシファーの接近に気づき、包囲するようにして配置についていた。統合軍憲兵隊の治安介入部隊(GIGN)も到着し、いつでも十字砲火を浴びせることができるように、銃口を向けたまま次の命令を待っていた。しかし、実際に有利なのはルシファーの方であった。憲兵隊が装備するFA-MASアサルトライフルやベレッタM92自動拳銃では、結果はどれもにたりよったりで、相手に致命傷を与えるには程遠かった。銃撃を受けた怪物の身体は、さらにおぞましい姿になるだけで、腐った肉のような悪臭をあたりに放ち続けていた。
「軍曹、我々はどうすればいいのでしょうか」
今にも泣き出しそうな悲痛な顔をした兵卒が尋ねた。今はルシファーが活動を停止している。だが動き始めたら、お手上げなのだ。
「治安介入部隊(GIGN)の任務と誇りを忘れるな。あいつを足止めにして焼き払う」
確かに訓練を重ねてきたが、実物のルシファーを見るのは初めてであった。正直言って、軍曹は今指揮をとるくらいなら銃殺された方がましなのかもしれないと思いかけていた。だが、ここで敵を食い止めなければ。いずれ自分の家族の身にも危険がふりかかるものならば、せめて戦って死にたいと覚悟を固めていた。
にらみ合いの続くその時、坂井美春の運転するMIGHTY BOY軽トラックが見事な横滑りを起こしながら割り込んできた。あまりの乱暴な運転に、包囲していた憲兵隊があわてて跳び避けなければならなかった。
「ここは危険だ。民間人は下がっていろ」
軍曹の罵声が飛んだ。坂井美春は、そんなことにはおかまいなしだった。
「来る!」
憲兵隊の誰かが叫んだ。坂井は憲兵隊が今まさに一戦を交えようとしているのを見て、アクセルを踏み込んだ。有無を言わせずルシファーを壁に叩きつけて、車で押し潰そうとしたのである。だが、赤い血とねばねばした物質をフロントガラスに飛散らせても、怪物は依然として動き続けていた。
「車ごと燃やすのよ」
坂井はつんのめりながら車から脱出し、憲兵隊に声を掛けた。憲兵隊は時間を無駄にするようなことはしなかった。直ちに車の燃料タンクを打ち抜き、溢れ出したガソリンに引火させた。燃え上がる炎の帯が車ごと捕らえていた。燃料タンクにも火が回り、引火した車はすさまじい勢いで炎の柱となった。濃い煙が周囲に充満して視界が遮られると、憲兵隊は息の根を止めようと、何度も何度も念を入れて銃撃を浴びせた。ルシファーが苦痛にのたうちまわる音が聞こえると、そのおぞましい響きにたじろぐ者もいたが、戦いは自分たちに優位に傾いていると思えた。憲兵隊の全員で燃え盛る車を取り囲み、異変があればすぐにでも銃撃する体制を整えていた。
しかし、まだ終わってはいなかった。炎に包まれたルシファーは自分の身体を次々と引きちぎって炎から逃れようとしていた。そのうち、真二つに裂けたかと思うと中から菌糸緑色のゼリー状の物質を飛散らし始めた。人間の身体に寄生していた粘菌体が焼ける身体を捨て、高熱から逃げようとしているのだ。
ルシファーは、壁と車の隙間から道路脇の溝に潜り込み、炎から逃れていた。しかし煙がひどく、その動きは誰も気づかなかった。
坂井は憲兵隊の兵士に抱きかかえられるように起こされ、待機していた憲兵隊のRenault Sherpa軽装甲機動車に運び込まれようとしていた。少なくとも、そこがもっとも安全な場所だと誰もが考えていた。事実、目の前で軍用車が傾いた時、誰もがタイヤがパンクしたものだと思った。しかし、軽装甲機動車のタイヤはエアレスタイヤなのでパンクは起きるわけがない。続いて車体が紙のように曲げられた。
「散開しろ。弾薬が積んである、発砲はするな」
軍曹は、坂井と付き添いの憲兵隊の兵士に手で下がるように合図をした。
軽装甲機動車は金属を擦り合わせる鋭い音を周囲に響かせた。そして、なにものかが車体を叩く鈍い音を響かせた。まだ、炎の苦痛から逃れ切れないで車内で暴れているらしい。どうやって軽装甲機動車まで移動したかわからないが、憲兵隊が慎重に接近し、銃の先を使ってドアを少しだけこじ開けた。車内は暗くてよく見えない。
「かまわん、このまま閉じ込めるのだ。援軍が来るまで時間を稼ぐ。我々の装備だけでは手に負えん」
軍曹は決断するとドアを閉めさせた。そして、すべてのドアが閉められていることを確認すると軽装甲機動車を暴徒用ネットで覆った。このネットはパラシュートにも使われる強靭な繊維でできており、相手の行動を束縛する。もし必要なら特殊な膜で完全に覆ってしまうこともできる。少なくとも、ルシファーにとって行動を鈍らせることはできるはずである。
「援軍はまだか? 要請は届いているはずだ」
遠巻きながらもネットで覆い終わると、彼らはルシファーの動きをじっと見守りながら距離を置いた。誰が言い出したわけでもないのに、全員が息を殺してじっと軽装甲機動車をにらみ続けていた。
突然、軽装甲機動車からものすごい悲鳴が聞こえるとフロントガラスを破ってなにかが飛び出してきた。それは、まぶしい光りを放ってネットにぶつかり、車の外に転げ落ちた。憲兵隊が無我夢中でもう一度ネットを絡ませようとした。
「違う。よく見ろ。照明弾だ」
憲兵隊の兵士がネットの中をのぞきこんだ。明るく輝くその物体は、よく見慣れたものであった。深い失望が彼らを襲った。しかも悪いことに、照明弾は閃光の熱でネットを焼き切ってしまいそうである。
「何をしている。はやく、ネットを戻せ。隙間をふさぐのだ。今攻撃されたら、ひとたまりもないぞ」
その時、車内が明るくなっていることを憲兵隊のひとりが気づいた。車内に残っている他の照明弾が可燃物に引火していたのだ。
「車内で火災が発生」
ルシファーは火災から逃れようと軽装甲機動車からはいずり出ようとしていた。その光景はまるで軽装甲機動車からスライムが流れ落ちようとしているようにも見えた。
「弾薬に引火するぞ。緊急退避」
しかし、憲兵隊の対応は間に合わなかった。大音響とともに、軽装甲機動車は爆発した。たちまち弾薬が次々と誘爆を起こし、周囲に破片をばらまく結果となった。憲兵隊はひとたまりもなかった。
坂井に付き添っていた憲兵隊の兵士は、彼女をかばって負傷した。
爆発の余韻が収まった時、ルシファーはしゅーしゅー音をたてながら坂井に迫ってきた。犠牲となった憲兵隊たちの返り血を地面まで垂らしている。
「どうやら、無事なのは私たちだけのようね」
今となっては説明する必要もなかった。怪物と戦えるのは彼女と負傷した憲兵隊がひとりだけである。それでも、彼女はまだ諦めなかった。
逃げ出すために立ち上がろうとした時、ルシファーとの間に完全武装の兵隊が割り込んできた。無駄のない動きでルシファーとの間に盾で防衛線を張り巡らし、続いて重装備の新たな兵隊が飛び込んで間合いを取ったまま盾の隙間から一斉に射撃した。その兵隊の中心には、セリア・ケイ少佐の姿もあった。兵隊の装備や動作は、一般の陸上部隊というよりは特殊部隊そのものであった。あきらかに普通の兵隊とは趣が異なっている。ケイ少佐はルシファーとの戦いに割り込み、自分が連れてきた陸上部隊の兵士に指示を出し始めている。その姿は凛としていて頼もしく見えた。
「後の処置は、こちらにまかせなさい」
ケイ少佐が坂井に逃げるように合図を送った。
「気をつけて、この化け物に武器は大して通用しないわ」
坂井はケイ少佐が指揮をしていることに気づき警告を発した。
「大丈夫。知っているわ」
ケイ少佐はルシファーを見てもまったく動揺していなかった。ただ今まで見たことのない嫌悪感をあらわにしているだけである。坂井はケイ少佐が化け物の正体を知っているのだと気づいた。
ケイ少佐の部隊はラインレッドに塗装された缶を取り出した。坂井には軍の訓練でしか見たことがない焼夷手榴弾である。焼夷手榴弾の燃焼温度は約2000度にもなり、鉄骨でさえも溶かすことができる。もともとの用途は鉄条網やバリケードなどの構築物の破壊であるが、射撃の打撃ダメージに効果がないルシファーにさえも高熱は有効な武器に思えた。しかしながら、通常の手榴弾などに比べて加害半径はわずか2メートルときわめて狭い。さらに信管の遅延時間も短い。扱いが難しい代物なのである。
ケイ少佐の部隊は、迫ってくる怪物に向けて焼夷手榴弾を構えている。構えているのは、一人や二人ではない。ありったけの焼夷手榴弾を一斉に使う気なのである。
「投弾準備よし」
体格がいちばんよく指揮官と思われる兵士が合図を待った。彼はマールス・グラディウス少尉である。
「本気なの?」
坂井はあわてて逃げ場を捜し、飛び込むように物陰に入った。
「投げて!」
全員を下がらせるとケイ少佐自身も物陰に入り、そこから命令した。焼夷手榴弾は、溶鉱炉の溶けた金属のような火柱を上げ、ルシファーを襲った。しかし、火柱はすぐに収まってしまう。やはり効果時間が短い。
「殺せたの?」
坂井は大げさにも思える攻撃に半分皮肉気味で礼を言うとゆっくりと立ち上がり、めちゃくちゃとなった周囲を振り返った。
「まだよ。今のはただの小手試しよ。ちょっと痛い思いをさせてやっただけだわ。本能しかない生き物だから、きっと今ごろは怒り狂っているわよ。自分の敵の存在を知って、全力で私たちを排除しようとするはずよ」
坂井はケイ少佐の言葉の意味を理解するのに時間が必要だった。ケイ少佐は依然として張り詰めている敵意を感じとっている。煙の中で何かが立ち上がるのが感じられる。それから、しゅーしゅーという音が再び聞こえ始めるのに時間はかからなかった。
「殺せないの?」
ケイ少佐は沈黙で答えた。
「さあ」ケイ少佐はひじをついて坂井のかわりに先程の負傷した憲兵隊の兵士に手を伸ばした。「肩につかまって。高射砲塔に逃げるのよ。ここにいると味方がトラップをしかけるのに邪魔になるわ。他の人は手が放せないから、私の肩につかまって移動するのよ。私は拳銃を使わなければならないから、しっかりとつかまってちょうだい。つらいだろうけれど、トラップを仕掛けるまでの辛抱だから、がんばって」
ルシファーは決して化け物ではない。地球の真性粘菌に似た生物である。映画に出てくるような不死身なモンスターでは決してなく、殺せないことはない。それは確かなはずである。
坂井はケイ少佐に手を貸しながらいっしょについてきた。やがて、高射砲塔の開口部にたどり着くと、負傷した憲兵隊の兵士を中に待たせて周囲を見回した。高射砲塔はドラゴンからの空襲に備えた対空兵器が設置されており、一階は市民のシュエルターも兼ねているために頑丈な造りになっている。この施設は対空コンプレックスと呼ばれ、近距離、中距離、長距離の全域をカバーする対空兵器が配置されており、ドラゴンの空襲時には最上階から迎撃するための設備である。しかし、発電機、飲み水、食料などの備蓄がされているだけで、最上階まで登れば各種の対空兵器なら設置されているはずである。今必要な近接攻撃可能な武器になりそうなものはない。
「坂井さん。高射砲塔のシェルターに残っている人がいれば、避難させてください。我々はここで決着をつけます」
平時は憲兵隊が高射砲塔を警備しているので民間人はいないはずである。理由をこじつけて坂井を遠ざけたかったのである。高射砲塔は非常に頑丈な構造であるがゆえに、ここでならば、市内に被害を出すことなく無制限に武器が使用できると考えたのである。
「グラディウス少尉、3分で終えなさい」
ケイ少佐は周囲の状況をただちに把握すると、トラップを仕掛けている自分の部下の位置と装備を確認した。ルシファーを取り囲むようにネット発射装置を並べようとしているが、完全な包囲陣ができていない。
「だめです。動きが活発過ぎてトラップを仕掛けることができません。ライフル程度の援護では効果がなさすぎます。かといって、大型火器で狙撃は不可能です。ただちにネットの使用の許可を願います」
「不完全なままでは、ネットはかえって危険よ。なんとしても、ここでルシファーを封じ込めるのよ。持ってきた火炎放射器は使えないの?」
「わかりました。すぐに準備をします」
直ちに火炎放射機から発射され、燃え上がるナパーム液の帯がルシファーを捕らえた。燃料ごと炎を吹き付けられたルシファーにすさまじい勢いで炎が広がり、肉を焼くような匂いが充満した。グラディウス少尉は念を入れて、何度も何度も火炎放射機を発射し続けその度に炎は強くなった。ルシファーがのたうちまわる声が聞こえると、屈強なグラディウス少尉といえども、そのおぞましい響きにたじろいでしまった。
ケイ少佐は指示を出し直すために、再びルシファーのところへ戻ろうとすると、それに気づいたルシファーがケイ少佐を目指して仮捕捉手を伸ばし始めた。
「少佐をねらっています。逃げてください」
部下のひとりが注意するまでもなく、ケイ少佐は既に気づいていた。だが、彼女はそのまま動かず、じっとルシファーをにらみつけていた。
「命令変更。この中におびき寄せ、気化爆弾を使用します。私がルシファーの注意を引きつけるから、その間に急いで準備をお願いします。いい、私ごとトラップを仕掛けるように配置してください。そのかわりトラップ内に私が逃げられる道を忘れないにお願いします。そして、私が脱出したらすぐに道も塞げるようにお願いします」
「危険すぎます」
グラディウス少尉が抗議した。
「他に方法がないわ。大丈夫、グラディウス少尉と私ならできるわ。一度前にやっているでしょう、英仏海峡トンネルで……」
そもそも彼女が今を生きているのも奇跡以外のなにものでもない。平行する世界、そう、〈トレッキーダイス〉により消えてしまった他の世界で彼女は生きてはいなかった。それ程に現在の彼女は偶然に支えられた状況を生き残った経緯があった。それはやはり十年前、彼女が話そうとしないフェアリーリングが絡んだ事件の時期より、やや後の出来事で、グラディウスと初めて会った時でもあった。
十年前、フェアリーリングから出現したドラゴンやルシファーの脅威から逃れるため、セリア・ケイはダンケルクに向かっていた。大陸を脱出してイギリスに避難する船に乗るためであったが、避難する人が多すぎた。彼女は見ず知らずの子供に乗船をゆずり、カレーまで移動して英仏海峡トンネルを通り抜けることで大陸から脱出することを考えた。英仏海峡トンネルでは消息を絶った列車の捜索に来ていた当時軍曹のグラディウスと出会ったのである。彼が最初に見たセリア・ケイは、まだ軍に入隊する前の普通の少女だった。女性としてまだ成熟前のきゃしゃな体で、他の民間人と同様に泥と汗に汚れ疲れ切っていた。それだけに、まったく目立たない印象の薄い存在でしかなかった。栗色の瞳の中に秘められた洞察力と一瞬における正確な決断力、彼女は天から与えられた才能をルシファーの苗床となっていた英仏海峡トンネルから脱出する時にほんのわずかながら見せたのである。
当時、グラディウスの部隊は、ルシファーに囲まれ絶望の淵に立たされていた。ありとあらゆる武器と装備が試された。何百発もの弾、手投げ弾、化学兵器、火炎放射器と試したのであるが、効果は限定的であった。部隊は既に疲労しきっており、もはや助かる道はないと誰もが諦めかけていた。ところが彼女はルシファーの生態や行動を見抜き、自らを囮にしてルシファーを誘導することで、脱出路を切り開くことに成功したのである。それは危機一髪の行動だった。その時に、グラディウスは完全に彼女が気にいってしまった。
彼女はたぐいまれのない天性の知性と勇気を兼ね備えていた、わけではなかったが、彼女がもっとも人を惹きつけるのは、洞察力と決断力に裏付けされた行動が、容姿と声なども加わって凛とした姿として映り、助けが必要な人にとって、その存在は頼れるお姉さんに見えることであった。もしも、彼女が指揮をとることがあれば平凡な人間のままで決して終わることがないことを予感したのである。将来に彼女が軍に入ることを知っていたわけではなかったにもかかわらず、自分の上官は一人しかいないと任務終了後にパリへ戻ることなく、彼女を追ってトゥーロンに駆けつけてしまったのである。もっとも、本当に彼女の部下になれたのはさらに後のことで、その経歴が災いして未だに少尉のままなのである。
ケイ少佐はグラディウスの期待とは関係なく、避難先のトゥーロンでフランス海軍の士官の道に進むことを決意していた。ケイ少佐が士官候補生として臨時の士官学校を卒業するまでの4年間をグラディウスは待ち続け、女性として成熟しきった彼女の色気に釣られたと陰口を叩かれながらも、グラディウスは英仏海峡トンネルで自分の目が見たことを決して忘れることはなかったのである。
グラディウス少尉は誘導弾発射装置を装填し始めた。燃料気化弾の発射装置である。あたり一帯に燃料を霧状に散布し着火させて巨大な炎の衝撃波でなにもかも焼きつくす大量殺傷兵器である。本来は敷設された地雷源を破壊するもので、国際法によっても人間相手に使用することは禁止されている。それだけ強力すぎる兵器なのだ
「ちょっと、ここでそんなものを使わないでよ。それは燃料気化弾なのよ。こんな狭い場所で使えるものではないわ」
坂井の抗議はまったくに的を射ているにもかかわらず、ケイ少佐たちは止めようともしなかった。
「そのとおりよ。おそらく、この区画は二度と使い物にならなくなるわ。だから、坂井さんは巻き込まれないように物陰に身を隠しなさい。そして、私がいいと言うまで息を止めているのよ。そうしないと熱風と圧力で肺をやられるわ」
ルシファーが高射砲塔に入るのを確認し、発射かんが引かれる寸前、坂井伍長は負傷した憲兵隊の兵士を守るように覆いかぶさった。
誘導弾はきれいに弧を描き、怪物の上でさく裂した。すさまじい熱風の衝撃が襲いかかり、飛び散った破片が先頭にいるケイ少佐の体をかすめた。熱に耐えきれなかった金属のきしむ音が響き、天井の一部が音を建てて崩れた。逃げ場をもたない黒煙が、その場の全員に叩きつけるように飛散った。
燃料気化弾はルシファーの行動を鈍らせることができたが、まだ決着はついていなかった。未だに、しゅーしゅーという音が聞こえてくる。ケイ少佐は今ひとたび、自分の気を引き締め、まずは階段を上がり、ルシファーとの距離をとった。彼女はベレッタM92拳銃を抜くと安全ロックを外した。正直言って射撃は得意でないし、ルシファー相手に効果が期待できる威力もない。それでも、大きく深呼吸をすると全弾をルシファー相手に撃ち込んだ。こちらを見ていてもらわなければ困るのだ。そうやって相手の怒りを受けるとともに、自らの身体を囮にしつつもなにか打つ手はないかと思案していた。
怒り狂ったルシファーの動きに変化が見えた。支柱に対して自分の体を固定しようとしている。ケイ少佐はルシファーが攻撃をしかけるための準備に入っていることを感じとった。盾に変わるものを探すが、とっさのことであり、都合よくなにかがあるわけがない。上着を脱いだ。その刹那にルシファーの仮捕捉手が飛ぶように向かってくる。顔を狙っている。ケイ少佐は無我夢中で脱いだばかりの上着を顔の前で盾のように持ち上げた。重い衝撃が盾となった上着を通して彼女にぶつかる。上着の向こうで仮捕捉手がうごめいているのが分かる。おぞましさに鳥肌が総立ちになりつつも、上着で仮捕捉手を包み込み、動きを封じようとした。と思いきや、信じられないような強い力で上着を持って行かれてしまった。ルシファーが仮捕捉手を戻したのである。
ケイ少佐は今の一撃により半分以上パニックに陥っていた。腰の力がすっかり抜けて立っているのがやっとである。さらに耐えがたい程の戦慄と恐怖が込み上げてきた。助かったのは偶然にしか過ぎない。今のようにすれば今の一撃を防げるなんて夢にも考えていなかった。ただ無我夢中でやっただけなのである。
「ちょっとぉ、しゃれにならないわよ」
怖さのあまり大粒の涙を瞳に潤ませながらも、空になった弾倉を腰のベルトに挟んであった予備と入れ替える。もう一度ベレッタM92拳銃を構える。将校として弱気を吐くだけはしなかったものの、彼女にとって上着は緊張時の心の盾となっていた存在であったため、このような緊急時に持って行かれてしまったことが非常に不本意であった。今のような怖い思いはもう二度とごめんこうむりたかった。
その時、ケイ少佐の視野のやや上よりに、高射砲塔の頂上付近に配置されていた対空砲の射撃管制装置が見えた。射撃管制装置の近くには地対空ミサイルのパトリオット発射機M901などの対空砲が置かれているはずである。パトリオット発射機M901であれば、ミサイル・コンテナ4基があるはずである。ミサイルには、当然ながら大量の固形推進剤が積まれているはずである。さきほど使った焼夷手榴弾とは比べようもないほどの熱量が長時間に発生するはずである。
これならば、ルシファーにだってダメージを与えられる。彼女が、そういう結論に達したとき、そのパトリオットが白衣をまとった神様のように感じられた。いくらルシファーが不死身に見えても、質量900キロを超えるパトリオット4機の固形燃料の熱量をぶつけてやればただではすむはずもない、と彼女は思いついた。とても正気とは思えないが、武器は武器である。使い方が誤っているが、使わない手はない。
「命令を変更。全員退避。どこでもいいから逃げて」
ケイ少佐は叫んでいた。すかさず射撃管制装置のドアを開け、パネルに飛びつき安全ロックを解除しようとした。
ルシファーは仮捕捉手を使って、ゆっくりではあるが確実に登りつつあった。7本の手か足かわからない身体は、かえって動きにくいようであった。支柱の上部にひっついては体を引き寄せ、さらに支柱の上部にひっついては移動していた。今までの戦闘でかなりダメージがあったのであろう。動作が緩慢になっているとはいえ、あまりにもおぞましい光景だった。
ケイ少佐の行動に驚いたのはむしろ周りの人間の方だった。彼女の考えを読み取ったグラディウス少尉たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ回り、坂井は負傷した憲兵隊の兵士といっしょに安全な場所まで退避した。
ケイ少佐は射撃管制装置から発射機を操作しようとしたが、彼女は不幸にもパトリオットの操作方法を知らなかった。しかたないので次にミサイル発射装置をいじくり回したが、ロックを解除する方法がどうしてもわからなかった。そもそも射撃管制装置に電力を供給する発電機が止まったままであることすら気づいていなかった。それでもデッキの制御パネルに戻っていろいろとボタンを押してみたが、発射機はまったく動こうとはしなかった。
「こういう時はあわてちゃだめよ」
ほとんど既にあわてているのだけれども、ケイ少佐は自分に言い聞かせて大きく深呼吸するとベレッタM92拳銃を構えた。しゅーしゅーという厭な音が近付いてくる。それを聞いているだけでも彼女はおぞましさに鳥肌がたった。
「もし、運がよければルシファーだけが吹き飛ばされるわ。まったく、なんでこんな怖い思いをしなければいけないのよ。これが無事に終わったら、特別休暇が欲しいわ。こうなったらやけよ、人間には窮鼠猫を噛むという言葉があるのよ、覚悟しなさい!」
ケイ少佐はベレッタM92拳銃の狙いをルシファーにではなくパトリオットに変えた。そして弾頭より下にあるロケット・モーターを撃ち抜くことを考えた。以前に見たことがあるミサイルの発射事故映像では、固形燃料が横から噴出し炎で包まれていた。それを真似するつもりなのである。しかしミサイルはコンテナの中に収納されているために、ロケット・モーターの位置もよくわからない。
ケイ少佐のとんでもない行為に、もう一度、グラディウス少尉たちが驚くはめになった。こういうのは正直にいって見ている方が怖いのである。もっとも状況を正しく理解できなければケイ少佐は気が触れているように見えるに違いない。
コンテナの下側を撃ち抜くと、都合よく推進剤に引火したようである。空いた穴からすさまじい炎が噴き出してきた。幸運にも、それはそのままパトリオットを横に押し倒し、すさまじい炎となって落下していった。その炎は次第に上にまで広がり、まずルシファーを飲み込み、さらに自分の方に迫ってきた。火災検知器のセンサーが働き、けたたましいサイレンとともに自動スプリンターから化学消火剤が吹き出してきたが、炎はそれを凌いで、あっという間に広がっていった。
「ちょっと、やりすぎたかしら?」
ケイ少佐はいくら助かるためとはいえ随分と無茶をやったものだと後悔しかけていた。これではルシファーを焼き殺すどころか、自分まで焼き殺しかねないのだ。なにしろ、あたり一帯は完全な炎の海と化し連鎖反応的に小さな爆発が広がっていくのだ。火災による熱の放射が容赦なく彼女を襲い掛かっていた。今となっては彼女にできることは祈りながら伏せていることだけである。
すると高射砲塔内の安全を確保するために防火シャッターが作動し始めた。途中まで動いただけであるが、それでもケイ少佐にとっては炎の威力を軽減するには十分であった。しかしルシファーにとっては逃げ場を失った熱によってさらに高温状態にさらされる結果となった。ルシファーは芽胞という極めて耐久性の高い細胞構造に変化することで死を免れようとした。自分に対して極めて危険な環境に置かれた場合に芽胞を形成し、遺伝子を複製して片方を分配することで生き残ることができる。しかし、今回の炎は高熱がいつまでも続き、芽胞でさえも焼き尽くすことに成功していた。
炎は固形燃料がなくなるとともに、すぐに収まっていったが、火災によって発生した有毒ガスを逃すために、安全装置が働いて外壁の一部を固定していたボルトが自爆し、高射砲塔の非常脱出路が開かれた。
「パトリオットを壊してしまったけど、これからは心を入れ替えて一生懸命働くから特別休暇なしでチャラにできないかしら」
近くに誰もいないと、ケイ少佐はぶつぶつと独り言をいう癖があるが、これは彼女なりのストレス発散方法のひとつである。そんな彼女のストレスを知らずしてグラディウス少尉は彼女の行為に素直に感激し、炎上する射出装置など目に入らないかのごとく彼女を無事に下に降ろした。
やっとのことで地面に立つことができた彼女は、冷静さを取り戻すと目を閉じたまま立ちつくしていた。生き残れたことが信じられない思いだった。負傷した憲兵隊の兵士は彼女のおかげで生き残れたものの、気を失ったままで最後の一戦を全然見ないですんでいた。そして、坂井も無事であった。
「どうやら、仲間の命を助けてもらったようね。彼にかわり、心から礼を言わしてもらうわ」
ケイ少佐はへとへとに精神が疲れ切ったけれども、あえて将校としての品位を見せなければならないと無理していた。だが、坂井の関心は他のところにあった。ルシファーの存在を知ることとなったのである。涙ぐんで少佐に訴えかけてきた。
「やっと、わかったわ。どうしてルテチアへ援軍を出すことに非協力的だったか理由がわかったわ。私たちには勝てないのね。あの化け物には決して勝てないのね。だからポートブリッジ統合軍はトゥーロンとイエールに閉じこもり、外部との接触を避ける政策に固執しているのね。ドラゴンを恐れているのではない。あの化け物に勝てないから外部との接触を避けているのね」
それは真実であった。今や坂井に隠すことでもなくなった。
「そうよ。怪物の名前はルシファー。ドラゴンと同じフェアリーリングからの侵入者よ」
「今まで世界各地の国が消えていったのはドラゴンなんかではないのだわ。人類が本当に負けたのは、そのルシファーという化け物の存在があったからなのね」
「ちょっとしゃべり過ぎたわ。もういいでしょう? 私はまだすべきことがあるのよ。あなたは早く手当してもらうといいわ」
ケイ少佐はそれだけ言うと逃げるようにその場を離れた。海上部隊女性将校用のサービスキャップを深くかぶり直して表情を見せないようにしたため、かえって坂井には自分の考えが当たっていたことを確信させる結果となってしまった。
グラディウス少尉たちは消火作業を始めるとともに、対空ミサイル・コンプレックスの施設の器材や弾薬を次々と安全な場所へ移動させていった。あたりはサイレンと放水の音で騒々しくグラディウス少尉は怒鳴り声で命令を与えなければならなかった。その中にたたずむケイ少佐の後ろ姿は、将校として凜とした態度を見せているが、その心の中はルシファーという恐怖に必死に耐え続けているか弱い女性でしかなかった。
(第四章へ続く)




