ポートブリッジ統合軍基地内将校用住宅
セリア・ケイ少佐はポートブリッジ統合軍敷地内にある将校用住宅の一角に小さな住居を借りていた。彼女に同居する家族はいなく、玄関を入ると古いバックパックがすぐに目につくように置かれていた。十年前に故郷であるベームスター干拓地から逃げて来た時に背負っていたバックパックである。バックパックには最低限に生きていくのに必要な物だけを詰めた状態で、いつでも持ち出せるようにされたまま、入居した日から今まで置かれ続けていた。
住居の奥に進むと、フランスのメーカが販売していた料理道具の箱が無造作に積まれているのが目立っていた。未だに開けられていない箱だらけで、ここで生きていくことを考えて生活に必要なものをそろえたものの、当面の危機が去り、生活に慣れていくうちに、最低限のものだけで生活するようになっていた。この街もいずれはルシファーの洗礼を受けることになる。ここが永遠に安全な場所ではないことを知っているために、彼女には生活を楽しむという心のゆとりを持つことができなかったのである。
台所には十年前に輸送艦<おおすみ>の乗員から餞別に贈られた日本の茶缶が大事に置かれていた。十年が経過しているにもかかわらず、人の厚意を顧みると空き缶といえども捨てることができなかったのである。人の厚意に報いて生活に生かし切れていないのは、気持ちのゆとりの無さであることを自分でも気づいていた。もちろん、その理由についても気づいていたが、その点に限って彼女には自分でもなすすべがなかった。
生活の中心となる室内にも思い出のある品物はなく、つい最近に買い足したモダンな家具類がおかれているだけである。それは彼女自身がもともと避難民のひとりで、一度はすべてのものを失っていたからにほかならない。その中であえて大事にされているものがあるとすれば、不細工な縫いぐるみがそれである。それは和田継矢中尉がクリスマス前にゲームで取ってきた景品のトナカイの縫いぐるみである。サンタクロースの代わりにおもちゃの入った袋を担いでいるこのトナカイはもともと和田中尉の机にあったのであるが、ケイ少佐が手に取って「かわいい」と言った直後から自分の部屋の住人となってしまった。
その縫いぐるみが本当にかわいいかどうかは人によって意見の別れる問題ではあったが、部屋の上座ともいうべき窓枠に置かれているところをみると彼女は実のところ気に入っているようだった。それはクリスマスがとっくに過ぎ去っても続くこととなり、誰に何と言われようとも、「とんでもない」と彼女は言いはり、決して縫いぐるみを片付けようとはしなかったのである。
ケイ少佐は仕事時間よりもプライベートな時間が好きだった。ごくあたりまえのことなのだが、プライベートな時間だけは神経をすり切らせるようなくだらない政治的駆け引きをしないですむと、心の平安にひそかな心地よさを感じていたのだ。彼女は世界がどのような現状になってしまったのかを立場上知りすぎていた。彼女の希望といえば、のんびりと読書に時間を費やして、見たくもない現実世界から離れることであった。消極的で不謹慎な考えではあると理解しつつも、そうすることができればどんなに気分がいいだろうかと彼女は前々から考えていたのである。
一般的なオランダ人たちは仕事が終わると家族の元に帰るか仲間たちとともにカフェに繰り出すのであるが、彼女はそういうわけで少しばかりナイーブな性格のためにひとりでいることが多かった。ところが、電話というものは相手のことなどおかまいなく突然かかってくるものが世の常で、彼女はいつものように読書にふけっているところを五月蠅い呼び出し音で邪魔されてしまった。
ケイ少佐は一度大きく背伸びをしながら、誰からの電話だろうと考えてみた。しかし、仕事の件でかかってきたのならば、ここへつながる電話は事務局の当直が必要と認めたものに限られるために居留守を使うわけにもいかなかった。たとえ、電話に出る気分でなくても、である。プライベートな電話はまずかかってこない。間違いなく、だれかがミスをして当直だけでは手に負えなくなった事態が発生したのだろう。
「何事なの?」
ケイ少佐は電話ごとベッドに持ち込んで受話器を取った。たまたま、縫いぐるみが電話のケーブルに引っかかって床のカーペットに転がった。それは電話が不吉な内容であることを予感させた。
「ケイ少佐ですね」
和田中尉の声だった。いつもならプライベートな時はさん付けで呼ぶにもかかわらず、今回に限って違っていた。それに気迫のある声になっていた。おっとりした性格の彼にしては珍しい。
「そうよ。どうかしたの? 博物館へ車両の整備に行っているのかと思っていたわ」
受話器の振動板を通して、息を飲んでいるのが伝わってくる。彼が緊張している時の癖である。そして、しばらくの間があった。
「……」
「和田中尉なのでしょう? いったい、どうしたの? またシステムエラーが出たのね?」
彼女は冗談っぽく言った。システムエラーとはDRINCSを開発した時に組み込まれてしまったコンピュータソフトウェアの障害に起因する誤作動である。和田中尉がケイ少佐のところにかけてくる電話は今までは決まってシステムエラーの件だった。しかし、今回は電話の内容が違うことを感じた。
「大変なことになりそうです。侵入されたようなのです」
ケイ少佐にはこれで充分に意味が通じた。なぜなら、これこそ彼女がもっとも恐れていた事態であったからである。この事態になるくらいならば、まだよっぽどシステムエラーのオンパレードの方がましだった。今度は彼女の方が息を飲む番だった。
「ちょっと、待って。電話ではまずいわ」
ケイ少佐の頭の中が急発進をして、大至急しなければならないことを洗い出していた。まず、事実を確認することが再優先である。
「そうですね」
「くどいようだけれど、確かなのでしょうね?」
ケイ少佐は間違いであることを祈った。もし、この事態に効果的に対処する方法があるとすれば、これくらいしかないのだ。
「ええ、もちろんです」
「それで、情報の出所は?」
ケイ少佐は時計をちらっと見た。これからの取るべき秒刻みのスケジュールを考えながら話しているのだ。
「坂井伍長です。伍長がいた派遣部隊にいたアルバート・ワイマンという人物が救助されていたという報告があったと思います。彼はサント・ミュス病院に収容されています。坂井伍長の情報によるとワイマン伍長は非常に高い角度で感染者の疑いがあります。統合軍の正規なルートでトゥーロンの関係部門に警告を至急にお願いします」
「わかったわ。中尉は、すぐに事務局へ戻ってきなさい。その時に詳しい話しを聞かせてもらうわ」
「警告だけでいいのですよ。トゥーロン市内は統合軍の管轄外ですから……」
突然何かを思い出したように和田中尉が付け足した。
「そうだったわね」
ケイ少佐は自分の行動を見透かされていたために言葉につまってしまった。
「ケイ少佐の人命を大切に思う気持ちはわかりますが、それにしてもいきなり市内に武装した部隊を飛び込ませるような協定違反はまずいと思いますよ。結果にかかわらず問題になります。市内は管轄外なのですからトゥーロンの警察特別介入部隊(RAID)にやってもらいましょう」
「私を信用してないわね。そんな無茶なことをするとでも思っているの? ちゃんと正式の手順を踏むわよ。ただちょっと相手の対応が遅いと、私にも我慢の限界ってものがあるのだけれど……」
「やはり結果的にそうなるのでしょうね。少佐の辛い気持ちはよくわかります。この程度の給料では見合わないと思っていても、自分の信念に従って危険の中に飛び込んでいくのですね」
図星だっただけにケイ少佐は再び返す言葉に苦労する。
「え、ひょっとして私の身を案じてくれているの? うれしいな」
「そういうわけではありません。何か言い残すことはないかと思いまして?」
「ばか言っていないで早く戻ってきなさい」
上司に問題があると部下もどうしようもなくなるもので緊迫した雰囲気の中でも悪ふざけをしないと気がすまないようである。ケイ少佐は電話をフックして無理やり電話を切ると憲兵隊本部に連絡を取っていた。緊急事態を連絡し、基地の警備を強化するためには、憲兵隊の協力が必要である。基地の警備は、憲兵隊の主な任務のひとつであり、軍事作戦時には基地の閉鎖を行う規定になっている。また、憲兵隊には憲兵隊治安介入部隊(GIGN)が存在する。本来はテロ対策などが目的であるが、今回のような事態を想定した訓練も実施しているし、ケイ少佐はその訓練にも立ち会ったことがあった。
憲兵隊本部には幸運にもアルテア・アルテミス少尉が在籍していたため、初動行動を彼女に依頼することができた。アルテミス少尉なら、想定されるリスクに対して、あらゆる対応を実施する訓練を受けている。フランクリン・シナトラ港湾憲兵隊司令官との連携は問題なく行われるであろう。少なくとも、ケイ少佐の期待したように、基地の出入りするゲートは全て閉鎖され、トゥーロン市から物理的に隔離されるはずである。これにより、二次感染から基地を守ることができるかもしれない。
次は自分の所属する事務局を呼び出した。それは手慣れた動作であったが、いつのまにか緊張のあまりに手がふるえ始めていた。
「私が誰だか分かるわね。大至急、次ぎに言うことを手配して欲しいのよ。まず全員に緊急呼び出しをかけて、ただちに出勤するように伝えてください。基地内で待機するように徹底するのです。それから、グラディウス少尉の陸上部隊に出動準備をさせたうえで待機するように要請してください。もちろん、統合参謀本部への連絡の手配も頼むわ」相手が了解したことを告げた。「最悪の場合、トゥーロン市内で戦闘が起こるかもしれません。その時、必死で逃げようとする住民の中には基地のゲートを越えて基地内になだれ込もうとするかもしれません。もし、その中にルシファーの感染者が紛れていたら我々は最後です」
どんなに優秀な警官であっても、ルシファーに対する予備知識や訓練を受けていない一般の警官では、今回の事案が手に負えるわけがないことをケイ少佐は十分すぎるほどに知っていた。統合軍参謀本部もトゥーロン市当局も、ひたすら一般市民に対してルシファーの存在を隠してきたため、最初の感染が民間人の中で発生した場合には、被害がどれほど広がるのか想像もつかなかった。感染が拡大する前の今であれば、憲兵隊の治安介入部隊(GIGN)なら、なんとかできるかもしれない。彼女は、取るものもとりあえず、事務局に向かった。今頃は、治安介入部隊(GIGN)に緊急招集を発令しているはずである。




