北海上〈リッシュモン〉艦内
駆逐艦〈リッシュモン〉の艦内に警報が鳴り始めた時、和田継矢伍長と坂井美春伍長は科員食堂に戻っていた。
「一体、なにがあったの?」
入り口で水兵の軍曹と話をしていた和田伍長に、坂井伍長が心配そうに近付いてきた。
「市内を壊滅したやつに侵入されたらしい。陸戦要員以外はランチ昇降機の前に集合するように命令が出ている。おそらく、退艦命令が出る」
他の人にも聞こえるように、和田伍長はできるだけ大声で言った。
「しかし、ランチで脱出しても近くに船はいないのだ」
今度は、坂井伍長にだけ聞こえるように話した。和田伍長の眼差しには、絶望がはっきりと表れていた。
「艦長は、なんと?」
坂井伍長が聞いた。
「艦長は艦橋で最後まで指揮をとるつもりらしい。艦橋に至る通路の隔壁は閉じられ、バリケードで立て籠もっている。今となっては、船内通話機が銃激戦で回線が不通になっていて、生死もわからない」
「海軍コマンドーは何をしているの?」
坂井伍長は、それでも諦めようとはしなかった。
「彼らはよくやっているが、大半は〈ジャンヌ・ダルク〉へ行っている。そこに〈トレッキーダイス〉があるらしい。だが、〈ジャンヌ・ダルク〉へ行った海軍コマンドーとは連絡が途絶えたそうだ」
今度は坂井伍長も何も言わなかった。だが、生き残るためになにかしなければならない。
「とにかく、ランチの所へ行こう。水兵が援護してくれる」
食堂を出ると五人の水兵が待っていた。全員がかなり大型の武器を携帯している。狭い船内ではかえって不利になることもあるが、気休めには十分である。
「急げ」
水兵の軍曹は、急き立てるように言った。それを合図に、水兵の一人が飛び出して前方を確保しようとした。だが、前方の角から他の水兵が現れ、前を遮った。
「こっちは駄目だ。二人やられた。反対方向へ急げ。すぐ、来るぞ」
軍曹は、ただちに反応した。
「そことそこの二人、バリケードを築いて時間を稼げ。危険になったらすぐ逃げろ」
「了解。努力はします」
命令された水兵は、言葉にならない悪態をついて悪意とも諦めとも思われるとげを言葉に混ぜた。だが、軍曹はそんなこと気にもとめなかった。その余裕すらないのだ。
「右舷第一甲板中央は占拠されている模様です」
後から合流した水兵が告げた。
「了解。左舷のランチを使用する。各分離路は、必ず水兵でキープする。解ったら、走れ」
「よし、行くぞ。前方は、俺に任せておけ。お前たち、よそ見して、後ろをやられるな」
汎用機関銃NF-1を抱えた水兵が、奇声を上げて先に走りだした。彼は一見むちゃにも見えるが、その視線と銃口は慎重な動きであった。そうでなければ、途中で出逢った味方の水兵まで八つ裂きにしてしまっていただろう。
間をおいて、和田伍長や坂井伍長を始めとする水兵が続いた。全員無言のままで、時折聞こえてくる銃声がさらに彼らを無口にさせていた。その銃声も、次第に少なくなっていく。
坂井伍長は銃声が少なくなっていくのは、敵の生物が撃退されていくからだと信じようとしたが、無理だった。間違いなく、水兵の数がそれだけ少なくなっていることに間違いはないのだ。
左舷第一甲板へ出た時、交戦中の他の水兵と合流した。彼らは多くの犠牲をだしながらも、ランチを守っていたのだ。
「早く乗れ、ランチを直ぐに出すぞ」
軍曹が怒鳴った時、艦橋の方からなにか緑色したものが落ちてきた。それは、最初は油か何かだと思ったが坂井伍長が真っ先に気づいて悲鳴を上げた。敵の生物そのものだったからである。
「退避」
誰が言ったのかわからないが、その時には既に全員が飛び散っていた。
「くそっ!! 艦橋をやられたのか」
軍曹は、小型の火炎放射器で緑色の生物を焼き払おうとした。だが、ばらばらになった人間の死体とともに、緑色のゼリー状の塊が軍曹の頭の上に落ちてきた。それが、和田伍長が見た軍曹の最後だった。結果は、既に決まっている。
散り散りなり、和田伍長と坂井伍長が第三甲板へなんとか逃げのびた時、近くに逃げて来たのは二人の水兵だけだった。他の人にかまっている余裕はない。とりあえず、狭い駆逐艦の艦内を逃げまわって敵に遭遇してしまうよりも、広い航空母艦のフライトデッキの方が安全と思えた。右舷第一甲板に戻って〈ジャンヌ・ダルク〉へ移ることにした。運がよければ、あちらで生き残っている他の水兵と合流できるだろう。
全員が激しい運動のあとで、休みが必要だった。だが、その休む時間さえあまりにも貴重だった。ただちに行動を起こさなければ逃げるチャンスを失うかもしれないのだ。
「艦載機で脱出できないのかしら」
坂井伍長はひらめいたことを、そのまま口に出してみた。彼女は、時々、感情で動く癖があるのだ。
「無理だ。カタパルトを動かすことができない。だいいちパイロットがいない」
駄目だとは思っていたものの、その結果に彼女はショックを受けたようだった。
「これを」
水兵の一人がホルスターから、ベレッタ92拳銃を抜いて和田伍長に手渡した。和田伍長がどうしたものかと戸惑っていると、無理やり手渡された。
「申し訳がないが、もう守ってやれるかどうかわからない。いざという時は、これを使ってくれ。私には、これがある」
その水兵には戦う男としての風格はなく、疲れ切った男でしかなかった。だが、無理に笑いながらFAMASアサルトライフル銃を構えてみせた。すると、もう一人の水兵も見習って坂井伍長にベレッタ92拳銃を手渡した。
「また、使うことになるなんて……」
彼女の声は落胆し感情のかけらもない。呼吸を整える間もなく、ルシファーの出す独得な「シゥーッ、シゥーッ」という音が聞こえてきた。やつらには、人間の居場所がわかるのだろうか。だが、今はそんなことを議論しているときではない。
「どこからくる?」
水兵の一人が叫んだ。
「わからん。とにかく、移動しよう。囲まれたらまずい」
もう一人の水兵がFAMASアサルトライフル銃を構えながら応えた。和田伍長と坂井伍長も、拳銃を構えながら立ち上がった。
「あ、あれっ」
坂井伍長が立ち上がったとたんに棒立ちになっていた。彼女の怯えきった視線の先には、かつて人間だったものに寄生し、自分の都合のいいように再配置した身体をもつルシファーが立っていた。
「こっちだ」
発砲するとともに、水兵が走り出した。弾は確かにルシファーに当たり衝撃で相手を吹き飛ばしている。身体の一部が後方へばらまかれているのだ。しかし、倒れたままの姿で手足を昆虫のように動かし、相手は前進をやめようとはしなかった。
四人は航空母艦〈ジャンヌ・ダルク〉のハンガーに逃げ込み、周囲を見回した。誰もいなかった。ここも安全とはいえそうもないので階段を駆け上がって、なんとか安全な場所へ逃げ込もうとした。しかし、そんな場所があるのだろうか?
封鎖されていない通路に沿って進み、階段を駆け上がっていくにしたがって、既に犠牲となった人間たちの残骸に出くわした。中には、壁に押し潰されている者や五体が識別不能な死体もあった。とにかく、坂井伍長はできるだけ死体を見ないように努めた。だが、他の者に置いていかれないようにするには、足元の死体を見ないわけにはいかなかった。
その時、死体に付着していた繊維状の菌糸が足元に絡みついてきた。その菌糸は死体と通路を使って網の目のよう張り出していた。通りかかるものを捕捉する罠だったのである。先頭を走っていた水兵の足をしっかりととらえ、菌糸の大きな塊が足にぶらさがるようにくっついていた。菌糸が服を侵食し、足の肌に吸い付こうとしている。その水兵は、必死に抵抗しようとしたが本人にもどうすることもできなかった。
「逃げろ」
もう一人の水兵が和田伍長と坂井伍長に命じた。彼は戦友を置いて逃げる気はないようだった。おそらく親友だったのだろう。だが、誰の目にも仲間を助けだすことは不可能に見えた。しかし、せめて二人だけは巻き添えにしないように逃がすことを考えたのだ。
「しかし……」
和田伍長が躊躇した。坂井伍長も信じられないといった目つきをしている。
「頼む、逃げてくれ。俺は、あいつといっしょにいたいのだ」
彼はそういうと、敵に機銃を浴びせた。
「ご武運を」
和田伍長は決心すると、逃げ出すために坂井伍長の手を無理やり引っ張った。彼女の方もすでに決心がついていたらしく素直に従って駆け出した。断末魔の悲鳴が聞こえたのは、それからすぐだった。
二人は、さらに上へと向かった。あまりの恐怖に気が動転して、袋小路に向かっていることに気がつかなかった。ただ、今までのことから出来るだけ遠くへ行きたかったのである。そうすることで、逃げられるような気がしたのだ。
二人の体力が尽きかけて、やっと正気に戻った。今まで、よくこれだけ激しく動けたものであると驚く程の運動のあとである。二人ともその場に座りこんでまったく身動き出来なくなっていた。
「私たち、これからどうなるの」
彼女は精神的にかなり参っている。
「ごめん」
和田伍長はそれだけしか言わなかったが、それで十分だった。
「あなたが悪いのではないわ」
坂井伍長は笑って見せた。
せめてゆっくり休めるところはないかと、和田伍長は周辺を見回してみた。もうじき、死ぬかもしれないのに休みたいなんて考えるのは気がおかしくなったのかもしれない。だが、死ぬということに、どうやら、免疫ができてしまったらしい。
〈タイム・ウエポン・コントロール・ルーム〉
目の前の扉に、そのように書いてあった。一瞬、和田伍長は目を疑った。だが、確かに読める。〈リッシュモン〉の海軍コマンドーはこれを回収するために危険な〈ジャンヌ・ダルク〉に入っていったのだ。すなわち、〈トレッキーダイス〉の名前で知られている兵器である。おそらく、海軍コマンドーによってここまでの通路が確保されていたために、安全そうな通路を進んでいるうちに、同じ経路を進んでいたのであろう。
和田伍長は、扉を軽く押してみた。静かに、ゆっくりと、扉が開き始めた。その時、突然、中から何かが飛び出してきた。
二人は死ぬほど驚かされて、必死になって逃げ出そうとした。だが、それは彼の上に落ちると、そのままぐったりと動かなくなった。海軍コマンドーの一人だった。
その海軍コマンドーは既に死んでいた。おそらく、出血多量が死因なのだろう。やっとのことで、ここまでたどり着いたのだが、戦いの傷が深すぎてここで絶命したに違いない。
二人はその海軍コマンドーを丁重に仰向けに寝かせ黙祷を捧げた。その後に部屋に入って内側からロックした。
恐る恐る奥に進む二人は、〈トレッキーダイス〉の制御装置コンソールを探した。過去に衝撃波を送り、歴史に干渉する兵器。まだ一度も使用されたことがないという話ではあり、その詳細は一切不明な代物である。歴史に干渉がなされた時、いったいなにが起こるか? その時に現在は存在し続けることが可能なのか? その答えを知るものは一人もいなかった。しかし、人類の運命は確定した。ならば、どんな結果を生むかはわからないが、使うしかないではないか?
そんな大層な効果がある武器だからこそ、堂々たる制御装置コンソールを見ることになると考えていた。しかし、目の前にあるのは、1枚の古い写真と電子時計だけだった。二人は意味が理解できず、写真を拾い上げた。
写真に写っていたのは、渦巻いた繭のようなものと紙に描かれたフェアリーの切り抜きであった。ほかにも、右端の中央付近にショートボブの少女が写っているが、周囲の草と比べて大きさが不自然であり、二重露出のようにも見えた。
写真には「行動することです。そうすれば神も行動されます」のメモが張り付けられていただけだった。
「嘘だったのだ。〈トレッキーダイス〉なんてないのだ」
和田伍長は大声で笑いだした。笑い声は、いつしか泣き声に変わっていた。もはや万策尽きたと考えたのである。だが、坂井伍長は、さきほどのメモが気になっていた。〈トレッキーダイス〉のスイッチはここにはないかもしれない。それはスイッチを入れるのは人間ではないのかもしれない。『そうすれば神も行動されます』とあるのは、スイッチを入れるのは神様ではないのだろうかと思えたのである。もしもそうであるのならば『行動することです』の前置きは、神様にスイッチを入れてもらうためのお願いということになるのではないか?
今の二人に頭の中には休むことしか考える余地はなかった。いつのまにか、お互いに背中を寄り添うようにして身体を休めていた。
二人の意識にとっては、嫌な考えが次々と浮かんでは悩まされるほどの長過ぎる間だった。しかし体にとってはほとんど意味のない短い間だった。坂井伍長は肺がずきずきと痛み、動こうとさえしなかった。
その時、ふとなにかを聞きつけて彼女は耳を澄ました。ハッチの外でなにかが引き摺られているような音がするのだ。彼女は一瞬にして跳び起きた。
「ねえ」
坂井伍長はあまり話したくないようだった。
「なに?」
和田伍長もそれは同じだった。
「動かしてみない?」
坂井伍長の言っている意味が和田にはわからなかった。
「動かしてみない?〈トレッキーダイス〉を動かしてみない? さっきのメモには『行動することです』と書かれていたわ。『行動』と、あいまいなことしか書いてないから具体的なことを意味しているわけではないと思うのよ。もしもよ。もしも…」坂井伍長は考えていることを一気に続けた。「もしもよ、もう一度やりなせるとしたら、何をやり直したいと思う? あるいは、どこを直せばこんな結末にならなかったと思う?」
「なにを言っているのかわからないな」
「たぶん。メモでいっている『行動』って『振り返る』ことではないかしら。今の私には、その仕組みに想像もつかないけど、たぶん、時間の巻き戻しは人間の手で行われるのではなくて、神のような大きな力によって行われるのではないかしら。人間は、たぶんどのように歴史を修正すればいいのか『自分たちを振り返る』、つまり考えなさいってことではないかしら……。そして『そうすれば神も行動されます』と続いていたのが、『神様が時間を巻き戻す』と、きれいにつながるわ。だって、〈トレッキーダイス〉ってタイム・トラベルするわけではないから、時間が巻き戻っても、同じことの繰り返ししか起きないでしょう……。〈トレッキーダイス〉は同じことを繰り返すためにあるわけじゃないから。絶対に」
和田伍長は半信半疑であったが、他には特にすることもないので、自分の知る限りのことで、振り返ってみた。
「そうだな、もしもやり直せるとしたら、フェアリーリングの無い世界。そうすれば、こんなことにはならなかった」
「違う」坂井伍長は強く否定した。「それは変えられないわ。時間の巻き戻しにフェアリーリングが関係するのだとしたら、フェアリーリングの創られる前には戻せない。だって、それこそ卵が先か鶏が先かの問題になってしまうわ。変えられるのは、フェアリーリングの創られた後の十年間で起きたことで、人間のとった行動のどれかのはずよ」
そういうことであれば、和田伍長には思い当たることがあった。
「それならば、十年前に探していた少女だ。名前はセリア・ケイ。カレーの英仏海峡トンネルでフランス共和国陸軍の部隊をルシファーから救ったという情報があり、ルシファーに対抗するための有効な情報を持っている重要人物の指定を受けていた。国際連合安全保障理事会から身柄を確保するように依頼があったので、すぐにセリア・ケイを迎えにヘリコプターでカレーからブーローニュ=シュル=メールへ向かう経路を探したが、ついに見つからなかった」
「人が多かったの?」
「その逆だよ。疎開がほぼ終わっていたから、見つけた避難民をすべて確認したが、それでもいなかった。もちろん、避難民の集合拠点も探したが、それでも見つからなかった」
坂井伍長は自分なら同じ状況になったら、どう行動するか考えてみた。和田伍長の話では全力で探している。それでも見つからなかったのは、ひょっとしたら女性にしかわからないことかもしれない。
「もしも、私が思っているような人なら、まずはカレーで食料や飲み水を探すわ。だって、ブーローニュ=シュル=メールまで遠いわ。しっかりした人だから、そういう準備をしていたことは考えられるわ。つまり探している時は、カレーの街にまだ残っていたのではないかしら」
「なるほど、情報ではブーローニュ=シュル=メール経由でパリに向かっているとなっていたので、ブーローニュ=シュル=メール周辺にいると思い込んでしまったようだ。カレーを出発さえしていない可能性もあったわけだ。時間が限られていたから、情報を鵜呑みにし過ぎたのかもしれない。カレーの街の近郊から探すことが必要だったのかもしれない」
二人の意見は一致したようだった。
「時間が巻き戻ったら記憶は引き継がれないでしょうけれど、その女性を探す場所を今度は変えることを願いましょう」
話すこともなくなり、二人が唖然としてその場に座りこんでしまった時、再びハッチの外側で嫌な音が聞こえてきた。今度は、防水ハッチがねじられるように押し曲げられ小さな隙間ができようとしていた。どうやって、あの緑色の生物にそんなことが出来るのか考えている暇はなかった。現に、防水ハッチはねじ曲げられているのだ。そして、その隙間でなにかが動いた。一瞬のうちに、緑色の仮捕捉手が伸びて坂井伍長に左足に取り付いた。
「いやぁ」
必死に抵抗する彼女を、その仮捕捉手は扉の方へ引き摺り込もうとしていた。すかさず、和田伍長は手を握って助けようとした。だが、仮捕捉手の力が強く二人とも引き摺られてしまう。そこで、ベレッタ92拳銃で仮捕捉手に数発撃ち込み、なんとか切り放すことに成功した。
しかし既に仮捕捉手の一部は彼女の脚に食い込み始めていた。彼女の左足は得体の知れないものに蝕われているのだ。なにかが足の中に入ってくる感覚が感じられる。しかし、ここにいたってはどうしようもなかった。
坂井伍長は、顔から血の気が引き、恐怖に身体を震わせていた。そして、彼女は最後の勇気を取り戻して取り付かれた左足を見せないようにして、しずかにベレッタ92拳銃を構えた。自分に向けるようにして……。
「ご免なさい。もう、耐えられないわ」
彼女は目を閉じることによって、現実から逃れようとしている。
「独りでは、逝かせないよ」
和田伍長は彼女の前に座り、まぶたからあふれようとしている涙を指で拭った。すると、やっとのことで彼女は目を開け、やつれた顔ながら笑ってみせた。
二人には、もうどうでもよくなったことだが、ハッチの隙間から緑色のゼリー状の物質がこちらを探るように仮捕捉手を震わせながら入ってきた。
二人は互いに拳銃で狙い合った。最期の瞬間まで相手の顔をまぶたに焼きつけておきたかったからである。
その同時刻、二人は気づいていなかったが、地球では夏至のピークが訪れていた。二人から見えない地球上の遠くの場所で、現在の混乱を引き起こしたフェアリーリングは目に見えない力場を次第に強くしていった。フェアリーリングという時空の特異点から漏れる力場は、地球全体を覆い尽くそうと急速に広がっていた。そして、次第に空間と時間を振動させ、震動の中心を、すなわち、焦点を十年前の時空であるスクエア・ワンに合わせつつあった。スクエア・ワンとは、ボードゲームのスタート地点といえばわかりやすいであろうか? つまり、振り出しに戻されようとしているのである。
「また、会えるわね?」
最期の言葉はそれだけだった。和田伍長と坂井伍長がいっしょにベレッタ92拳銃の引き金を引いた瞬間に、その時は訪れた。緑の敵性生物が、まさに二人に迫ろうとしていた時だった。二人を、いや、地球全体を覆う雲の下が強力な明かりによって包まれていったのである。
今はまだわからない引き金によって地球の時間は巻き戻されつつあった。巻き戻される時間は十年。フェアリーリングからドラゴンが侵入してきた直後でもあり、緑色の敵性生物による被害が最初に確認された直後でもある。ちょうど、大異変により北大西洋条約機構軍が壊滅したとされる直前にもなる。
しかし、安全保障軍広報部の説明にあったような衝撃波が過去に送り込まれることはなかった。時空の振動とともに人の強い想いが時震として過去に伝播していったに過ぎなかった。その時震は遡る時間の長さに比例して衰弱していったが、どんなに強い時震であっても、現実の水面に波紋を起こすことすらできない微弱なものであった。
いわゆる、時間の巻き戻しとは、大きな流れで見れば単純に時間が戻っただけである。つまり死の世界になりつつある地球を再び十年前のふり出しに戻すことを意味していた。しかし、小さな流れまで見ていくと、新たな可能性が生まれていることも意味している。時間を巻き戻し、過去の人の意識を変えることができれば、それによって消えていった過去の行動とは別の行動を起こすことができれば、その結果として違う世界になっていく。異なる時間を歩むパラレル・ワールドとなるのである。それゆえに時間の巻き戻しによって生み出される別の世界では、人類が生き残れる方法を見つけられるかもしれないと期待ができるのである。
だが、それは自分たちの世界の消滅でもあった。たとえ、別の世界に自分とそっくりの人間がいたとしても、それは決して自分ではないのだ。すべては絶望を越えて、来るかもしれない未来を求めた賭であった。
(第一章へ続く)




