時間が巻き戻された後の十年前フランス北部カレー近郊
ドラゴンと人類の戦争が始まり、オランダ北部ベームスター干拓地からフランス北部まで避難してきた避難民の一団が、ダンケルク、カレーと彷徨を続けていた。オランダ北部ベームスター干拓地は、現在の混乱した世界を生み出したと言われるフェアリーリングのあった場所である。
避難民の一団には、セリア・ケイと名乗るまだ二十歳にもなっていない少女がいた。彼女は沈黙を続けているが、自分の目で本物のフェアリーを妹とともに見たことがあるばかりではなく、フェアリーリングのすぐそばまで近づいたことさえあるという他の人にはない体験をしていた。
ケイはダンケルクで他の避難民たちとともにイギリスに脱出する船に乗る予定であったが、ルシファーに行く手を阻まれてしまった。たまたまいっしょにいた日本人とともに協力することで危機を脱出することができたが、いっしょに避難してきた人たちとは離れ離れとなった。
カレーでは英仏海峡トンネルを抜けてイギリスに向かうことを考えたが、ルシファーの苗床と化した英仏海峡トンネルを通り抜けるのは不可能であった。さらに運が悪いことに、トンネルを調査に来ていたフランス陸軍とルシファーの戦いに巻き込まれてしまった。ケイの機転のおかげで、兵隊ともどもルシファーの餌食になることから逃れることができたものの、ダンケルクもカレーも単に逃げのびただけであり、ドラゴンだけでなくルシファーの拡大の勢いは、もはやとどまるところを知らなかった。
フランス陸軍も手一杯であり、この先の逃避行を頼れることができなかったため、ケイはひとりで避難しなければならなかった。当面の目標は、パリへ向かうための移動手段が残っている避難民の集合拠点まで歩かなければならなかった。まずはカレーの街に入り必要な食料や飲料水を探したが、なにも見つけることができなかった。すでに街は略奪や疎開により、なにもかも持ち去られたあとであったからである。ただ単に貴重な時間と体力だけが失われただけだった。
ドラゴン以外の得体の知れない生き物が周囲に潜んでいる可能性がある。人間の暴徒や略奪者も、それ以上に恐ろしい。ケイは道路上に放置されている車の影から影へとなるべく目立たないように移動した。すぐそこになにが潜んでいるかわからなかった。数メートル先をじっくり見定めて安全を確認しながら移動を続けるのは精神的にきつかった。早く安全な場所に入って心身を休めたかった。
電力がまだ生きていた信号が、誰もいない歩道に赤信号を灯していた。それはこれからのケイの逃避行を暗示しているかのようであった。夜になろうとしている。闇に包まれる前にカレーの街で安全な場所を見つけ、一晩を過ごすことにした。無理な移動は危険が大きいと、焦る気持ちを抑えるしかなかった。
夜のカレー市内は、ここが本当にフランスなのだろうかと信じられなかった。不気味な声が夜通し聞こえていた。なにものかがガラスを割る音が聞こえてくる。ルシファーが獲物を探しているのか、人間が建物を荒らしているのか、わからない。確かめる気もなかった。近づいてこないことを祈るだけである。まるで、どこかのジャングルの奥にひとりでいるような心細さだった。とてもではないが、ぐっすり眠ることはできなかった。
夜が明けると、不気味な声は聞こえなくなり、静けさが戻っていた。誰もいない街の静寂は不気味ではあるが、当面は安全のように思えた。このため、いよいよパリに向かう行動を起こすことにした。
カレーの街を出ると見慣れない国籍マークをつけた回転翼の航空機が低空のまま旋回し続けているのが見えた。その航空機はなにをするのでもなく、ひたすら旋回を続けているようであった。
今までも回転翼の航空機、すなわち、ヘリコプターは何度か見かけたが、救助活動のために飛んでいるわけではないことを承知していた。だから助けてもらえるとは思えなかった。そもそも避難している人が多すぎて、救助しきれないのが実情であろうということは彼女にもわかっていた。
ヘリコプターが旋回するあたりなら比較的に安全かもしれないと思い、周囲に細心の気を配りながらも、特に隠れるような行動は必要がないと考えた。ひょっとしたら助けてもらえるかもしれないと心の底では少しは期待していたのかもしれない。ヘリコプターはケイの頭上にさしかかると彼女は期待のあまりドキドキしてしまったが、予想どおりそのまま通り過ぎていった。国籍マークは日の丸であり、日本国所有の機体であるが、ケイは東洋の国には詳しくなかったので外国の軍隊の機体であることがわかった程度であった。やはり軍事行動が目的で、救助目的ではないと諦めるしかなかった。ドラゴン包囲殲滅戦のために各国の軍が集結することを聞いていたので、そのために飛行しているにすぎないのであろう。やはり誰もが危険な状態である以上、まずは安全なところまで逃げるにも自力で行動するしかなかった。
しかしながら、そのヘリコプターSH-60Jは突然に旋回を止め、すぐに反転して戻ってきたのである。ケイは思わず立ち止まって、成り行きを見守った。その機体は日本の海上自衛隊の輸送艦〈おおすみ〉の艦載ヘリコプターであった。
ヘリコプターSH-60Jは、ケイの近くまで戻ってくると、なかば強引に高度を下げ、ホバーリング状態となった。
ケイは自分に用があるのかと、やっと理解しかけていた。
「セリア・ケイさんですね」
スピーカーのようなもので話しかけてきた。ヘリコプターSH-60Jのターボシャフトエンジン音が煩かったが、オランダ語であれば十分に聞き取れた。
「そうです」
ケイは声が届くとは思わなかったので、相槌で答えた。
「迎えにきました。覚えていますか?ダンケルクまでいっしょにいた日本人です。国際連合所属機関である敵性生物対策委員会から日本国政府経由で、あなたを迎えに行くように指示が出ています。カレーの英仏海峡トンネルの戦闘で貴重な情報をもたらしてくれたということで、さらに話を聞きたいようです。同行してもらえますか?」
正直な話、情報がどうのこうのということに興味はなかったが、ヘリコプターSH-60Jに拾ってもらえるなら、歓迎だった。おそらくパリにでも降ろしてもらえるだろう程度にしか考えていなかった。
「わかりました」
ケイは再び相槌で答えた。
するとヘリコプターSH-60Jは、着陸できそうな場所を近くに見つけると、そのまま着陸態勢に入った。ケイは自分にヘリコプターが迎えにくるなどまるで小説のワンシーンでも演じているような気分だった。
ヘリコプターSH-60Jの扉が開くと、和田継矢が出迎えてくれた。ダンケルクで離れ離れになって以来の再開である。別に親しい間柄ではなかったが、最終的に彼がいたおかげで自分が危機を脱出することができたことを思い出した。二度も助けられたことになった。礼をきちんと言いそびれていただけに、感謝の気持ちが高まった。
「生きていてくれて、ありがとう。二度と置いていかないわ」
ケイは感謝の言葉とともに、和田にハグして感謝を伝えようとした。すると、彼はさっとあとずさりしてしまって、ハグする機会を失ってしまった。ケイがあとで知ったことによると、ハグする習慣がない日本人であったため、照れていたようである。
ケイは事情を知らないので、その行動になんかひっかかるものがあったが、ヘリコプターSH-60Jに乗り込み、久しぶりに落ち着くことができた。食事も十分にできていないであろうと、おにぎりや日本茶を用意してあったのである。おにぎりも日本茶も初めてであったため、最初は黒い海苔が食べ物とは知らずに苦戦してしまった。海苔も食べられることを教えてもらうと、空腹も手伝って夢中で食べた。とてもおいしかった。これが日本のおもてなしなのかと妙に感心してしまった。この経験が知らず知らずのうちに彼女を日本びいきにさせていた。
離陸したヘリコプターSH-60Jの中で、ケイはさまざまな説明を聞いた。まず、ヘリコプターSH-60Jの目的地は、北海を航行中の日本の海上自衛隊の輸送艦〈おおすみ〉であること。〈おおすみ〉はドラゴン包囲殲滅戦に参加する軍事車両を輸送のため欧州に派遣されていること、〈おおすみ〉の陸揚げ港は、当初の予定であったル・アーヴルから地中海沿岸のトゥーロンに変更となっていることなどである。
また、世界情勢についても教えてもらった。イギリスはドーバー海峡でドラゴンの侵入の阻止に成功し積極的に避難民を受け入れていること、フランスは戦力をル・アーヴルに集結するように全世界に呼び掛けていること、それを受けて各国の軍隊がノルマンディーに上陸してル・アーヴル一帯に合流しつつあることなどである。
フランス軍は総力をあげてル・アーヴルに集結しようとしているのに、自分たちの目的地がなぜトゥーロンなのかケイは特に聞いたりはしなかった。勝手に軍事上の理由であると思い込み、そんなことを聞いても答えてもらえないと思ったのである。
おなかがいっぱいになったケイは、気が付かないうちに少し眠ってしまった。見ず知らずの人の中であるにもかかわらず、なぜかここは安心することができたのである。
ケイはうとうとしながらも、フェアリーリングに触れた瞬間に見た幻が、フラッシュバックとして鮮明に蘇っていた。そこは軍艦の狭い一室であった。壁にはフランス語で何か書かれているが、意味はよくわからなかった。艦の波の揺れ方から、大型艦であり、洋上を漂流しているように思えた。
そうだ。ドラゴンに勝利した私たちは意気揚々と凱旋するところだったはずである。戦闘に参加した一人としての記憶も蘇った。
室内には十人程度の人がいたが、皆が恐怖で青ざめていた。防水ハッチの外側から嫌な音が聞こえてくる。次第に防水ハッチがねじられるように押し曲げられ、小さな隙間ができようとしていた。
ドラゴンに勝利した心の油断が引き揚げ時の検疫をおろそかにさせていたに違いない。唯一の出口である防水扉のすぐ向こう側にあの生き物がいるのだ。私たちは袋のネズミになっていた。
何が起きているのか理解していた。そして、これから起こることも十分に予想ができた。狭い艦内ではできることが限られるし、不意をつかれたために武器もない。
押し曲げられた隙間からなにかが動いているのが見えた。なぜこんなことになってしまったのであろうか?ケイは自分に死が迫っていることを感じていた。
これは謎かけなのかもしれない。この無理としか言いようのない難題の謎かけこそが、世界的な破滅に向かうゲームを終わらせる鍵なのかもしれない。ケイはいつのまにか幻の当事者ではなく、幻を傍観する側になっていた。ここで目覚めた。
目がはっきりと覚めた時、〈おおすみ〉にちょうど着艦しようとしているところだった。〈おおすみ〉は全通飛行甲板のドック型輸送揚陸艦であり、上甲板の艦橋構造物より後方のヘリコプターSH-60Jが離着陸する場所以外は、戦車や装甲車のような車両が乗せられているのが見えた。戦車に見えたのは、実は16式機動戦闘車であり、装甲車に見えたのは82式指揮通信車であった。写真でしか見たことがない戦車や装甲車に、まるで戦争小説の中に紛れ込んでしまったようだった。
ケイはフランス地中海艦隊の司令部のあるトゥーロンで詳しい情報が聞かれることを知らされ、このまま輸送艦〈おおすみ〉とともにトゥーロンのフランス海軍地中海艦隊の基地に移動することになった。これで避難のために知らない土地をさまようことから解放されたのだと、素直に感謝した。それを聞いてもっとも喜んだのは輸送艦〈おおすみ〉の乗員たちだった。なにしろ金髪の若い女性が艦に乗り込むのだから無理もない。海上自衛隊ご自慢のカレーライスや新鮮なネタを使用した寿司をごちそうするなど至り尽くせり状態となってしまった。
ケイは素直に親切に感謝し、艦の雑用を自ら手伝うとともに、艦長にも表敬訪問するなど、久しぶりに人間的な生活に戻った。もしも日本国の海上自衛隊のヘリコプターSH-60Jが迎えにこなければ、無事にパリにたどり着けたかどうかもわからなかったことを考えれば、生き残ったことには理由があるはずであると考えるようになった。トゥーロンで自分の責務を果たすつもりであった。
数えきれなく繰り返された時間のやり直しの中で、今回の時間の繰り返しの違いはもっとも大きな意味をもっていた。なぜなら、もしも小さな子が願いを託すとしたら、頼りになりそうな人であっても見ず知らずの人に願いを託すであろうか?おそらく、自分にとってもっとも身近な人に託すのではないだろうか?あとであきらかにされる事実から分かるように、あるべき姿となった時間の流れは、今までに消えていった時間の流れにはなかったことが始まろうとしていた。




