トゥーロン安全保障軍基地内親衛隊広報部
どの壁という壁にも肖像画が飾ってあった。ルドルフ・フォン・シュバイツァー参謀本部長官と教えられたその肖像画には、この世界にこれほど笑顔が似合わない男がいるのだろうかと思わせるような中年の人物が描かれていた。坂井美春伍長は冗談まじりでそれを口にしたのだが、それを聞かれた兵隊に平手打ちをうけたのだった。どうやら、ここでは彼の独裁体制が浸透しているらしいことを痛感させられた。
安全保障軍、坂井伍長にとって始めて聞く名前であった。それもそのはずである。安全保障軍は、大異変後の人類後退期になって創設された軍なのである。大異変後の北大西洋条約機構軍が崩壊した時、国際連合安全保障理事会は新たな危機に対抗するため、戦力の投入ではなく世界各地に閉鎖地域を設定し、戦力の温存を図ることとした。ここフランス共和国地中海艦隊の司令部のあったトゥーロンと付随する航空部隊のあったイエールが、フランス共和国南部地域の戦力を温存する地域として極秘に進められた。
しかし、晴れることのない天候により穀物が十分に育つことがなく、食料の自給が不可能であったために構想はすぐに挫折した。代わりにいわゆる核戦争による致命的な打撃を受けた場合の緊急処置が、安全保障軍を創設するきっかけとなった。しかし、それは皮肉としか言いようがなかった。もっとも、当時の誰に現在の状況を想像しえることができたであろうか? 結局のところ、核戦争先制攻撃症候群も終わりよければそれでよしということなのであろうか? だが、肖像画の中のシュバイツァー参謀本部長官はそうは思ってはいないようである。
彼はもともと閉鎖地域の食料プラントを管理する一士官に過ぎなかったのであるが、彼の過激な思想は海軍基地に隣接するトゥーロンが抱える問題に対する市民の答えでもあった。すなわち、彼は強力な軍事力支持と弱者排除の論理を掲げ、大異変の後遺症による避難民問題で揺れるトゥーロンの権力者に気にいられることとなった。さらに彼は食料プラントを私物化し、抵抗勢力には食料配給停止をちらつかせ、必然的に権力を得た時代の人となった。彼によってすべての戦力は統合され、トゥーロンをトゥーロン都市要塞と改め、駐留する全軍の司令官となり、権力という権力をわが物としていた。
多大な犠牲を払って決死の脱出を行ったデリンジャー分遣隊の唯一の生き残りである坂井伍長には、そんな事情など知るはずもなく、また、そんなことを考える余裕すら持っていなかった。彼女はテーブルに向かって腰を降ろし、警備の兵をできるだけ見ないようにして平静を取り戻そうとしていた。緊張のあまり手が震え、喉も渇いたが、意識しないように努めた。そうやって気を鎮めてみようとしたものの落ち着かなく、立ち上がろうとすると兵隊は神経を尖らせて銃の引き金に指が動かした。有無を言わせないその態度に諦めて座って待つしかなかった。
トゥーロン都市要塞に着いてから一週間後、彼女はある程度体調を回復すると、兵員トラックで親衛隊広報部と書かれた建物のこの部屋に連れて来られた。彼女を連行してきた兵隊は、今警備にあたっている兵隊同様に威圧的な態度を少しも和らげようとしなかった。その理由は坂井伍長も充分に知っていた。おそらく、正規軍ではなく独裁者の私兵と化した親衛隊なのだ。そう確か第二次世界大戦中にも、このたぐいの軍がいたはずである。
誰かが部屋に入ってきた。入ってきたのは、またしてもアマンダ・キャンベル少尉だった。キャンベル少尉は立ち上がろうとする坂井伍長を手で止め、テーブルの向かい側に座った。
「自分はトゥーロン安全保障軍憲兵隊広報部のアマンダ・キャンベル少尉である。あなたを指導をするように命令され派遣された。まず、官姓名を名乗りなさい」
坂井伍長は狼狽しつつも答えることだけは準備できていた。それにしてもキャンベル少尉に名前を聞かれたのはこれで何度目であろう。何度も同じことを質問され、その度に同じ回答を説明する。尋問されることはルテチアを出る前から予期していたことではあるが、ここまでとは予想外であった。しかし、彼女は本当のことを何度でも正直に話すつもりだった。
「ルテチア市防衛軍偵察旅団遠征部隊特殊車両隊デリンジャー分遣隊所属、伍長の坂井美春です。私は援軍を求めるように命令され、その命令を執行中にここにたどり着きました」
「聞かれたことだけに答えればよろしい」
坂井伍長は肩をすくめた。
「どういうことです?」
キャンベル少尉は厳しい視線を彼女に向けた。
「伍長、やはりセレモニーの前に一度教育し直す必要があるようね。伍長はトゥーロン都市要塞の新しい英雄になる。英雄は英雄らしく、トゥーロン都市要塞の安全こそを再重要と考えなさい。だから、ルテチアのことは二度と口に出してはけない。いいわね」
「どういうこと?」
坂井伍長は、つい感情的になり立ち上がって怒鳴った。すかさず、警備にあたっていた兵隊が反応を示す。坂井伍長はやむなく席に戻った。
「二度と口に出してはいけないと言ったように聞こえたわ」
「そのとおり」
若い少尉は平然と答えた。
「納得のいく説明が欲しいわ。私はルテチア市民全員の命を救う任務があります」
坂井伍長は効果があるとは思えなかったが、語尾を強調してみせた。
「答えは簡単だわ。ここでは弱いものに生きる権利は与えられない。戦略的に、あるいは、戦術的に存在価値がない者に援軍を出すことなどありえないわ。これからはここトゥーロン都市要塞の兵士としての義務を果たすべきなのよ。その義務を果たす機会を与えられたことに感謝すべきだわ」
「冗談ではないわ」
坂井伍長は抗議したが、むろん聞き入れられるわけもなかった。




