第92話 断章:おひさし様
~時を戻して、エンディ達がセイランから帰ってきた頃~
『それ』は、走っていた。
短い手足を必死に動かして、ひたすら何かから逃げるように走っていた。
体は小さく、小動物のよう。魔物に出会っても逃げるしかできない。
「はっ……はっ……くそっ……くそっ!」
『それ』は小さく叫び、走り続ける。
名をおひさし様と呼ばれていた。過去形だ。今はもう、その名を呼ぶ者はほぼいない。
姿はとても大きく、威厳に満ちていた。今はもう、矮小な生き物でしかない。
力は強大だった。今はもう、人ひとり満足に傷つけられはしない。
「なぜ……なぜだ……なぜっ……」
一体どこで狂ったのか。考えて、その答えに行きつく。
きっと最初に狂ったのは娘に力を分け与えたときだ。
おひさしはある能力を持っていた。
自らの力を他者に分割して渡し、その者の中で熟成させ、回収する。
その能力で、力を少しずつ増してきた。
けれど以前、予想以上に力を分け与えてしまった。
とある黒髪の娘に力を分け与えすぎてしまった結果、おひさしの本体は弱体化した。
そのため、キサキ山にておひさしは狩りをする必要があった。
いつもよりも多くの者を殺す必要があった。
分け与えたものを殺していないので、取り込める力など微弱だが、そうするしかなかった。
だから、あの冒険者共に捕捉されたのかもしれない。
いや、いずれにせよ最初に狂ったのは予想以上の力を娘に取られたときだ。
もし万全なら、あの程度の剣士や弓使いに遅れなど取るものか。
「ありえん……ありえんっ!」
だが、それだけならばまだ挽回は効いた。
本体を倒されたことでおひさしは黒髪の娘の中に入った。
名をサナというその娘は、体内で気づかぬうちにおひさしの力を熟成させていた。
十分熟成し、成熟した垂涎ものの力だ。
だからそれを取り返したとき、おひさしは生きてきた中で最も力に満ち溢れた。
この娘の身体があればどんな魔物でも、どんな冒険者でも倒せると、そう思った。
たまたま近くに居た刀を持った男も、元の本体を倒した剣士や弓使いも、皆殺せると確信した。
だが、あの二人だけは別だ。
「なんだ……なんなのだ……あれは……」
思い出すだけで、おひさしは青ざめる。体を震わせる。
理解不能な出力で魔法を行使する黒い女。
長年生きてきたおひさしでも想像すらできないほどの魔力に魔法。
あれ一人でも手も足も出ない強敵だろう。それが居合わせたのは運が悪かった。
けれどそれ以上に理解不能なのは、もう一人の白い女。
「なんなのだ……あれはっ!」
おひさしが白い女を見て思ったのは、怪物。
自分など生易しい真の化け物。あれが人の形をしているということ自体、間違いだ。
加えてあの白い女は、自分をサナという娘から切り離した。
到底信じられぬ。到底理解できぬ。到底現実とは思えぬ。
おひさしからしても常軌を逸した存在と行動。
夢と思うことでしか、正気を保てなかった。
「逃げるのだ……逃げるのだ……少しでも、遠くへ……」
だからその場から逃げた。
あんな化け物二人がいる場所に留まっていたら、自分など塵一つ残らない。
そう思って逃げた。
セイランは自分を殺した剣士や弓使いが居るので避けた。
シエルエイラは化け物二人がいるので論外。
ゆえに候補はアーセラスとマルク・マギカだった。
けれど気づけば、おひさしの足はマルク・マギカへ向かっていた。
二国を比較して、シエルエイラから遠い国を本能的に選んだのだ。
そうしておひさしは走り続け、長い距離を駆け抜けて、やっとマルク・マギカまで来た。
逃げ切ったのだ。
(行ける……行けるぞ……儂はまだ終わってない! 終わってない! このマルク・マギカで適当な場所に落ち着き、再起を図る。儂なら行ける、儂なら!)
頭の中で思い浮かべた自分をここまで苦しめた男女の姿。
それも100年ほど待てば消えるだろう。そうなれば、自分は再び勝利できる。
生き残れば勝ちだと、おひさしはそう思っていた。
(覚悟しろ小娘、小僧……長い月日の後に、貴様らの子孫でも食い殺してやる……)
怒りに燃えるおひさしは見逃している。
まず、その身体はあまりにも弱くなりすぎた。
サナの中に、自らの力のほとんどを置いてきてしまった。
今からおひさしが再び力を取り戻すには100年では足りない。それを見逃していた。
「っ……」
そしてもう一つ、おひさしは見逃している。
確かにセイランにアンナとルイはいる。
確かにシエルエイラにイヴとムゥはいる。
なら、マルク・マギカには誰もいないのか?
刃が月光で煌めき、それを確認した瞬間におひさしは身体に熱さと鋭い痛みを覚えた。
「あ……」
足が上手く動かない。否、もう動かせない。
胴体を真っ二つにされ、小さく矮小な『それ』は地面に横たわる。
これまでどんな魔物に遭遇しても逃げられたが、今回は逃げられなかった。
逃げ切れるはずがなかった。
「……? ずいぶん小さい魔物ね」
シエルエイラ国所属、『勇者』シエラ・エンフィールドからは。
「……っ」
知るはずもなかっただろう。
まさかシエラがマルク・マギカに滞在していたことなど。
四大魔境の一つ、「氷結の大地」の探索をやはり一人では無理と断念し、目的地を別に変えていたことを。
そしてそれが隣国、アーセラスの四大魔境「超高山地帯」の視察であり、たまたま今日、ここを通りかかったことを。
そしてシエラが『それ』を捕捉することなど、赤子の手を捻るより容易であることを。
『それ』は、運が悪かった。悪すぎた。
本体を殺され、逃げた先で二人の怪物に無力化され、そしてさらに逃げた先でまた別の怪物に捕捉された。
「…………」
ゆっくりと、目を閉じる。
最後に映ったのは。
無表情で月光を反射する剣を突き刺そうとする、亜麻色の髪の少女の姿だった。
こうしておひさしは、最後はその正体がおひさしだと相手に気づかれることも無く、消えた。
灰となって、この世から完全に消失した。




