第481話 戻ってきたリアが唯一望んだこと
「…………」
「…………」
強い雨音だけが響く校長室に、沈黙が落ちる。
その微妙な静けさに居心地の悪さを感じて、俺は恐る恐るリアに声をかけることにした。
「じゃ、じゃあついさっき様子がおかしかったのは?」
質問に、リアは眉を下げた。
「……『転生魔法』の影響だと思いますが、戻ってきた私は記憶が曖昧だったんです。何が未来で起こったのかは知っていましたが、なぜそれが起こったのかは……思い出せなかったので……」
「『転生魔法』の記憶の曖昧さ……か」
これもムゥが実際に経験したことだ。
未来に転生するのか過去に転生するのか。
細かい違いはあれど、記憶は混濁するのだろう。
「ただ、体だけは覚えていました。……先生との授業を、真面目に完遂させる。いえ、そうしなくてはならないと。もしも以前と同じ態度で授業を受ければあの地獄が待っている……それを記憶で覚えていなくても、体が……心が覚えていたんです」
「だから……か」
あの鬼気迫るほどの授業に対する真面目な取り組みの理由が分かり、納得する。
その後で、家でのリアの様子を思い出して、ハッとした。
「あ……じゃあ家でイヴから距離を取ったり、返答がおかしかったのは……」
「もちろん……今のイヴ先生はあの時のイヴ先生ではありません。ですが……」
「恐ろしかったからか」
そりゃあ自分の命を狙って、世界を壊しながら襲ってくる相手だ。
今と未来では違うと頭では分かっていても、体で覚えた恐怖は拭えないだろう。
思い返してみると、リアは変わった後はサナとは話をしていたが、ムゥとは以前とは変わって交わす言葉が減ったような気もした。
ここら辺も、逃亡生活の影響が出ているのかもしれない。
そんなことを思っているとリアは小さく、寂しそうに笑った。
「……本当は、先生との授業をそもそもするべきではないと思っていたんです。先生が死んだのは私のせい。だから私を先生が受け持っていなければ、先生が死ぬことはない」
「リア……」
「過去に戻った段階で、すでに先生の授業が始まっていたというのもあります。けれど、それでも先生との授業をしないという選択肢もありました。……こっそり先生の下を離れることだって……思った……のに……っ……」
膝の上の手を何度も握りながら、リアは俺を見て、笑った。
今にも泣きそうな、笑顔だった。
「私……私っ……良かったって……そうっ……思っちゃったんですっ……やり直せる……あの楽しい時間を、またって……今度こそ、今度こそ先生との授業を……最後まで……最後……までっ……やりたいって……」
リアの閉じた目から、一筋の水滴が溢れた。線を描き、頬を落ちていく。
その表情に、胸が締め付けられる思いがした。
(こいつは……こいつ……は……)
上手く考えがまとめられない。だから大きく息を吸って、気持ちを落ち着かせた。
リアの話を、心の中で振り返る。伝えられた情報を頭でなぞればなぞるほど、息苦しさを感じる。
確かに、元々リアは真面目な生徒ではなかった。
その結果、俺は死に、そしてそれを引き金にしてイヴがおかしくなり、世界を破壊した。
それまで過ごした人々が、世界が消えていく。それも自分のせいでだ。
どれほど恐ろしかっただろうか。どれだけ怖かっただろうか。
その地獄の中で、リアは変わるしかなかった。文字通り、容姿も人格も変わるしかなかったのだ。
それでも地獄は終わることなんてなくて、夢であるはずもなくて。
そんな中で手にした一つの光。それが、やり直すということ。
その機会をリアは大切にした。なんとしてもやり遂げないといけないと心に刻んだだろう。
けれど、けれどその中でリアが……彼女の心が唯一望んだのは、俺との授業を『無事に終わらせる』ことだった。
それすらエゴであると思うくらい、リアは追い詰められていた。
(……何してんだよ。未来の俺は……魔物になんてやられやがって……)
目の前で笑いながら涙を流したリアを見ていると、未来の自分に怒りも沸く。
リアの失敗は失敗だが、そもそも俺が新種の魔物を死なずに倒せば良かっただけだ。
クソ魔物と相打ちになり、結果として取り返しのつかないことが起きた。
いや、それ以上に……間接的とはいえ、生徒にこんな顔をさせているのが未来の俺、ということに憤りを感じた。
とはいえ、それは今は重要なことじゃない。
「リア、話は分かった」
少しだけ上半身を乗り出し、手を伸ばしてリアの目から溢れた涙を親指で拭う。
「未来で何が起こったのかも、お前が何をしてきたのかも、そしてお前が何をしたいのかも……だから俺が言えることは一つだけだ」
息を吸って、まっすぐにリアを見つめて。
「俺も同じ気持ちだ。お前と、最後まで授業がしてえ。未来の俺がそれを途中で投げ出した……いや、できなくなったなら余計にだ。お前が望んでいるからこそ、そして俺もお前を教えたい、教え終えたいと思っているからこそ、やりてえ」
「せん……せい……いいん……ですか?」
「当たりめえだろ。むしろこんな逸材を途中で投げ出したくねえよ。お前にしたいことがあるように、俺にだってあんだからよ……それにしても、未来の俺の失敗を今の俺がなんとかするって、それはそれで変な感じだけどな」
胸の奥の火が燃え上がるのを感じて、ニヤリと笑う。
するとリアは一瞬だけきょとんとした顔をした後で、安心したように、肩の荷が降りたように、少しだけ雰囲気を柔らかくして口角を上げた。
「だが、まだその腕について話してもらってねえぞ。それ、自分でつけた跡だろ?」
「うっ……」
最後に残った不明点を質問すれば、リアは分かりやすく顔を歪める。
少し言い出すのを迷った後で、彼女は観念したように口を開いた。
「……戒め、です。私が先生との授業で気が緩んだ日に、気を引き締め直す……ために……ごめんなさい……でも、でも私にはこの一回しかないんです。この一回に、全てをかけるしかないんです」
「……そう……だな……」
以前、ムゥがマルク・マギカに移動する転移魔法について説明する際、魔力が少ないからサナに転移魔法を使えない、と言っていた。
未来ではシエラはもういなくて、残っていたのはムゥとサナ、そしてリアだけ。
ムゥはもうすでに『転生魔法』を自分に使えない。
つまりリアが今後失敗すれば、本当にもう取り返しのつかないことになる、ということだ。
(……たった一度の……過去へ戻る旅か)
小さく息を吐いたのは、その重さがどれだけか……いや、どれだけ想像してもその想像以上だろうと思えたから。
リアは両肩に重すぎる……あまりにも重すぎる使命を背負った。
たった一度を決して間違えないために全てを変えて、全てを捨てて、そして自分の身すら傷つけてでも成し遂げようとした。
記憶だって曖昧な部分はあったはずだ。
誰にも相談できなかったはずだ。
たった一人で、たった一回の、やり直し。
チラリと、目の前に座る少女を見る。まだ少女だ。
それこそ以前は自分を着飾ったり、強力な戦技や魔法に憧れる普通の少女だった。
(……よく潰れずに、ここまで……だが)
息を吸い、大きく吐いて、リアを見つめる。
「リア、もう自分を傷付けるのはやめろ。もしも一日のことを思い返して、気持ちが緩んでいると思ったら俺の部屋に来い。そのときは俺が叱ってやる。だから、絶対に自分の体に短剣を突き立てるな」
「で、ですが--」
「リア」
戸惑い、抗議の声を上げようとするリアに、俺は声をかける。
優しく、穏やかに。
「一人で背負うな。俺は今、お前から話を聞いた。俺もまた、お前の重荷の一部を背負うつもりでいる。だからやめろ……そもそも生徒にそんなもんを背負わせるなって話ではあるが」
上手くないと自分で分かる笑みを無理やり浮かべて、頭を数回掻いた後で、手を下ろして、思ったことを祈るように口にした。
「それに生徒が傷つく姿、あんま見たくねえんだよ。……生徒が自分自身を傷つける姿なんて、もっと見たくねえ」
「せん……せい……」
思い描くのは、最初の生徒であるイヴを斬ったときの光景。
どれだけ時間が経っても、どれだけ生徒を教えても、消えることはない光景。
俺はどうしても、リアの自分を傷つける在り方だけは受け入れられなかった。
「絶対にやらないと俺と約束しろ。その代わり、俺は全力でお前を助ける。お前のために、お前が望んだ授業の完遂をやってみせる。そう約束するからよ」
「…………」
俺の言葉にリアは自身の手を胸に持ってきて、小さく息を吐く。
俯いていた視線は上がり、俺を見据えて。
「分かりました。先生の教えに従います。自分の体を傷つけないと……誓います」
「ああ、そうしてくれ」
リアの目に嘘がないことを確認し、一旦安堵した。
これでリアのこれまでや、彼女が今抱えている自傷については解決。
それなら、次に考えるべきことは。
「色々と話を詰めていくぞ。新種の魔物やこれから先どうするか……じっくり話して、何度も相談して、決めようぜ」
「はい、よろしくお願いします」
リアの使命を無事に終わらせることだ。
不意に、校長室の窓に目を向ける。
あれだけうるさかった雨音は、やや落ち着き始めているように思えた。




