土曜日 3
記憶を取り戻すきっかけが、舞い込んできた。
喜ばしいことだけど、美織の気持ちは、複雑だった。
買い物を終えて、マンションに戻り、
「思い出した?」
と、聞くと、成哉は首を振る。
「向こうは、かなり親しげだったわよ。懐かしい感じとかは?」
成哉は、ため息をついて笑う。
「全く、初対面の人って感じ。」
宙を見上げ、思い出そうと努力もしていたようだが、不発に終わったようだ。
美織は、どこかホッとして、成哉に言った。
「無理しないでいいと思うわよ。自然に任せて。」
「うん…。」
成哉は、恭平から預かった携帯の番号の書いたメモをぼんやりと見つめていた。
「でも、このままってわけにもいかないよな。」
ポツンと言った成哉の言葉に、美織は、ギュッと心臓を捕まれたような気がした。
このままではいけない。
成哉は、そう思っているのだ。
当然と言えば、当然だ。
記憶喪失のまま、見知らぬ人のマンションに、転がり込んでいる身上は、普通ではない。
記憶を思い出す手段を探すことも大事だが、彼の家族は、突然、いなくなった彼を探しているかもしれないのだ。
彼の、本来いるべきところに、帰らなければならない…。
そのためには、恭平という名の、さっきの男の情報は必要だった。
過去の成哉を知っている男。
あの男の情報を聞くことで、成哉は、何かを思い出すかもしれない。
それは、喜ぶべきこと?
常識的には、確かに喜ぶべきことだ。
けれども、美織は、嬉しくない。
成哉が、記憶を取り戻すのは、美織にとっては、嬉しくないことなのだ。
どうして?
美織は、自問自答する。
どうして、私は、成哉の記憶が戻って欲しくないの?
美味しい食事が食べれなくなるから。
成哉と一緒にいるのは、楽しいから。
また、一人になるから。
美織は、首を振った。
また、考えすぎてる。
考え過ぎると、ロクなことがないのは、わかっているはずなのに。
「成哉くん、先にシャワー浴びていいわよ。」
食事が終わったあと、美織は、成哉に風呂を促した。
朝から、ずっと一緒にいる時間ははじめてだ。
成哉は、素直に、美織の言葉を受け、風呂に入った。
こたつの上には、恭平から預かったメモの走り書きがポツンと置いてあった。
何の警戒心もない。
今から、美織がしようとしていることなど、考えもしないのだろう。
美織は、こたつの上に置いたままの電話番号のメモを、そっと、自分の鞄にしまいこんだ。
しばらくして、成哉が、ほかほかしながら、風呂場から出てくる。
濡れた髪をタオルで拭きながら、美織とすれ違う。
「じゃ、次、私が入るわね。」
いつものように、鞄を持って、風呂場に入る美織が、チラリと後を振り向くと、成哉が、こたつの上のメモがなくなっていることに気が付いたようだった。
こたつの周りを探している様子を目の端でとらえながら、美織は、風呂場のドアを閉めた。。
成哉は、探しているだろう。
今のとこ、自分の記憶の唯一の手がかりなのだ。
美織は、長い髪を洗っている間に、湯船に湯をはり、その身体をゆっくりと沈めた。
美織が、風呂から出たら、成哉は、必ず電話番号のことを聞いてくるだろう。
その時、どう答えよう。
知らないと、嘘を通そうか。
隠したと本当のことを言って、ここから出ないでと成哉に伝えようか。
ずっと、一緒にいてくれと頼もうか。
そして、また考える。
成哉のことが好きなんだろうかって。
好きか嫌いかと聞かれれば、好きなんだろうと思う。
嫌いだったら、一週間も一緒なんて、耐えられない。
けれども、恋愛なのかと聞かれれば、そこらへんは、曖昧になる。
恭平の話が本当ならば、去年、大学を卒業してるので、今は23歳くらいだ。美織とは5歳の差になる。
恋愛の対象外というわけではない。
成哉は、ホストのような甘いマスクで、料理もうまく、いつも楽し気で、年下ではあっても、ときめく要素はいっぱいある。
成哉の方も、美織の美しいといってもいい自慢の脚を、眩しそうにみていることがあった。
好きで、好きで、たまらないという関係ではない。
それでも、一緒に居たいと美織は感じていた。
成哉と一緒に居たい。
これが、美織の正直な気持ちなのだ。
一緒に居て。
お風呂から出たら、そう言おう。
美織は、そう決意した。
その時、インターフォンが鳴ったのが聞こえた。
成哉が、応対している。
誰だろう?
風呂場からは、詳しい声は聞こえない。
すると、風呂と台所が繋がる通話ボタンが音をたてて光った。
風呂場のドアを開けずに、台所から話をすることができるのだが、若干の時間差がある。
『どうしたの?』
美織が尋ねると、数秒の間のあと、成哉の声が響いた。
『さっき会った、恭平って奴が訪ねてきたんだ。ここにあげるわけにはいかないから、裏手の喫茶店に行ってくるよ。』
え?どういうこと?
美織の頭はパニくった。
さっきの男は、成哉がどこに住んでいるのか、知らなかったはずだ。
聞きもしなかった。
よほど切羽詰まった用事だったのか、聞きたかったらしい情報を聞くこともできず、別れたはずだ。
唯一のつながりが、恭平の渡した電話番号だった。
その電話も、成哉が電話をする前に、美織が鞄に隠した。
そして、隠した鞄は、今、風呂場の踊り場にある。
成哉がドアを開けた気配はない。
どうして?
『待って、成哉くん、何かおかしいわ。私も行く。』
成哉の返事は、やはり数秒の時間差のあと、風呂場に響いた。
『それじゃ、先に行ってる。美織さんは、髪乾かして、暖かい恰好で来てよ。風邪ひくといけないから。』
え?え?
通話ボタンの光が消えた。
湯船から立ち上がり、美織は、こちらからの通話のボタンを押す。
台所には、これから伝わる音が鳴っているはずだ
けれども、応答する声はない。
成哉は、行ってしまったのだ。
美織は、慌てて、風呂場から出た。
髪の毛がびしょびしょだ。
このまま、外には出られない。
美織は、急いで、ドライヤーを手にした。




