奇跡
クラウスの屋敷は静かで、温かくて、安心できる。
でも──ずっと部屋にいると、胸がむずむずしてくる。
「……少しだけなら」
私はそっと扉を開け、廊下を歩いた。
騎士団本部は遠いけれど、屋敷の裏庭には訓練場がある。
そこなら、少しだけ“騎士団の空気”を感じられる気がした。
裏庭に出ると、若い見習い騎士が木剣を振っていた。
年は私と同じくらいだろうか。
汗を拭いながら、こちらに気づいて笑った。
「君、団長の家の子? 見ない顔だね」
私は慌てて首を振る。
「ち、違います。ただ……見学を」
「見学? いいよ、危なくないところなら案内する!」
彼は気さくで、優しかった。
木剣の持ち方を教えてくれたり、訓練場の仕組みを説明してくれたり。
私は久しぶりに、誰かと自然に話した気がした。
「君、細いけど身のこなしが軽いね。剣、向いてるかも」
「……そうでしょうか」
「うん! 団長に頼めば教えてくれるんじゃない?」
その言葉に、胸が少しだけ温かくなった。
書類に目を通していたとき、ふと胸騒ぎがした。
屋敷の中の気配を探る。
……リオンの気配が、ない。
「……どこへ行った?」
嫌な予感が背筋を走る。
彼女はまだ外に出すには危険すぎる。
魔物の異常発生も、彼女を狙う者の存在も、何ひとつ解決していない。
私は即座に屋敷を出た。
裏庭に出た瞬間、視界に飛び込んできたのは──
木剣を持つ見習い騎士と、
その横で小さく笑っているリオンの姿。
胸が一瞬で熱くなった。
「……リオン」
低い声が自然と漏れた。
見習い騎士が驚いて振り返る。
「あっ、団長! この子、見学したいって言うから──」
「君は下がれ」
声が冷たくなったのが自分でも分かった。
見習い騎士は青ざめて敬礼し、慌てて離れていく。
リオンは小さく肩をすくめた。
「……ごめんなさい。少しだけ、外の空気を……」
私は彼女の前に歩み寄り、しゃがんで目線を合わせた。
「危険だと言ったはずだ」
「……はい」
「なぜ言わなかった」
「怒られると思って……」
胸が締めつけられた。
怒りではなく、彼女が怯えていることへの痛みで。
私は深く息を吐き、彼女の頭にそっと手を置いた。
「怒ってはいない。
ただ……君がいなくなるのが怖いだけだ」
リオンの瞳が揺れた。
「……クラウス様」
「見習い騎士と話すのが悪いわけではない。だが、君はまだ守られるべき立場だ。私の目の届かないところへ行くな」
その言葉は、騎士団長としてではなく、ひとりの男としての本音だった。
リオンは小さく頷いた。
「……分かりました。次は、ちゃんと……言います」
その言葉に、胸の奥が静かに温かくなった。
訓練場の空気が急にざわついた。
見習い騎士の少年が、仲間に支えられて運ばれてくる。
腕から血が流れ、顔色が悪い。
「魔物の爪がかすった! 治療班はまだ来ないのか!」
私は思わず駆け寄った。
「大丈夫ですか……?」
少年は苦しげに笑った。
「平気……じゃないけど……君は下がって……」
でも、胸の奥が熱くなる。
あの地下で光が溢れたときと同じ感覚。
――助けられる。
理由は分からない。
でも、そう確信した。
私はそっと彼の腕に触れた。
その瞬間、胸の奥の光が脈打ち、
手のひらから温かい光が溢れた。
柔らかく、優しく、痛みを包み込むような光。
少年の傷口が、ゆっくりと閉じていく。
周囲の騎士たちが息を呑んだ。
「……治ってる……?」
「なんだ、この光……」
私はただ、震える手を見つめていた。
「……私、何を……?」
騒ぎを聞きつけて駆けつけた瞬間、私は見た。
リオンの手から溢れる、あの“神聖な光”。
そして、傷が癒えていく様子。
胸が一瞬で冷たくなった。
――見られた。
彼女の力を、他の者に。
私は歩み寄り、リオンの肩を抱き寄せた。
「リオン、もういい。離れろ」
声が震えていた。
怒りではない。
恐怖だ。
彼女が“特別な存在”だと知られれば、
必ず狙われる。
教会も、王国も、帝国の一部ですら。
「団長……? 俺、助けてもらったんです。リオンは──」
「黙れ」
低い声が自然と漏れた。
見習い騎士は驚いて口を閉じる。
私はリオンを抱き寄せたまま、周囲を睨む。
「今見たことは、誰にも言うな。これは命令だ」
騎士たちは一斉に背筋を伸ばし、敬礼した。
「は、はいっ!」
リオンが不安そうに私を見上げる。
「クラウス様……ごめんなさい。勝手に……」
「謝るな。君は間違っていない」
私は彼女の手を包み込んだ。
まだ微かに光が残っている。
「だが……君の力は危険だ。君自身のために、隠さなければならない」
その言葉は、騎士団長としての判断ではなく、
ひとりの男としての願いだった。
騎士たちはざわついていた。
「団長があんな顔するの、初めて見た……」
「リオンって……何者なんだ?」
「光で傷を癒すなんて、聖女の奇跡じゃないか……?」
だが、誰も口には出さない。
団長の命令は絶対だ。
ただ、彼らは気づいてしまった。
団長は、あの少年を特別扱いしている。
そしてその噂は、静かに帝都へ広がり始める。




