天動・大転移
ルガリスは空に佇んでいた。
世界中の戦闘機が、彼女を撃墜すべく大空に舞い、突然の落雷により落ちていく。
今の彼女は、地球上の人類全てを恐怖に陥れていた。
富士の樹海に降り立っただけで、東日本には大停電を生じさせ、ルーナと剣を交えた北ヨーロッパの一部地域は、巨大な嵐が過ぎ去ったかのように更地と化していた。
ルガリスのもとには多くの軍事兵器が飛来する。
それは、一帯を火の海にする焼夷弾だった。
それは、最先端の技術を駆使された電磁砲だった。
しかしそれらは、彼女へと届く事もなく無力化される。
その様子は、ネットワークやメディアの中継を通じて世界中の人間が見ていた。
本来それは《ノア》に隠蔽されるべき情報だったが、いよいよそれが不可能なまでの事実が、世界に曝け出されてしまう。
「そこまで私が邪魔か……」
ルガリスはそう呟き、空に剣を掲げる。
すると紫黒の雷雲には大穴が開き、そこに収まる程の巨大な魔法陣が現れた。
この日、全ての人類が知ることになる。
魔術が現実に存在している事。
そしてそれはありふれたお伽話のように素敵な力では無く、人類を恐怖に陥れ、破滅へと導く物だという事を――。
「……だが、もう私達の役目は終わりだ」
ルガリスの剣から魔法陣に向けて、一筋の光が放たれた。それは空を突き抜け、やがて細くなり消えていく。
――そして、世界は震動する。
それは一瞬の事だった。
天から、巨大な黒い光の柱が落ちた。それは空を飲み込み、やがて地球を闇に包む。
それまで空があったはずの闇の天井に、ゆっくりと赤い瞳が開き、世界の全てを凝視した。
地球上にいる多くの生命は、この時確かにその破滅の光景を目にしていた。
ある者は気が狂い、またある者は失神する。
それは当然の結果だった。破滅を目の前に平静を保てるのは、既に狂人であったか、あるいは幸いにも屋内にいてその異常に気付かなかったか、どちらかだ。
しかし、屋内であれど中継で惨事の様子を見ていた者は多く、後者の場合で自我の崩壊を免れたのはごく少数である。
ひとしきり世界を見渡した巨大な赤い眼はやがて閉ざされ、一面の闇には一筋の亀裂が入る。
亀裂は徐々に広がり、差し込む光は神の光輝のようだと多くの者が思っただろう。
全てを包む闇は砕け散り、地球は元の光景を取り戻す。
同時に人々の記憶から、その地獄のような光景は消え去っていた。
狂った者は混乱しながらも自我を取り戻し、なぜか突然失神した者は、周りの者に介抱されていくだけだった。
***
《ワイドグラフ》の拠点、何の変哲も無い雑居ビルの地下にある薄暗い部屋に、着信音が鳴り響く。
「電話、応答」
部屋にいた佐伯が口にすると、着信音は鳴り止み通話状態になった。
「もしもーし」
『あ、佐伯さん? 飯田です。気になる事があるんだけど……』
「……あぁ。てか俺今まで何してたんだっけ……」
『あれ? 佐伯さんもか』
受話器の向こうから聞こえる飯田の声は、困惑に満ちている様子だった。
バルト海の様子を伝えていたテレビニュースのキャスターは席に着き、気を失っていた。
画面は瞬く間に切り替わり『しばらくお待ち下さい』と表示される。
「……何だ何だ。何があった」
『僕は今車を運転してるんですけど……。なぜか静岡県に居るんですよ……』
「はっ? 静岡? 何しに」
『それが分からないんですよ……。しかもそこらで追突事故が起きてて動かないし……。うわっ。後部座席に血が付いてる。なんでだろ』
混乱に苛まれる中、テレビの画面が切り替わり再びニュースのスタジオを映し出す。
『臨時ニュースをお伝えします。
現在、世界各地の病院に気を失って倒れたと多くの方が搬送されています。政府は原因の究明を急いでおりますが、搬送された方から薬物の検出は見られず――』
「どうなってるんだ……」
この時、地球上にいる全ての生命の記憶が、
そして世界を恐怖に陥れた事実が、何らかの力で改竄されていた。
後にそれは太陽風の影響だとか、人類の脳に共通して仕組まれたバグだとか、様々な議論がなされる事になる。
しかし、結局は何事も無かったかのように、地球は宇宙を廻り続ける。
幾億もの人口を持つ地球上で、たった十数人の存在が消えようが、それは些細な事だった――。
***
落ちる。
暗闇の中、僕は落ちている。
その先が下なのか、それとも上なのか。
あるいは真横なのか。
それは些細な問題だ。
僕は何処かへと落ちていた。
それまでは沼に沈むように、ゆっくりと落ちていたのだが。
やがて、肌に温かい風を感じるようになった。どこかに繋がっているのだ。
それからは、一瞬だ。僕は風に揺り起こされ、ゆっくりと自身の目を開く。
「え……?」
僕は空にいた。地平線は、燃えていた。
空には星の一つも無い。満天の闇が広がっている。
それで悟った。ここが地獄である事を。
脳裏に蘇る、殺戮の光景。吐き気を催す程の、血生臭さ――。
納得がいった。どうやって死んだのかは覚えていないが、あれだけの事をすれば、地獄に落とされるのは当然のことである。
逆に関心すらあった。地獄が実在するとは思ってもみなかったからだ。
このまま地面に直撃すれば死ぬ。死後の世界で死んだらどうなるのだろう。少し興味があった。
そう考えているうちにも、地面はとてつもない速度で近づいてくる。
だが生物的な本能は、結局は生きようとしてしまうのだ。
「うわあああああッ!」
完全に脳が覚醒し、状況を認識した僕は叫んでいた。
しかし口を開くと入ってくるのは大量の風だ。すぐに歯を食いしばって、右手で空気を吸い込んだ。
そして僕はあろうことか、白目をむいて気絶した。
スカイダイビングの経験なんて無かったし、目を覚ますと現在進行形で落下していた人間の気持ちを考えれば分かる事だ。
それは、恐怖である。
僕は恐怖のあまり気絶したのだ。
だが、すぐに意識は戻った。身体に強くぶつかる空気が、僕を呼び覚ましたのだ。
「ああああぁぁぁッ!」
そして叫び、恐怖で気絶した。
……人間の適応力とは恐ろしい物で、二度目の気絶から復帰した時、僕の身体は落下に順応していた。
記憶を探り、見よう見まねで体勢を整えると落下速度は大きく変わった。
当然の事ながら、パラシュートは無い。
僕は大量の空気を右手に吸い込み、ある種の賭けに出る。
あと数秒で地面に激突する――そうなった瞬間、僕は地面に向けて大量の空気を噴射した。
いける。そんな確信があった。漫画の読みすぎである。
落下の慣性はあまりにも強大な物だった。
僕の身体は減速すらせず、死に直面した意識は結局深い闇へと落ちていった。
***
そして僕は目を覚ます。どうやら、生きていたようだ。
暖かな木の家で、僕は柔らかい布団の敷かれたベッドで寝かされていた。部屋は暗く、枕元にランプのような物こそあるものの、灯し方が分からない。
「ここは……」
やけに掛け布団が重いと思ったら、布団の脇に頭を乗せて眠る少女がいた。
僕を看病していたのだろうか。だとしたら、感謝してもしきれないのだが、ここは何処だ。
疑問は募るばかりだが、少女は気持ち良さそうに眠っている。僕も疲れが溜まっていたので、夜が明けるまで眠る事にした。
――夢を見た。
ミヤちゃんと、幸せに暮らす夢である。
生意気な子供も出来て、僕に似てゲームが大好きで。
その子供の将来を考えると不安でもあったが、それも含めて幸福な家庭を築く夢。
だけど僕は、外側からその光景を眺めているのだ。
ミヤちゃんが笑顔を向けるのは、僕ではなくて自身が創り出した幻想の自分である。
「やめろ……。ミヤちゃんから離れろ」
僕がそう言うと、その朧げな幻影はこちらを向き、気味の悪い笑みを浮かべて言った。
『何を言ってるんだ。守れなかった癖に』
いつの間にかミヤちゃんの前には騎士団員が居て、銃口を向けていた。
「やめろ! やめてくれ……ッ!」
銃声は容赦なく響き、世界は赤く染まっていく。
「ああああぁぁぁッ!」
僕は飛び起き、泣いていた。
守れなかったのだ。事実が覆る事は無い。
あの時の光景は脳裏に張り付いて離れない。意識が他の事に回っても、すぐに呼び覚まされてしまう。
ふと、右手に何かが触れる感触がある事に気付く。
少女が、柔らかな手で僕の右手を包んでいた。
起こしてしまったようだ。
「君は……?」
僕はそう尋ねるが、彼女は首を傾げるだけである。
髪は灰色で、眼は暗闇でも分かるくらいに綺麗な空色をしていた。
少女は身振り手振りで何かを伝えようとしながら、言葉を発した。
その言葉の意味を、僕は知らなかった。日本語でもなければ、英語でもないのである。
その時になって、一つの疑念が生まれる。
ここは地獄なんかではなくて、何処か知らない国なのだろうか、と。
山奥のログハウス風な内装の家だったが、電気を使って動く物は一切見当たらない。
窓もガラスではなく木で出来ている。閉めているから部屋が真っ暗なのだ。
少女はランプに手をかざした。すると、部屋いっぱいに明かりが灯る。
手をかざしていた場所を見ると、何かしらの文字が書いていた。スイッチのように二つ並んでいる。
しかしやはり電気を供給するコードは見当たらない。
電池式という可能性もあったが、それよりも強い予感が僕の手を動かした。
少女が触れた方とは違うスイッチに手をかざし、魔力を流す。
すると彼女は「あっ」と言って、それと同時にランプの灯りは消えた。
もう片方の方にかざして魔力を流すと、ランプは灯る。
「まさか……」
「マサ?」
「魔界か……」
僕の呟きを聞いた彼女は、はっとして僕の手をぶんぶん振る。
正しい、という事なのだろうか。
だとするならば、それこそ衝撃の事実である。
――僕は、魔界に転移したのだ。
第二章 - 僕達が生きる世界
終




