第五章
新学期が始まって一ヶ月が経ち、入学当初の不安感も一年生たちの心からすっかり消え去っていた。それに伴い、部活動の勧誘や参加も大詰めを迎えていたが、そんな中、僕が中間テストで見事にやらかした大爆死の点数が、どういうわけかクラスの連中と和解するまさかのキッカケとなった。
僕が一般入試の点数を「完全に勘だけで叩き出した」という事実が発覚した途端、当然のごとく、クラスの成績底辺組の男子たちから熱い友情を勝ち取ることになったのだ。
彼らの言葉を借りるなら、「俺たちは同じ泥船に乗った一蓮托生のダチ(難兄難弟)だ。細かいことは気にするな!」ということらしい。
……いや、そのセリフ、慰めにしては色々と引っかかるものがあるのは僕の気のせいだろうか。
しかし驚いたのは、さすがは超エリート進学校と言うべきか、クラスで最も成績の悪い奴でさえ、きっちり六十五分(点)をキープしていたことだ。しかも見たところ、僕みたいに勘で当てたわけじゃない。この、クラス全体の平均値が合格ラインを遥かに凌駕している圧倒的な実力差に、手札の運気が尽きかけている僕は凄まじいプレッシャーを感じていた……。
まあ、その「一蓮托生のダチ」たちの手厚いケア(?)のおかげで、僕の本当の実力もようやく三十点のスタートラインから走り出すことができたのだけど……。
ここに至るまでの話は、本当に血と涙なしには語れない。
中間テストが終わって二週間もすると、高校生活の定番イベントである「学園祭」の季節がやってきた。ここ高山高校の学園祭といえば、地域の一大フェスティバルとしても有名で、子供の頃に親父とオカンに連れられて遊びに来たことがある。その楽しさは、そこらの縁日や祭りの比ではなかった。
……何しろ、敷地面積がちょっとした遊園地並みにある学校だ。そこで面白い企画の一つも打ち出せないようじゃ、名門の名が泣くというものだ。入学以来、数々の理不尽を経験してきた僕としては、この学校の生徒や教師たちのクリエイティビティ(悪ノリ)の高さに、一切の疑いを持っていなかった。
例えば、よくある「喫茶店」の出し物。君は、ただ席に座って、安物の茶葉で淹れたお茶と生徒手作りのクッキーでも食べながら、女子生徒がメイド服姿で「おかえりなさいませ、ご主人様♡」なんて言ってくれる、そんな生ぬるい空間を想像していないだろうか?
大間違いだ! あそこの連中は、来店した客を「茶菓子」に見立てて、文字通り「デコレーション(調理)」しやがるのだ。しかも退店時には写真を撮られ、学園祭終了後に「パティシエ(調理担当者)」たちの評価基準にされる。その審査基準には、ご丁寧に「色・香・味」まで含まれているらしい。
否定はしない。シロップと生クリームを顔にベタベタと塗られている最中、お世辞にも居心地が良いとは言えなかった。もしそんな状況で「あぁ、最高に気持ちいい……」なんてウットリできる奴がいるなら、そいつの性癖は僕の理解の範疇を超えている。
だが、このシステム、バカップル(恋人たち)にとっては最高のご馳走だったらしく、男性客からは大絶賛の嵐だった。
だって考えてもみろよ。彼女の顔についたクリームを拭ってあげるという大義名分のもとで、ヘッヘッヘ……(ペロリ)。
一方、女性客側からも特に嫌がられていなかった理由は、そのデコレーションの原材料がすべて「肌に良い美容成分」でできていたからだ。
要するに、ただの泥パック(美肌エステ)感覚だ。映画『食神』に出てくる「心」の文字がゼラチンと過酸化水素で作られていたのと同じで、見た目が良ければ全て良し、ということなんだろう。
お化け屋敷にいたっては、さらに狂っていた。入ってきた客が「お化け」に扮して、店番をしている生徒を驚かせなければならないという逆転ルール。驚かせることに成功するまで、絶対に部屋から出してもらえない……。しかも料金は恐怖のタイムレンタル(時間定額)制。だが、これが逆にゲーム感覚でめちゃくちゃ面白く、商売としては大繁盛していた。
しかし、やはり学園祭の華といえば、吹奏楽部、演劇部、ダンス部、そしてチアリーダー部の四大部活が、大講堂で行う伝統のステージパフォーマンスだ。
チケットが最も高く、収容人数が最も多く、公演時間が最も短く、そしてエンタメ度が最も高い。人呼んで、「集金四天王部」。
……普通、どんなに頭のネジが飛んでいても、そんな不名誉極まりない二つ名を外部向けの宣伝チラシに大々的に載せたりはしない。だが、この学校の人間、物品、行事にいたるまですべてにおいて「常識」という物差しは通用しないのだ。彼らはやってのけた。それも、チラシの一番目立つ特大スペースを使って。
万年「帰宅部」の僕に与えられた役目は、当然のごとく、余りもののパシリ(雑用係)だった。誰かに何かを印刷してこいと言われれば印刷室へ走り、着ぐるみを着て外をうろつけと言われれば愛想を振りまき、草むらを手渡されて「お前は偽物の木(背景)になれ」と言われれば大人しく木になった。
……最後の方に、何かおかしな業務が混ざっていたような気がする。
そうして、なぜか背景の「木」に擬態させられ、アホみたいに校庭に立ち尽くしていた、その時だった。
二階の音楽室から、優しく、どこか哀愁を帯びたピアノの旋律が流れてきた。
(嘘だろ……神か! これ、『Angel Beats!』のOPテーマ(My Soul, Your Beats!)じゃん!)
アニメソングの中には、時として神の領域に達した名曲が存在する。僕もよく、「自分に超一流のピアノの才能があれば、耳にした曲を即座に完璧に演奏してのけるのに」なんて妄想を拗らせていたものだが、まさか本物の天才がこんな身近にいるとは。これは何が何でも拝み倒して、指導を請うしかない!
僕はすぐさま手足にまとっていた草むらを投げ捨てた。不運なことに、校庭の植え込みから二階の第二音楽室までは直線ルートが存在しなかったため、僕が全力疾走で廊下を駆け抜けて音楽室の前へたどり着いた時には、すでに演奏は終わってしまっていた。
「はぁ……はぁ……。くそっ、間に合わなかったか……」
ひどく落胆しながら、僕はドアの前に立ち尽くした。音楽室の扉は防音仕様の不透明なものだったため、中に誰がいるのかは窺い知れない。三十秒ほどそうして佇んでいたが、自分が酷くマ抜けに思えてきて、顔に塗られた偽装迷彩(木のメイク)を洗面台で洗い流そうと踵を返した――その瞬間、再びピアノの音が溢れ出てきた。
(今度は……『CLANNAD』のOP(時を刻む唄)か……!)
僕は音を立てないよう、細心の注意を払って音楽室のドアを数センチだけ開けた。先ほどまで特殊防音材に遮られていた至高の旋律が、開かれた隙間から本来の圧倒的なボリュームで僕の鼓膜へと押し寄せる。しかし、僕の意識はすでに音楽から別のところへ完全に奪われていた。
ピアノの前に座り、滑らかで繊細な指先を、まるで踊る妖精のように鍵盤の上で弾ませているその背中に、僕はただただ開いた口が塞がらなくなっていた。
(せ、先輩!?)
先輩が弾いていたのはボーカル版ではなく、おそらくピアノソロ用に自身でアレンジしたものだった。その表情は真剣そのもので、驚くべきことに、譜面台の上には楽譜の一枚すら置かれてい白だった。
(凄すぎる……)
これは、かつてネット動画で見かけた、バイオリンで『空の軌跡』の「銀の意志」を神がかったテクニックで演奏していたあの変態演奏者に勝るとも劣らない衝撃だ。
ただ……。
(今回は、あの翼が出ていないな……?)
もし、この神聖な演奏シーンにあのアスペクト比の美しい翼が加わっていたなら、きっと見る者すべての息を止めるほどの、絶景の芸術になっていたに違いない。
やがて曲が終わり、先輩は小さく息を吐き出して、そっと目を開けた。
「おはようございます、先輩」
「おはよう、後輩くん」
僕たちの視線が交差する。そして、二人の間には――何とも言えない気まずい空気が漂った。
「先輩も、アニソンがお好きなんですか?」
「『も』って……まさか、後輩くん、あなた……」
「はい! 三度の飯より大好きです! 僕に言わせれば、そこらのJ-POPなんてどれもこれも中身のないただの愚痴ですよ。アニソンこそが……アニソンだけが、人間の魂を次のステージへ昇華させてくれる至高の救いなんです!!!」
「……後輩くん、それはちょっと言い過ぎよ。発言には気をつけなさい、不適切な言葉はネット炎上の種なんだから」
「ははっ!」
僕たちは顔を見合わせて、同時に吹き出した。これは、ネットの掲示板で全く同じ趣味を持つソウルメイトに出会った時のような、特有のシンパシーだった。
「それにしても先輩、本当に凄いです。楽譜もないのに初見で弾きこなすなんて」
「楽譜がないのは当然よ。だってこの曲、私が自分の耳で、一個一個の音階を泥臭く探り当ててコピーしたものだもの」
嘘だろ……。楽譜なしで、耳コピだけで一曲丸ごと完璧に再現したっていうのか!?
それはもう「凄い」という次元を超えている。天才、あるいは怪物と呼ぶほかない。
僕は心の底から感服し、感嘆の声を漏らした。
「へぇ〜っ! じゃあ先輩は、あの……例の『集金四天王部』のどこかに所属してるんですか?」
これほどのピアノの腕前だ。四大部活のどこに行っても、喉から手が出るほど欲しい人材のはず。
「ぷっ! まさか後輩くん、あのふざけた二つ名を真に受けてたの?」
「だ、だって仕方ないじゃないですか! チラシにそう書いてあったんですよ! しかも、あれを作ったのって彼ら自身でしょ!」
「ふふっ……四大部活、ね。それは、かつての私の夢だったわ……。でも、今はもう……」
先輩のトーンが、急にぽつりと低くなった。
その言葉を聞いた瞬間、僕の目から、顔から、身体から、果ては足の裏にいたるまで、全身の細胞が「あり得ない」という拒絶反応を示した。
これほどの神クオリティを持つ演奏者が、あの四大部活の門前払いを食らったというのか!?
「ふふ、別に大した理由じゃないのよ。彼らから言わせれば……私の演奏は『厳密さに欠ける』んだって」
楽譜という正解を持たず、自分の聴覚だけを頼りに手探りで構築した曲。僕たちのような素人が聴けば「神域の演奏」に聴こえるが、クラシックのプロや専門家から見れば、それは全く別の評価になるのだろう。
テンポがズレている、強弱が違う、ピッチが甘い。要するに、音楽の教科書的には粗だらけなのだ。しかし――。
どこから湧き上がってきたのか分からない衝動に突き動かされ、僕は激昂したように先輩の両肩をガシッと掴んで叫んでいた。
「間違っているのは、あいつらの方です!」
「音楽っていうのは、人間が肉体の限界(不自由)から解放されるために生み出したものじゃないんですか!? 既存の楽理に縛られ、他人の評価に縛られ、最後には金儲けにまで縛られる。そんなガチガチに囚われたものが、本当に音楽と呼べるんですか!?」
突然男に肩を掴まれたというのに、先輩は少し呆気に取られただけで、すぐにいつもの温和な笑みを取り戻した。それどころか、僕の青臭い大演説を聞いているうちに、その笑みはどんどん大きくなっていった。
「……あなたの言いたいことは、全部解っているわ。だからこそ、私は今ここにいるのよ」
先輩が身をよじるようにして、小さく抵抗した。その力は決して強くはなかったが、熱くなっていた僕の頭を冷やすには十分すぎる衝撃だった。
オタク特有の過呼吸(狂信モード)からハッと正気に戻った僕は、慌ててその両手を離した。
「あ……あの、先輩、僕、その、決して変な意味じゃなくて……!」
「不快にさせてしまって、本当に、申し訳ありませんでしたっ!!!」
こういう絶体絶命のピンチの時こそ、男らしく――。
僕はその場で、見事な直角の「土下座」をぶちかました!
「ちょっと、早く立ち上がりなさいよ! 誰かに見られたら、私があなたに何か酷いこと(カツアゲ)でもしたみたいに見えるじゃない……っ」
僕が床に額を擦り付けたのを見て、先輩は完全にキャパオーバーを起こし、 助けるべきかスルーすべきか、大慌てでオロオロとし始めた。
「本当に、ありがとうございました!」
僕が勢いよく立ち上がり、今度は直角九十度の美しい敬礼を捧げる。
「ふふっ……どういたしまして。別に怒ってなんかいないわよ。むしろ、そこまで言ってくれて嬉しかったくらい」
気がつけば、先輩の柔らかい手が、また僕の頭の上に乗っていた。なでなで、と。
「……自分のことを理解してくれる人がいるって、こんなに嬉しいのね。そんな風に思えたの、本当に久しぶりだわ」
九十度のお辞儀をキープしたまま、僕は視線だけを少し上に向けた。視界の先には、どこまでも優しく、柔らかく微笑む先輩の顔があった。
その瞬間、僕の心の中で、ある一つの絶対的な真実が確定した。
あぁ……僕はこれから一生、この人の前では頭が上がらない(逆らえない)んだろうな……。
そこには一ミリの不満も、悔しさもなかった。ただ、胸の奥を満たしていくのは、じんわりとした、心地よい安心感。自分という存在が受け入れられたという、世界で一番温かい、僕の居場所を見つけたような、そんな安心感だった。




