第四章
新学期が始まって最初の土曜日、その午後。
今日は半日授業(土曜補習)だし、悪魔の定期テストまでもまだかなり時間がある。そのため、昼を過ぎると大量の生徒たちが学校から一斉に溢れ出し、そのまま高山市の商店街へと流れ込んでいった。
「半日授業、か……」
僕が通う小中高一貫校は、あまり人道主義とは言えないゴリゴリの進学校だったから、小学校三年生以降は「半日授業」なんて生ぬるいものは存在しなかった。まさか、この進学名門高校で再び半日授業のあの解放感を味わうことになるとは思わなかった。
思えば小学生の頃、半日授業の日はいつも異常にテンションが上がって、放課後はどこで遊ぼうかと頭の中がそればかりだったっけ。
まあ、今の僕には関係のない話だけど。
下校時刻の間際、クラスの男子数人が「校門のところで僕を待ち伏せする」だの「路地に引っ張り込んでボコる」だのと不穏な計画を立てているのが聞こえてしまった。ここはひとまず、屋上にでも避難させてもらうとしよう……。
鼻歌で大好きなアニソンをフンフンと口ずさみながら、僕はまるでこれから釣り場へと向かう太公望のような足取りで、のんびりと屋上へ歩を進めた。
表面が少し錆びついたドアを開ける。
すると、目に飛び込んできたのは――美しく整えられた芝生、花壇、そして噴水だった。
「…………………」
待て。僕の目的地は屋上だったよな?
この、中庭かどこかと見紛うばかりの優雅な景色は一体何なんだ!?
学校の屋上っていうのは、もっと無機質なコンクリートと、緑色のネットフェンスで囲まれているのが相場じゃないのか!?
場所を間違えたと思った僕は、ゆっくりと階段の踊り場まで後退し、一度ドアを閉めた。それから階下に戻って案内図を確認する。
そして、再び百メートル走並みの猛ダッシュで最上階へ駆け上がり、ドアを力任せに引き開けた。
「マジかよ……」
僕は目をこすり、それから自分の頬を思いっきりつねってみた。
「いった!」
痛い。現実だ。本当に現実らしい。
だけど、一体全体どういう必要性があって屋上を中世の庭園みたいに改造しちゃったわけ……?
……いや、考えるのはやめよう。これ以上深く追求したら、ツッコミを入れないと死んでしまう不治の病を発症しそうだ。
「へえ、ここ、なかなかいい場所じゃん」
春の太陽は、夏のそれのように肌を刺すような暑さはない。僕は日陰にあるベンチを見つけ、そこにゴロンと寝転がった。
「……たまには、こういうのも悪くないな」
自分の腕を枕にしながら、ぼんやりと思う。
心地よい微風が頬を撫で、前髪を揺らす。すぐ隣には百花繚乱の美しい花壇があり、色とりどりの蝶が舞い踊っている。最上階という立地のおかげで、運動部や吹奏楽部が放つ喧騒もかなり和らいで聞こえた。
端的に言って、ここは昼寝をするための最高にして最強の聖地だった。
どれくらい眠っていただろうか。
突然、一陣の強風が吹き荒れ、僕はパチッと目を覚ました。
屋上庭園の中心にある噴水の傍らに、あの銀髪の少女が立っていた。
彼女は静かに目を閉じ、胸の前で両手を固く握りしめ、何かを低声で呟いているようだった。そして、突然彼女が大きく叫んだ。
「『祝福の雨』!」
その宣言とともに、少女の背中にある翼が大きく広がった。今回は距離も十分に近く、誰の邪魔も入らない。僕はついに、その現実とも幻ともつかない美しい翼を、しっかりと視界に収めることができた。
目測での翼開長はおよそ二メートル。つまり片翼百センチ。本当に、デカい。
しかし、次に起こった光景に、僕は開いた口が塞がらなくなり、声の一片すら出せなくなった。
少女の身体から一筋の黄金の光柱が立ち上り、天を衝いた。そして彼女を中心として、屋上庭園の全体に黄金色の光の雨が降り注いだのだ。僕を含め、庭園内にいるすべての生き物――動物も植物も――が、さっきよりも明らかに元気をみなぎらせていくのを感じた。
な……これ、いくらなんでもファンタジーが過ぎるだろ。天使がいるだけでもお腹いっぱいなのに、今度は魔法かよ!?
世界の変化スピードが早すぎて、僕完全に置いていかれてる!?
魔法少女こそがジャスティスってこと!?
違う違う違う……! こんな非科学的なイベントが僕の身に起こるはずがない。僕の席は、窓際の後ろから二番目じゃないんだぞ!
「あら、野島くん? どうしたの?」
いつも通りの優しく儚げな声が、崩壊しかけていた僕の世界観をすんでのところで救い出してくれた。
いや、違う違う違う! この声の主こそが、僕の世界観を木端微塵に粉砕した元凶じゃないかあああああ!!!
「先輩、さっきの、あれ……魔法、ですか?」
僕は、今や空気中に微かに漂うだけの金色の光の粒を指差しながら尋ねた。
「……違うわよ。あれは神術」
先輩は何事もなかったかのように、さらりと髪をかき上げて言った。
おいおいおいおいおい!!!
僕の十六年間の、純朴で地味だった世界観を返してくれえええええ!!!
神術と魔法のどこが違うんだよ!?
これでも僕は年季の入ったガチのアニオタなんだぞ。精神力をベースにするシステムなんて、本質的には同じ穴の狢だろ!
「……なんてね。この翼の特殊機能みたいなものよ。私もただ使えるだけで、原理なんてさっぱり説明できないし」
「……それって、僕たちがパソコンを使うのと同じような感覚、と理解していいんですかね?」
「さすが新入生代表! やっぱり察しがいいわね!」
先輩は僕が意図を理解したのが嬉しかったのか、すこぶるご機嫌な様子だった。――って、ちょっと待って、その右手を高く掲げた「よしよし」の予備動作は何だ……。
嘘だろ、おい! 本当に撫でてきやがった!
なでなで……なでなで……。
本当に不思議だ。相手が天使だからだろうか。
本来の僕は、こういう人を馬鹿にしたり子供扱いしたりするような挙動が、大嫌いなはずだった。先輩の手が僕の頭に触れた瞬間、僕はその手をはねのけるか、あるいは飛び起きて激怒するだろうと思っていた。
それなのに。まるで本物のガキみたいに、すっかり大人しく手懐けられてしまっている……。
草花が風に揺れるザワザワという音と、僕の髪が優しく弄られるカサカサという音が一体になっていく。新学期が始まって以来、クラスメイトたちから煙たがられていることへの焦燥感が、この一瞬で綺麗さっぱり消え去っていった。
「よし! やっと野島くんの笑顔が見られたわね。高校生はやっぱりこうでなくっちゃ。一日中暗い顔をしてたら、せっかくの高校生活がもったいないぞ!」
天使の笑顔は、本当に眩しすぎて、不覚にも涙がこぼれそうになった。
「くそっ……逆光が眩しすぎる……」
僕は情けない言い訳を口にしながら、袖でこっそり、溢れ出てしまった涙を拭った。
「……先輩、ありがとうございます」
「うん、どういたしまして! 悩み事があったら、いつでもお姉さんに相談しなさい!」
少しドヤ顔で胸を張って太鼓判を押す先輩を見て、僕は思わずまた吹き出して笑ってしまった。
「あ! 大変、バイトの時間に遅れちゃう! そういうわけだから、私もう行くね! バイバイ!」
再び猛烈な突風が吹き荒れ、気がつけば先輩はもう空の彼方で小さな黒い点になっていた。
……ちくしょう! 今日の先輩、スカートだったのに!!
だけど、あの飛んでいった方向、商店街とは真逆だな。先輩、一体どんなバイトをしてるんだろう……。
抑えきれない好奇心が、僕の心を激しく突き動かした。校門を出たとき、幸いにも待ち伏せの連中はいなかった。きっと僕が寝すぎて、待ちくたびれて帰ったのだろう。ラッキー!
……って、いや、僕は一体何をやっているんだ。これって冷静に考えなくても、立派な覗き(ストーカー)行為だろ。何をテンション上げてんだ僕は……。
先輩が消えた方向へと歩を進める。周囲の景色は、高層ビルが立ち並ぶ現代的な都市から、徐々に平屋や古い家屋が目立つ風景へと移り変わっていった。
ここは高山市の「旧市街」と呼ばれるエリアだ。都市開発が進む中で、まるで世界から置き去りにされたかのような一角。住民たちは今も静かな生活を営んでいる。本来なら政府から新築のマンションが割り当てられるはずだったのだが、やはり何十年も住み慣れた家への愛着は断ち難く、多くの住民がこの地に留まることを選んだらしい。高級マンションの部屋は、大抵の場合、若い世代に譲って住まわせているのだ。
ただ、旧市街とはいえ生活インフラは一通り揃っている。隣接する近代都市のおかげで、生活に不便を感じることはない。むしろ、路地裏に隠れた名店などが多く、都会の人間がノスタルジーを求めてよく散策にやってくる場所でもあった。
地元通を自負する僕も、かつて似たような「隠れ家探し」の依頼を受けて、結構な額の小遣い稼ぎをしたことがある。
とはいえ、時代の大きな荒波には抗えない。伝統的なものは少しずつ姿を消しつつあり、僕自身も最近はこの界隈でうろつくことはなくなっていた。
と、そこで突然ある事実に気がついた。
旧市街とはいっても、その範囲はそれなりに広い。常住人口三万人のエリアが、狭いわけがないのだ。
決定的な問題として、これじゃあ先輩を見つけられるわけがない!!!
迷子になる心配はないけれど……目的を果たせないのはちょっと悔しい。気づけばこの界隈をかれこれ三時間近く彷徨っていた。
諦めて……帰ろう。夕暮れの中、寂しげに歩く僕の影が、一層の悲哀を漂わせる。
僕ががっくりと肩を落として、とある幼稚園の前を通りかかった、その時だった。
いかにも「オバチャン」といった風貌の中年女性が、干していた布団を回収しながら、奥に向かって声をかけていた。
「楓ちゃ〜ん、こっちは終わったから、次は窓拭きをお願いね」
オバチャン特有の、少ししゃがれた、だけど温かみのある声が響く。
楓? まさか、そんな偶然があるわけ――。
そう思いつつも、僕は我慢できずに園の門からソッと中を覗き込んだ。
――いた。ビンゴだ。
そこには、完璧な「家事スタイル」に身を包んだ先輩の姿があった。髪が汚れたり落ちたりするのを防ぐための白いバンダナを頭に巻き、白いエプロンを身につけ、手には洗濯物のバスケットを抱えている。
あぁ……こんな家庭的な先輩の姿、学校の連中は誰も見たことがないだろうな。
撮るしかねえ、これは撮るしかねえ……!
パシャッ!
「誰!?」
嘘だろ、あのオバチャンの聴覚、バグってんのか!?
スマホのシャッター音なんて微々たるものだし、自分だって掃除でバタバタ動いていたはずなのに、聞こえるなんて信じられない……!
ヤバい、三十六計逃げるに如かずだ! とダッシュを決め込もうとした瞬間、目の前には自分の二倍の横幅を持つ巨大な影が立ちはだかっていた。僕は完全に「詰み」の速度で回り込まれていたのだ。
僕はガチガチに硬直した首をゆっくりと回し、引きつった笑みを浮かべた。
「こ、こんにちは……オバチャン……」
ボカッ、バキッ、ドカッ、メキメキッ。
こうして新鮮な人間生春巻き(豚頭バージョン)が、熱々と調理されているまさにその最中、救いの主たる優しく儚げな声が響いた。
「あれ? 野島くん? どうしてここにいるの? っていうか、なんで園長先生にそんなボコボコにされて……」
この状態の僕を見て僕だと認識できるなんて、先輩、マジで脱帽です。
園長オバチャンは先輩の言葉を聞くと、僕の襟首を万力のように掴んで持ち上げていた手をようやく離し、パンパンと両手を叩いて埃を払った。
「何だい? 知り合いなのかい?」
「はい。この春に入学してきた、うちの学校の後輩です」
「早く言いなさいよ。この子がアンタの写真を盗撮してたから、てっきりストーカーか変質者の類かと思ったじゃない。ごめんねぇ坊や、ついつい手加減を忘れちゃってさ……」
園長オバチャンは申し訳なさそうに謝りながら、僕の顔に冷や汗ものの勢いで軟膏を塗りたくってくれた。
「ら、らいじょうぶ(大丈夫)でふ……ふぅ……」
手加減を忘れたってレベルじゃない。アンタさっき、僕を確実に仕留めにかかってただろ、オバチャン!
断言する。今の僕の顔、このまま家に帰ってもオカンに不審者扱いされて塩を撒かれるレベルで腫れ上がっている。
学校でイジメに遭わなかったと思ったら、まさか幼稚園で豚頭にされるとは!
「あ、野島くん、これ君のスマホよね。って、えええええええええ!?」
スマホをそのまま僕に返そうとした先輩だったが、画面に残っていた画像を目にした瞬間、顔を真っ赤に染め上げた。
「どうしたんだい?」
園長オバチャンも好奇心から首を突っ込んで覗き込んできた。「おや、良い写真じゃないの、坊や」
画面に映っていたのは、両手で洗濯カゴを抱え、隣の園児たちと楽しそうに笑い合っている先輩の姿だった。ちょうど陽の光が差し込む場所に立っていたため、夕日色に照らされた彼女の放つ「母性的な輝き」が、いっそう眩しく、美しく捉えられていた。
「ただ、すごく綺麗だなって思ったから、そ、それでシャッターを押しただけで……」
僕はきまり悪そうに後頭部を掻いた。実は僕も写真を撮るなんて初めてだったのだけど、まさかこんな奇跡の一枚が撮れるとは。やはり名作というものは、往々にしてアクシデントから生まれるものらしい。
「こ、こんなもの、消去します!」
先輩はぷんぷんと怒りながら、僕のスマホを操作してその歴史的傑作を削除しようとした。傍らのオバチャンも少し残念そうな顔をしたが、先輩の行動を止めはしなかった。
当事者と護衛の意見が一致している以上、豚頭の僕に拒否権などあるはずもない。僕はただ頭を垂れて、判決を待つしかなかった。
しかし、スマホのボタンを操作するピピッという音が、十分以上も鳴り響き続けている。……まさか、スマホのデータを全消去しようとしてるんじゃないだろうか。
「もうっ! これ、どうやって消すのよ!」
しばらく格闘していた先輩は、いよいよ苛立ちを募らせた表情でオバチャンを振り返った。しかしオバチャンもまた、両手を広げて首を振るばかり。中年を過ぎた彼女に、最新の精密機械の操作が分かるはずもなかった。
嘘だろ……先輩、まさかのメカ音痴か?
僕のスマホの型番は決して新しいものではない。基本的には、写真を削除するのに必要なステップは三回以下だ。
「あの……僕がやってみてもいいですか?」
僕は悪いことをした子供のように、おずおずと手を挙げて提案した。
万策尽きた先輩は、仕方なくスマホを僕に返してきた。そして、強い警告の眼差しを向けて言った。
「いい、もし消してないで勝手に残してたら、絶交だからね! 絶・交! 分かった?」
「も、もちろんですよ! 綺麗さっぱり消してみせます!」
僕は神速の指さばきでスマホを操作した。まず写真をクラウドにアップロードし、さらに添付ファイルとして自分のウェブメールに送信。その上で、完璧かつ合法的に、スマホ内の写真を綺麗さっぱりデリートした!
そしてスマホを先輩に差し出す。
「先輩、見てください。写真フォルダの中は一件もありません」
僕がわざわざ表示させた写真枚数のステータス「(0000/3500)」を確認すると。
先輩は満足そうに微笑み、そして、また僕の頭をなでなでした。
「よろしい。今日見たことは絶対に他言無用よ。もし破ったら、園長先生に今日と同じことをしてもらうからね!」
またアレかよ!?
「ち、命に代えて誓います! 先輩がここでバイトしてることは絶対に誰にも言いません! もし破ったら、一生彼女ができない呪いにかかっても構いません!」
「ふふっ、大げさな奴ね。ほら、もうすぐ暗くなるから早く帰りなさい」
「あ……先輩は?」
「私はまだ、子供たちが全員お迎えに来るまで残ってなきゃいけないの」
「それじゃあ、結構遅くなっちゃうんじゃ……」
夜道を歩くのは危ないですよ、と言いかけたが、相手は天使だった。ストーカーや不審者が夜道で絡んできたところで、空を飛べる彼女に太刀打ちできる奴なんてこの世にいるはずがない。
自分のアドバンテージを熟知しているのだろう、先輩は僕の的外れな心配を、ただクスリと笑って見つめていた。
「じゃあ……僕、先に帰ります。先輩、さようなら」
「バイバイ〜」
少し歩いてから振り返ると、先輩はまだ幼稚園の門のところに立ち、僕に向かって手を振っていた。月光に照らされる銀髪は、本当に、恐ろしいほどに綺麗だった。
帰りは大人しくバスを使った。家に着く頃には、顔の痛みはかなり引いていた。あのオバチャン、やはりこの手の「調理」に年季が入っているだけあって、軟膏の効き目は抜群だったらしい。
鏡を見ると、目の周りの青あざと口元の擦り傷くらいで、全体の腫れはほとんど引いていた。
これなら上出来だ。でなければ、こんな夜遅くに我が家のオカンから「化け物」扱いされて塩を撒かれ、僕の傷つきやすいガラスのハートに致命的なトドメを刺されるところだった。
家に入ると、どうやら両親は留守のようだった。テーブルの上に一枚の置き手紙があった。それを見た瞬間、僕は一気に頭に血が上り、酸素の供給が追いつかなくなって――その場に崩れ落ちた。
『息子よ。肉体は尊く、精神の価値はさらに高し。されど愛しのあの子(彼女)のためならば、両方ともドブに捨てるべし! パパもママも応援してるぞ☆ はぁと』




