第三章
この街には、地方のドサ回りみたいな弱小新聞社がある。名を『天使日報』という。
この新聞を目にした者のほぼ全員が、次の瞬間には燃えるゴミのゴミ箱へと投げ捨てる。
語彙力は皆無、筆致にはミリの情熱も感じられない。副刊もなければ娯楽欄もなく、唯一まともな実用性があるのはスーパーの特売情報くらいだが、そんなものは地域の回覧板を通じて毎日どこの家にも配られている。
元々の名前は『高山新聞』だった。それが一年前、唐突に『天使日報』へと改名されたのだ。名前は変わったものの、中身は据え置き。それなのに購読料だけはちゃっかり十倍以上に跳ね上がった。
さらに不気味なのは、改名後、この街における発行部数で堂々のトップに君臨し、その座を一年にわたって鉄壁の如く守り続けていることだ。
当然、僕には関係のない話だ。我が家には新聞を読む習慣がないし、当然定期購読もしていない。
そう、昨日の夜までは。
接待から帰ってきた親父が、珍しく泥酔もせず、やけに神妙な面持ちで僕とオカンをリビングに引っ張っていって言ったのだ。
「なあ、知ってるか? この街には天使がいるんだぞ!」
言うまでもなく、親父は僕とオカンからの憐れみの視線を、時差ゼロで同時に浴びることになった。
「本当なんだって!『天使日報』を購読してる奴らの話だと、契約すれば毎朝天使が見られるらしいんだ。どうだ? 試しに一年くらい購読してみないか?」
親父も自分で言っていて胡散臭いと思ったのか、いつもの威厳はどこへやら、随分と下手に出た相談口調だった。
ちなみに『天使屎日報』とは、天使日報を読んだ後に燃えるゴミ箱へ叩き込んだ人々が名付けた蔑称だ。今やそれがこの新聞の通称になっている。
「あなた、いい歳してそんな都市伝説を信じるなんて、本当に呆れたわ……」
オカンは額を押さえてため息をついた。
「そうだよ、そうだよ。うちはずっと黒字家計だけど、そんな無駄遣いはしちゃダメだって」
こと『天使屎日報』に関しては、僕とオカンは完全に共同戦線を張っていた。この新聞、つまらないだけでなく、異常に薄いのだ!
……手で持っても、そこに存在していることすら感じられないくらいに。
二票対一票。家族会議の結果は火を見るより明らかだった。僕とオカン側の圧勝。親父の顔は少しバツが悪そうに歪んだ。
僕とオカンが目配せをしてこの珍しい勝利を祝おうとした、その時だ。
少しの間沈黙していた親父が、ガバッと大きな手を振りかざして言い放った。
「知るか! お前たちが反対しようが、俺はこの一年定期購読を申し込むぞ!」
僕たちは忘れていた。常任理事国には「一票の拒否権」があるということを……。
かくして、悲劇の引き金を引かれた僕は、毎朝四、五時という早朝に温かいベッドから這い出し、凍える手を擦り合わせながら、伝説の『天使屎日報』を待つという哀れな役目を仰せつかったのだった。
……現在時刻、午前五時三十六分。天気は晴れ。気温は摂氏十一度。無風。僕は生まれて初めて、この街の日の出というやつを鑑賞した。
だけど、あのクソ『天使屎日報』は一体いつになったら来るんだよおおおおお!!!
内心のイライラがヒステリー寸前にまで達したその時、見覚えのある物体が空からひらひらと舞い降りてきた。
「ん?」
(羽……毛?)
これって……まさか!?
朝日に照らされながら、地上へと舞い降りる一人の天使。背中にある天使の翼が静かに羽ばたき、地上の砂埃を巻き上げて僕たち凡人の視界を遮る。そして気がつけば、光の残滓をまとった銀髪の少女が、僕の目の前にちょこんと佇んでいた。
「おはようございます。こちら、配達の新聞です」
優しくて、どこか儚げな声。それはかつて僕が耳にしたものと同じだった。清らかな微笑みは、これが現実だとはとても信じられないほどに美しい。
午前五時四十分。通りには誰もいない。早起きの鳥たちがさえずる中、僕は一人の天使と出会った。
「……あの?」
控えめな声に呼びかけられ、僕は文芸青年モードからハッと我に返った。
「あ、ああ! 届けてくれてありがとう、先輩」
僕は少し慌てながら、その天使の先輩の手から『天使……日報』を受け取った。
「あれ? あなた、うちの学校の生徒さん?」
銀髪の少女は、少し驚いたように僕を見つめた。
やっぱり、覚えてないよね……。
始業式の日の僕なんて、自分でも黒歴史として封印してしまいたいレベルだ。他人に覚えられていないのも当然だろう。
「……なんてね。あなた、始業式に遅刻した新入生でしょ」
銀髪の少女がいたずらっぽく微笑む。その笑顔に、僕の心臓がドクンと大きく跳ね上がった。
あれ? 今、僕の心、ときめいちゃった!?
コホン、コホン……。
「先輩、僕のことを覚えていてくれたんですね」
僕は少しきまり悪そうに、後頭部をポリポリと掻いた。
「後輩くん、自分が有名人になってる自覚、全然ないみたいね」
「え? 僕が? まさか!?」
有名人? そんな異世界ラノベみたいな肩書きが、路頭の石ころみたいに平凡な僕に当てはまるわけがない。
「始業式で新入生代表が欠席したのよ? あの時は大騒ぎだったんだから」
「あ……」
すっかり忘れていた。高校の入試、マークシート形式だったから、たまたま僕の勘が冴え渡っちゃったんだっけ……。
まあ……要するにそういうことだ。どういうわけか新入生の中で成績トップになってしまい、当然のように学校側から「新入生代表」の通知が届いた。正直なところ、今でも新入生代表なんていう生き物がどうやって生息しているのかさえ知らない。
新入生代表の答辞? 何それ、美味しいの?
「それに、幸村先生と蒼月先生が『第一千人目の気絶者、達成!!』って大声で叫んでたし……」
「ぶふっ――!!」
吹き出した。ガチで吹き出した。幸いにも千分の一秒の神速で顔を背けたからよかったものの、危うく彼女の顔面に直撃するところだった……。
……変な想像をした奴は、全員壁に向かって反省しろ!!
ルリちゃんが言っていた「千人目」って、マジだったのか……。
絶望した。この理不尽な世界に、僕は徹底的に絶望した……。
「あ! 大変、まだ配らなきゃいけない家がたくさんあるの。じゃあ、またね。バイバイ!」
再び突風が吹き荒れ、銀髪の少女はすでに大空へと飛び立っていた。ほんのりと淡い紫を帯びた銀髪が、朝日に照らされてきらきらと輝いている。彼女が通り過ぎた道に舞い散る光の羽が、早朝の陽光に柔らかな空気を与えていた。
……惜しむらくは、彼女がスラックスを穿いていたことだ。チッ!
しばらく空を見上げていると、首が少し痛くなってきた。手の中にある、持っていることすら感じられないほど薄い『天使日報』を握りしめ、家に戻って捨てようと振り返った、その時――。
……ドアの陰から、泥棒みたいにコソコソと顔を覗かせている親父とオカンがいた。
僕は呆れて、深いため息を漏らした。
「……二人して、何やってんのさ」
「あんた、本当に天使がいたわねぇ。私、生まれて初めて見たわ。本当に綺麗ねぇ」
オカンは興奮気味に僕の手をブンブンと揺さぶった。
「……うむ。この出費には、それだけの価値があったな」
親父はわざとらしく神妙な面持ちで、顎の無精髭を撫でながら言った。
天使日報は一部につき、なんと千円だ。一年間の購読料は、値引きなしで約四十万円。我が家の家計は本当に大丈夫か(ダイジョウブ)?
最後に、二人は異口同音に僕の肩をポンと叩いて言った。
「お前/あんた、私たちが応援してあげるから、彼女を落としなさい!」
どうやら親父とオカンは、先輩が天使であることを認めると同時に、彼女が一人の普通の女子高生であることも受け入れたらしい。
こんなに理解のある両親を持てて喜ぶべきなのかもしれないけれど……。
「あのさ、父さん、母さん。あんたたちの息子に、あんな人を追いかける資格があると思う……?」
僕は目がキラキラ輝いている両親を、疲れ切った目で見つめた。相手は天使だぞ。生物的にも、精神的にも、果ては社会的階層においても、ゴミ屑のような僕とは住む世界が違いすぎる。
「資格なんて関係ないわよ、うちの息子は新入生代表なんだから!」
これがオカンの発言。
「息子よ、見たところ二人はいい雰囲気じゃないか。このまま一気に結婚式場まで突っ走れ」
これが親父の発言だ。しかも親指をグッと立てて「行け行け」とジェスチャーまで添えてやがる。
理不尽な怒りが込み上げてきて、僕は思わず大声で叫んだ。
「……いい加減にしてくれ!」
「あんたたちの息子は、成績は最下位に落ちる予定だし、体力はモヤシだし、特技もないし、顔は平凡、背も低い! あんな人に釣り合うわけがないだろ!」
僕は自暴自棄になって怒鳴り散らし、それからバタン! と激しくドアを閉めた。
親父はまだ小刻みに震えているドアを見つめ、タバコに火を点けると、ぽつりと言い落とした。
「……息子よ。資格なんてものはな、お前が決めることでも、他人が決めることでもない。相手が決めることなんだよ……。やってみもしないで、相手の心の中にお前への『資格』があるかどうか、どうして分かるんだ」
「あなた……あの子はまだ子供よ、そんなにすぐには理解できないわ」
オカンが親父の腕にそっと手を添え、優しい声で言った。
「……早く気づいてくれるといいんだがな。あの子は根が優秀な分、優しすぎるんだ……。早く一皮剥けないと、将来たくさんの人を傷つけることになる。自分自身も含めてな」
タバコの煙を深く吸い込み、それを白い雲のように吐き出しながら、親父は低い声で言った。
「時にはな、極端な優しさは、極端な残酷さにもなるんだ……」
言い終わるや否や、親父は吸い殻を十数メートル先へと器用にフリックした。年季の入った鮮やかな手並みだ!
――その直後、親父はオカンから純正の拳骨を脳天に食らい、電光石火の早業で耳を三回転半も捻り上げられた。これにはオリンピックの審査員でも、十点満点以下の点数をつけることはできないだろう。
「格好つけて深イイ話風にしてるけど、タバコのポイ捨てをしていい理由にはならないわよねえ? あ・な・た?」
「あだっ!?」
「痛い、千切れる……! 俺の威厳が、ドブに落ちる……!」
「あんたの威厳なんて、十年前に琵琶湖に沈んでるわよ!」
「お、おい、お前……あの話はしない約束だろ……」
一日の計は、朝にあり!
この街の人々は、天使日報を購読することをこう呼んでいる。
――「天使へのお小遣い」、と。
今日もまた、天使日報は時間通りに届けられた。
ねえ、あなたの家でも、一部いかがですか?




