第二章
翌朝、俺は顔面をボロ雑巾のように引きつらせながら、登校の途についていた……。
瑠璃ちゃんのお節介には、本当に感謝しなきゃな。二度目の気絶から目覚めた時、あたりはすっかり黄昏時だったが、枕元にはクラス懇談会で本人が受け取るはずだった入学関連の資料やプリント、時間割などが綺麗に整頓されて置かれていた。
だけど、どういうわけか、あの保健室に足を踏み入れると、肉体の傷は癒えても、精神に深刻なトラウマを植え付けられる気がしてならない……。
そこまで考え、俺は思わず胸を押さえて近くの壁に寄りかかった。
ピンク髪の美少女なんて、所詮はすべて幻だ! 奴らはどいつもこいつも、腹を割ってみれば真っ黒なんだよッ!!
ぶんぶんと首を激しく振り、脳裏にこびりついた不安を叩き出す。両手で自分の頬をパンパンと叩き、自らに活を入れた。
「よしっ!」
始業式はサボった(気絶した)が、今日こそが本当の意味での学園生活初日だ。こんなに陰気臭くてどうする。
輝かしい新生活が、今まさに幕を開けるんだ!!
クラスの教室の前に立ち、深呼吸を一つ。そして意を決してドアをガラリと開け、笑顔で挨拶を放った。
「みんな、おはよう!」
──し〜ん。
あれ? 俺が思い描いていたシチュエーションと、なんか……違う……ぞ……?
案の定、始業式を欠席したせいで、クラス内にはすでにカーストの初期型が形成されていた。どうやら俺の高校3年間は、またしてもボッチで過ごすことが確定したらしい……。
気まずいまま入り口に立ち尽くすこと3分。朝のホームルームのチャイムが鳴り響き、俺は美人の担任教師に促されて、クラスで唯一ポツンと空いていた席へとトボトボと着席した。
ちなみに、担任はライトブラウンのショートボブが似合うお姉さん美人だ。これだけは不幸中の幸いと喜ぶべきだろうか。
カバンを置いて席についた途端、教壇の担任がパンパンと手を叩いた。
「みんな〜、こっち注目〜。嬉しいことにね〜、今日でやっと我がクラスのメンバーが全員揃いました〜。というわけで、最後の1人の自己紹介を補っておきましょう〜! 野島く〜ん、前へどうぞ〜」
……前言撤回。この担任、ちょっと脳のネジが緩んでないか? なんで語尾をそんなに・み・び・る・んだよ?
「はい……」
とはいえ、やるべきことはやらねばならない。周囲のクラスメイトたちの冷ややかな視線を浴びながら、俺は心臓をバクバクさせつつ先生の隣に立ち、黒板に自分の姓名を書き付けた。
「……はじめまして、野島健太です。趣味は読書(小説と漫画!)、音楽鑑賞(アニソン!)、それから映画鑑賞(エロ動画!)。特技は剣道(シコシコすること!)です」
教壇の下の連中が、どいつもこいつも手元の作業に没頭しているのを見て、俺は自分の「高校生デビュー」が完全に大爆死(徹底失敗)したことを悟った……。
「あいつが最後の1人?」
「昨日、校門の前で行き倒れて守衛さんに担ぎ込まれた奴だろ」
「マジかよ……ダサすぎ」
「あいつのせいで、うちのクラスが他の一年から見下されてんだよな」
「へえ、よくあの面下げて学校に来られたもんだわ」
クラスメイトたちの「ヒソヒソ話」のボリュームが、絶妙に俺の耳へクリアに届く。これぞまさに、数の暴力の恐るべき応用形と言わざるを得ない……。
開幕早々、全方位から完全にハブられる(排斥)とは。1対49。俺は一騎当千の猛者じゃないんだぞ……。
耳に痛いヒソヒソ話をBGMに、俺は苦笑いを浮かべながら教壇を降りた。
お昼休みの時間になった。
この学校は妙に人間味にあふれていて、昼休みが「第一」と「第二」の二部制に分かれているんだな、などとしみじみ飯を食っていると、聞き覚えのある4音のチャイムが鳴り響き、騒がしかったクラスの連中の注意を引いた。
『新入生の皆さんにご案内します。第二昼休みが始まった後は、校則第二条の規定を厳格に遵守してください。さもなければ、すべての結果は自己責任となりますので、ご注意を〜♡』
この聞き覚えのある間伸びした語尾……嘘だろ……担任かよ!?
クラスの多くの連中が、さっき高田猛が見せてくれたのと同じデザインの小冊子を取り出し、中身を確認し始めた。
俺も大慌てで、入学資料の入った茶封筒からそのミニ冊子を引っ張り出し、ページをめくる。
どれどれ……。
あ、あった!
『高山高校・校則』
第二条:
「第二昼休み中の大声での私語、および廊下の走行を一切禁ずる。ただし、自由行動は許可する。違反した者は──即、座、に、斬、首、と、す、る、わ、♡」
ごすっ!
クラス全員が一斉に机に頭を打ち付ける光景は、どれほど壮観なことだろうか!
残念ながら俺には見えなかった。なぜなら、俺もその壮観な景色を構成するドミノの1枚だったからだ……。
即座に斬首は百歩譲っていいとして、後ろの「ハートマーク」は一体何なんだよおおお!!!
これも一種のクソ仕様か!? 絶対にそうだろ!!
校則ってのは、教師が自分の趣味嗜好でランナムに書き換えていい代物なのかよ!?
後ろにさらに頭のイカれた校則がないか、確認しようとしたその時──
「あれ……? この冊子どうなってんの? 最初の2ページ以外、ビクともしなくて開かないんだけど」
隣の席から聞こえてきたそのセリフのせいで、俺は再び額を机にゴツンとぶつける羽目になった。
クソ野郎!! これ、明らかに「実際にトラップに引っかかった後にしかページが解禁されない」仕様じゃねえか!!
そんな高等テクノロジーがあるなら、もっと社会の利益になることに使えよ!! クソ野郎が!!
俺が心の中で凄まじい勢いでツッコミを入れまくっていると、第二昼休みの開始を告げるチャイムが鳴り響いた。……って、なんで曲が『エリーゼのために』なんだよ……。
もういい。俺は確信したね。この学校でいちいち真に受けてたら、遅かれ早かれ「ツッコミを入れないと死ぬ病」っていう不治の病にかかるってことを。
物憂げなメロディが1分後に鳴り止むと、俺は上の階の2年、3年の教室から、何やら不気味な気迫が膨れ上がってくるのを感じ取った。そして、第一昼休み(ランチタイム)には一年生の教室と同じくらい騒がしかったはずの先輩たちのフロアが、突如として不気味なほどの静寂に包まれたのだ。
嘘だろ? そんなに聞き分けがいいのか?
ここは管理教育が厳しいことで有名な超進学校だけど、チャイム一つで万物が静まり返るなんて、いくらなんでも異常すぎる。勘の鋭い数人のクラスメイトたちが顔を見合わせ、エネルギーの塊であるはずの高校の校舎でこんな現象が起きるなんて信じられない、といった表情を浮かべている。
だが、あのクソ理不尽な校則の脅威と、今この場を支配している不気味な空気の威圧感のせいで、一年生の教室に一瞬生まれかけたざわめきも、一瞬にして霧散した。
とはいえ、誰も動こうとはしない。現在の状況は、あまりにも不可解が過ぎる。校則には「自由行動は許可する」と書いてあったが、その直後のハートマークと即座に斬首のインパクトが強すぎて
(そこ食いつくポイントかよ、おい!)
多くの連中はハナから諦めて机に突っ伏し、仮眠の体制に入った。
俺はといえば、肩をすくめて席から立ち上がり、外の様子を見に行くことにした。
理屈に合わない。生徒数だけで5千人を超えるマンモス校が、一瞬にしてこれほど静まり返るなんて、何かしらの怪奇現象(鬼)でも起きてなきゃ説明がつかない。
絶対に何かが起きている! しかも、情報源は上の階だ!
すべての音声が、あの奇妙な気迫によって一瞬にして圧殺されたのだ!
足音を忍ばせ、抜き足差し足で上の階へと上がると、俺はすぐさま、あるクラスの窓の外に群がっている奇妙な人だかりを発見した。
なんでも視察や見回りの利便性を考慮した結果らしく、うちの学校の廊下側の壁には窓がついている。それも、壁の半分以上の面積を占める巨大な窓だ。教室の壁に窓があって、廊下を挟んだ校舎の壁にも窓があるなんて、どれだけプライバシーのないクソ仕様だよと感じていたが……。
おや? 俺、いま無意識のうちに「クソ仕様味」っていう全く新しい味覚の概念を発明しちまったんじゃないか?
俺って天才かも!
ゲホン! 何を考えてるんだ俺は!
俺がその集団にゆっくりと近づいていくと、その連中が、ほぼ微動だにせず、廊下に「正座」していることに気づいた。……そもそも、なんで廊下に椅子が並んでるんだっていう疑問はあるが……。
そして彼らの視線は、壁の向こうの教室内に釘付けになっていた。全員が息を潜め、まるで何かを起こすのを恐れるかのように、その顔にはうっとりとした恍惚の表情が浮かんでいる。
俺は椅子の下からそっと首を覗かせて中を見た。──その瞬間、俺は彼らの気持ちを100%、いや200%理解した。
教室内では、一人の銀髪の少女が、自分の席でうつ伏せになって昼寝をしていた。
本来なら、そんな光景は珍しくも何ともない。だが、その少女の背中に、淡い微光を放つ『一対の翼』が生えているとなれば、話は完全に別次元だ。
時は正午。俺はこんな真っ昼間、世界の中で太陽以外に「自ら発光する物体」など存在するはずがないと思っていたが、少女の背後にある潔白な羽翼は、俺の常識を根底から覆した。
巨大な双翼は優しく前方へと丸められ、少女を包み込むようにガードしていた。露出しているのは頭部だけだったが、その絶世の美貌と、その顔に浮かぶ幸福そうな微笑みは、教室全体の空気を一変させていた。
穏やかで、それでいて心の奥底に温かい電流が流れ込んでくるような感覚。
全身が、ちょうどいい温度の朝風呂(熱水澡)に浸かっているかのように心地よく、思わず声が漏れそうになる。かといって、眠気を誘うわけでもない。
絶景──!
本来なら、大自然の風景にしか使われないはずのその形容詞を、俺は今この瞬間、目の前の光景に対して何の躊躇もなく脳内で適用していた!
まるで天使のような少女。彼女の佇まいはあまりにも調和の取れた安寧に満ちており、天地創造の時代からそこに眠り続けているかのようだった。椅子に座っている先輩たちが、呼吸の音さえ絞り込んでいる理由がよく分かる。これは幻影のような景色だ。あまりにも現実離れしているため、自分が少しでも大きな呼吸をすれば、この美しいガラス細工のような空間が木っ端微塵に砕け散ってしまうのではないかと、誰もが恐れているのだ。
そんな状況の中、俺は時間の経過を忘れていた。午後の第一講義の予備鈴が鳴り響いた時、ようやくハッと我に返った。いつの間にか、静かに眠っていた天使は姿を消していた。
そこには、一人の銀髪の少女が、口角からキラリと光るよだれを垂らしながら、「もう食べられないよぅ〜」という古典的すぎる寝言を呟いており、周囲の女子生徒たちが、起こすのが忍びない、だけど起こさなきゃいけないというジレンマに満ちた表情で彼女を揺り動かしていた。
「楓ちゃん、起きて。もうすぐ授業が始まっちゃうよ!」
女子生徒は本当に申し訳なさそうだった。体を叩く動作は限界まで優しく、声のトーンもこの上なくソフトだ。
だが、それほど優しいアプローチであっても、銀髪の少女を目覚めさせるトリガーとしては十分だったらしい。彼女は眠たげな目で身を起こすと、目をこすりながら、ぽや〜としたアホっぽい笑顔(傻笑)を浮かべて言った。
「おはよぅ……ゆめはちゃん……」
こ、これも……思わず理性を失ってのめり込みそうになる、極上の癒やし空間だな……!!!
「おはよう〜、って違う!」
いまだにトロンとしていて、声の骨組みがふにゃふにゃな銀髪の少女を見て、夢葉と呼ばれた女子生徒は、この友人がまだ脳ミソが起きておらず、ただ目が開いているだけだと察知した。
「さん、に、いち、はい、シャキッとして!」
夢葉は銀髪の少女の前で指を3、2、1とカウントダウンし、最後にパチンと指を鳴らした。
どう見ても催眠術師が催眠を解く時のアレ(しぐさ)なんだけど……。
夢葉のシグナルと同時に、銀髪の少女の動きがピタッと止まり、次の瞬間、その瞳にパッと生気が宿った。
「夢葉、おはよう!」
周囲のギャラリーから「おおーー……」と感嘆の声が漏れる。
これが噂に聞く、脳の高速起動ライフハックか……。
声のふにゃふにゃ感が消えたのを確認し、夢葉はついにホッと胸を撫で下ろした。
「おはよう、楓。もうすぐ授業だから、早く準備しなさい」
「うん! 起こしてくれてありがとね〜」
「どういたしまして」
夢葉は下を向いて、次の時間の教材を準備しながらぶっきらぼうに答えた。
こんな、絵に描いたような日常の授業風景を、ずっと眺めていたいものだな……って、あれ? なんで俺の周りから、無数の殺気がスキンヘッドのヤクザ並みに膨れ上がってきてるんだ……?
顔を横に向けると、俺の顔面からわずか3センチの距離に、見知らぬ男の顔があった。その顔には「俺は激怒している。理由はテメェだ」とデカデカと書いてある。さらに、その後ろの一列に並んだ先輩たちが全員、まるで寝取られの恨みか親の仇と言わんばかりの怨念の籠もった目で、俺をロックオンしていた。
「あは……あははははは……。先輩方の皆さん、こんにちは。あの……もうすぐ授業が始まるみたいなんで、し、失礼します! バイバイッ!!」
三十六計、逃げるに如かず(走為上策)! 突撃ィーー!!
猛ダッシュを開始して十数秒。俺はある奇妙な現象に気づいた。あれ、なんで周りの景色が微動だにしないんだ?
下を向いてみると、俺の足は地面から10センチ以上浮いていた。なるほど、さっき自分の限界を超えた神速のスピードで走っている感覚に陥ったわけだ。──空回りしてただけなんだから……。
「後輩クン? どうやら僕たちと、少しばっかり親交を深める必要があるみたいだね。この学園の『ルール』ってやつを、体に叩き込んであげるよ」
俺の首根っこをひょいと掴み上げている、推定身長2メートル超えのゴリラ先輩が、顔だけは笑顔を張り付かせ、奥歯をギリギリと鳴らしながらそんな恐ろしいセリフを吐き捨てた……。
ごくり。
お、俺……いま、三途の川の向こう岸で、おじいちゃんが手を振ってるのが見えた気がする……。
※
どんな学校にも、大抵は社会の一般大眾にお見せできないようなことや、公序良俗に反する行いをするのに打ってつけの、薄暗くてジメジメしたコーナーが存在するものだ。
例えば階段下のデッドスペース、例えばトイレ、例えば屋上、例えば校舎間の防火帯、例えば校舎の裏手の暗がり……。
現在の俺は、まさにそのうちの一つ──三方を校舎の冷徹なコンクリート壁に囲まれた、行き止まりの路地に立たされていた。
目の前には、顔面を般若のように歪ませ、凶悪かつガタイの良すぎる先輩たちの軍団。
眼前の光景に、俺は背筋が凍りつき、アヌスがキュッと引き締まる(菊花一緊)のを感じた。
(父さん、母さん。お宅の息子の身体は、今日という日を境に、二度と清らかな身ではなくなるかもしれません……)俺は唇をそっと噛み締めながら覚悟を決めた。
先ほどのゴリラ先輩。先ほどと同じ恐怖の微笑み。先ほどと同じ奥歯のグラインダー。
だけど……殴ってこない?
「小僧、お前に教えておいてやる。毎日昼休みに2年A組へ赴き、楓ちゃんの寝顔を拝むには、厳格な『流儀(規矩)』があるんだ」
あれ? ルールって……そっちのこと(拝む流儀)だったの……?
俺は、肺の中の空気をすべて吐き出す勢いで安堵の息を漏らした。
父さん、母さん! 息子の貞操は、ギリギリのところで守られました!!
「……希望者が多すぎるんだよ。基本、全校生徒全員だからな。しかも一度見た奴もリピートしたがる。だから、学校側が定めたルールがあってな……」
「ストップ!」
俺はどこから湧いて出たのか分からない勇気を振り絞り、手のひらを突き出してゴリラ先輩の発言を制した。そして、上着のポケットにずっと突っ込んであったあの小冊子を取り出し──第三ページ目を、めくった。
『高山高校・校則』
第三条:
「天使の昼寝を拝みたいですか? 生徒会へ行って整理券(号碼牌)を受け取ってください。1日限定10名様までですよ?
抽選に漏れた人も、がっかりしないで! キャンセル待ち(備取)10名の枠をかけた争奪戦が君を待っている!
詳細はキックボクシング部(自由搏擊社)まで☆」
……俺は、崩れ落ちた。完膚なきまでに、その場に膝をついた。
午後2時間目の授業が終わる直前に、俺がようやく教室へと戻ってきた時、クラスメイト全員が腫れ物に触るような(異樣的)目で俺を見てきた。
だが、当の俺はといえば、神の領域の光景を目撃してしまったことで、脳内に謎の優越感がみなぎっており、今度は俺が彼らをガン無視してやった。ふん!
昼休みが丸々2時間もあるため、午後の2時間目の授業というのは、実は一日の時間割の「最後のコマ」だった。時計の針はすでに放學時間の3時を回ろうとしている。
その時、俺は突如として、極めて重大な事実に思い至った!
みんなで昼休みに誰かさんの寝顔をじっくり拝むためだけに、授業を丸ごと1コマ削っちまうなんて、本当に大丈夫なのか!?
ここ、本当に毎年の東大合格率が3割を超える超進学校なんだよな!?
ちくしょう!! そんなわけがあるかああああああああああああああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!
夕日に向かって咆哮する俺に応えるものは、秋の空を間抜けに横切る2羽のカラスの鳴き声(アホぅ、アホぅ)だけだった。




