第一章
「ねえ、知ってる? この街には天使がいるんだって!」
一年ほど前、どういうわけか、この言葉が耳元でリフレインするようになった。
そして今日。もう何百回目か分からないその言葉を、俺はまたしても生返事で聞き流し、その場を歩き去る。
今日は入学式(新学期初日)。わけのわからないオカルト話のせいで遅刻するなんて、御免被りたい。
それにだ。俺はこれでも「地元通」と呼ばれる男。本当に天使なんてものが実在するなら、この俺が知らないはずがないだろう?
俺、野島健太。この春から晴れて、堂々の高校生デビューだ!
「…………」
(ヤバい! テンション上がりすぎて電車乗り間違えたッ!!)
『まもなく、神保町、神保町……』
(あああああああ!!! 学校からどんどん遠ざかっていくうううう!!!)
──かくして。
「早起きして余裕の登校、あ〜気分最高!」などとほざいていた俺は、絶望のあまりOTL(失意体前屈)の姿勢のまま、残りあと数センチの隙間を残して完全に閉まろうとしている校門を、ただ見つめることしかできなかった……。
しかも、その校門の脇には、身長180センチを優に超える大男が立っており、上から見下ろすような威圧的な視線を俺に向けてこう言い放った。
「小僧、見ない顔だな……入学初日から遅刻するたぁ、いい度胸じゃねえか!」
この男は知っている。うちの学校の生活指導主任、高田猛。その体格を見れば分かる通り、名は体を表すレベルの猛者だ……。
あ、ありえん……。さすがは「鬼の高田」と恐れられる男、プレッシャーが半端ない! 彫刻刀で削り出したかのような見事な四角い輪郭(エラ張りの輪郭)。これで顔に傷跡でもあれば、極道の世界にスカウトされなかったのが不思議なレベルの逸材だ!!
「ち、違っ……話せば長くなる深い事情があるんです!!」
俺はたまらず校門の柵にしがみつき、大声で弁明を試みる。
(そうだ、朝6時に起きて6時半に家を出たこの俺が、遅刻するわけがないだろうがああああ!!!!)
「ん?」
さらに抗議を続けようとしたその時、上空から一振りの純白の羽がひらひらと舞い落ちてきて、俺は首を傾げた。
(羽……?)
この街で鳩を飼っている奴なんていない。一体どこからこんな羽が──あ、ええええーーっ!?
うちの学校の制服を着た少女が、空から降臨してきた。
──しかも、その背中には、ゆっくりと羽ばたく一対の『雪白の翼』が生えていたのだ!
まるで純潔な白鳩が着陸するかのように、少女の背中の巨大な翼がゆっくりと羽ばたき、着地の衝撃を和らげる。そして少女の足がしっかりと地面を捉えると、その白い翼は満天の光の粒子となって、跡形もなく消え去った。
さらに重要なのは、彼女が降り立ったのは校門の『内側』だということだ。校門の・内側・!
そして、あの「鬼の高田」と呼ばれた男が、こともあろうに慈愛に満ちた生温かい笑顔を浮かべているではないか!?
「高田先生、おはようございます!」
鈴を転がすような、優しく繊細な声が響く。
「おはよう、浅野さん。遅刻しそうだから、急いで教室に行きなさい」
高田猛は、信じられないほど優しい声で促した。
少女は小さく「はいっ」と声を漏らすと、足早に校舎へと入っていき、やがてその姿は見えなくなった。
おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおい!!
待遇の差が激しすぎるだろ!!
抗議するぞ! 訴えてやる!!
自分の学校の門から締め出されている哀れな俺の立場は、一体どうなるんだ!?
「……チッ! 運がいいな。今日のところはこれで勘弁してやる」
高田猛はひどく残念そうな顔で、ジャージの上着から一冊の小冊子を取り出し、俺の目の前に広げて見せた。
なになに……。
『高山高校・校則』
第一条:
「遅刻した生徒は、正門前にて生活指導主任が認める一発芸(特技)を披露しなければならない。それが認められた場合のみ、裏門の守衛室経由での登校(遅刻扱いでの入校)を許可する」
「…………………………」
どこの国のクソ(坑爹)校則だよおおお!!!
この学校は周辺のいくつかの県でもトップの超進学校で、全校生徒は5千人を超えるマンモス校。敷地面積だって異常に広いんだぞおおお!!!
正門から裏門まで外回りで歩いたら、余裕で1時間はかかるんだぞおおお!!!!
「早く行かんか。死に物狂いで走れば、まだ始業式には間に合うぞ」
高田猛は手元の小冊子をパタパタと仰ぎながら、煩わしそうに言った。
……俺はハエかよ、おい。
チッ! 今はそんなツッコミを入れてる場合じゃない。現在の時刻は8時10分。始業式は9時開始だ。ここでグズグズしていたら本当に間に合わなくなっちまう!!!
うおおおおおおおおおお!!!!
走れ!! 俺の韋駄天(飛毛腿)よ!! 音速を超えろ!!
……なーんてのは冗談で、猛ダッシュを開始してわずか10メートルで、俺は地面に膝をついて激しく喘いでいた。どこまでも続く学校の果てしない外壁を見上げながら、俺は人生で初めて、「なぜ過去の自分はまともに体を鍛えておきやがらなかったんだ」という激しい悔恨に囚われた……。
走りながら、俺は実にあっさりと意識を失った。
気絶する直前、薄いブルーの制服を着た人影がこちらに向かって歩いてくるのが見えた気がしたが、もうそれが誰なのかを確かめる気力すら、俺には残っていなかった……。
※
「う……ん……」
ゆっくりと目を開ける。視界はまだぼやけているが、周囲の色──一面の「白」だけは判別できた。
鼻を突く、そこまで刺激臭ではない消毒液の匂い。背中に伝わる柔らかい感触。それらが、俺に現在の現在地を自覚させた。
数々の甘酸っぱく不純なシチュエーションが発生する聖地──!
保・健・室!
だが、残念なことに、今の俺はベッドの上に情けなく横たわる「ただの患者」だ。胸がキュンとするどころか、保証してもいいが、今の俺の顔面は蒼白そのものだろう……。
俺が目を覚ました気配を察したのか、白衣を羽織った紫のショートヘアの眼鏡御姉様が、パーティションを抜けてベッドのそばへと近づいてきた。
「おめでとう、少年! 君でちょうど、外壁沿いで行き倒れて幸村さんに運ばれてきた記念すべき1000人目の生徒よ! 何かご褒美でもあげちゃおうかしら?」
少し低めで、だが妙に色気(磁性)のあるハスキーボイスが、からかうように響いた。
「……いえ、結構です。ありがとうございます」
無表情、1秒の食い気味で即答する俺。
「冗談よ。気分はどう?」
「あんまり……よろしくない、かと……?」
体に力が入らないのを感じながら、俺は苦しげに答えた。
「ただの脱水と疲労(脱力)よ。まだ若いんだから。後で2倍に薄めたスポーツドリンクをあげるわ。それを飲んだら、さっさと帰りなさい」
ケ、ケチすぎるだろ!? スポーツドリンクをくれるのはいいとして、なんで2倍に薄めてやがるんだよ……。
俺の目の中にある失望と軽蔑の光を察したのか、ショートヘアの眼鏡御姉様はメガネのブリッジを指でクイッと上げると、辛抱強く解説を始めた。
「市販のスポーツドリンクはね、弱り切った人間の体がそのまま吸収するには濃すぎるのよ。2倍に薄めて、人間の体温近くまで温めた状態が、水分と電解質を補給するのに最も適しているの。私がケチなんじゃなくて、君の体が『モヤシ(太虛)』すぎるのよ。わかった?」
──『モ・ヤ・シ』。
その3文字が、3本の巨大なハンマーとなって俺のナイーブなメンタルを粉砕した。リアルに血を3口ほど吐き出したい気分だ。
学んだよ。言葉ってのは、時に鋭利な刃物と化すんだな!
それでも、俺は引きつった笑顔を無理やり浮かべて返した。
「……ありがとうございます、先生」
「どういたしまして。保健医として当然の仕事よ。あ、そうそう。高山高校へようこそ。私はここで保健医をしている、蒼月琉璃。これからよろしくね」
できることなら、もう二度と先生のお世話にはなりたくないです……俺は心のなかで血の涙を流しながら絶叫した。
「あ、そうだわ」
蒼月琉璃はポンと小さく手を叩くと、思い出したように言った。
「君が気絶してイビキをかいてる間に、始業式はもう終わったわよ。動けるようになったら、そのままお家に帰っていいからね」
「ぶふぉっ!?」
その言葉を聞いた瞬間、俺は口から見えない鮮血を噴き出し、視界が真っ暗になって、再び意識を失った。
(これ以上ないくらい、最悪の入学式だ……)




