第八話「剣には触るな」
朝食のあと、アシュは居間の整理を始めた。
台所は少しずつ使いやすくなってきた。
保存食の棚もできた。
寝室も、リゼラがちゃんと眠れる場所になりつつある。
ただ、居間にはまだ手をつけにくい場所があった。
壁際。
そこに、リゼラの剣が置かれている。
派手な剣ではない。
宝石も、飾りも、ほとんどない。
けれど、アシュにも分かった。
大事にされている。
鞘には細かい傷がある。
柄の革は少し擦れている。
けれど、汚れてはいない。
置かれ方も、雑ではない。
この家の中で、リゼラが一番きちんと扱っているもの。
たぶん、それがこの剣だった。
アシュがそちらを見た瞬間、リゼラが言った。
「剣には触るな」
声が低かった。
怒っているというより、先に釘を刺す声だった。
アシュはすぐに両手を上げた。
「触りません!」
「本当か」
「本当です!」
「お前は台所も寝室も、見ると言ってだいたい直した」
「それは、直した方がよかったので……」
「剣は違う」
「はい。分かってます」
リゼラはじっとアシュを見た。
かなり疑っている。
「僕、そんなに信用ないですか?」
「ある」
「わ、あるんですか」
「台所と食事と寝具については」
「えへへ……ありがとうございます」
「ただし、剣は別だ」
リゼラは壁際の剣を見た。
「これは私が見る。私が磨く。私が置く」
「はい」
「勝手に抜くな」
「抜きません」
「勝手に磨くな」
「磨きません」
「勝手に場所を変えるな」
「変えません」
「勝手に名前をつけるな」
「つけませんよ!?」
アシュは思わず声を上げた。
リゼラは真顔だった。
「お前、棚に名前をつけていただろう」
「あれは『すぐ食べる棚』です! 分類です!」
「似たようなものだ」
「剣に『すぐ切る剣』とか書きません!」
「絶対だな」
「絶対です!」
リゼラは少しだけ安心したようだった。
アシュは、今の心配は本気だったのか、と思った。
「じゃあ、剣には触りません。でも、周りだけ整えてもいいですか?」
「周り?」
「油とか布とか革紐とか、探しにくそうなので」
「使う場所に置いてある」
「床に直置きは、使う場所とは言いません」
「すぐ手が届く」
「届けばいいわけじゃないですよ!」
リゼラは少し不服そうだった。
アシュは慌てて付け足す。
「あっ、でも剣には触りません。本当に。約束します」
「……約束か」
「はい」
「なら、周りだけだ」
「はい!」
アシュはほっとして笑った。
リゼラはその顔を見て、少し目を細めた。
「すぐ嬉しそうにするな」
「えへへ……許可が出たので」
「子供みたいだ」
「よく言われます」
*
アシュは剣置き場の周辺を整理し始めた。
もちろん、剣には触らない。
まず、手入れ用の布を畳む。
台所用の布と混ざらないよう、別の箱に入れる。
剣油の小瓶は右側にまとめる。
古い革紐は長さごとに分ける。
工具は小さな箱に入れる。
傷んだ布も捨てずに、別に避けておく。
リゼラは少し離れた場所から見ていた。
見守っている、というより見張っている。
完全に見張りだった。
「リゼラさん」
「何だ」
「そんなに見てなくても、触りませんよ」
「見ているだけだ」
「目が見張り番です」
「気のせいだ」
「気のせいって便利ですね」
「便利だ」
「認めた」
リゼラは少しだけ口元を動かした。
アシュはそれを見て、少し嬉しくなる。
最近、リゼラは少し笑うようになった。
本人は隠しているつもりらしいが、前より分かりやすい。
「リゼラさん、この布は古いですけど、捨てませんね」
「捨てるな」
「はい。分けておきます」
「最後の拭き取りに使う」
「なるほど。じゃあ、これは大事な古い布ですね」
「大事、というほどではないが。なんとなく手に馴染む」
「じゃあ捨てたら困るんですよね?」
「まあ……困る」
「じゃあ大事です」
リゼラは少し黙った。
「……そうか」
「はい」
アシュは古い布を丁寧に畳んだ。
新品の布とは別に、小さな箱へ入れる。
リゼラはその手元を見ていた。
「お前は、勝手に捨てないのだな」
「はい。分からないものは聞きます。僕も、勝手に捨てられるの嫌なので」
アシュは軽く言った。
リゼラの視線が少し変わる。
「捨てられたことがあるのか」
「あ、はい。前の職場で。僕の道具箱、邪魔だって」
「道具箱?」
「裁縫道具とか、砥石とか、布とか。僕には大事だったんですけど」
「……それで?」
「捨てられました」
アシュは笑って言った。
暗くしたくなかった。
けれど、リゼラは笑わなかった。
「怒らなかったのか」
「怒りましたよ。心の中では」
「言わなかったのか」
「言えなかったです。僕、立場弱かったので」
リゼラは黙った。
それから、低い声で言った。
「腹が立つな」
「え?」
「人の道具を勝手に捨てるのは、腹が立つ」
「リゼラさんが怒ってくれるんですか?」
「怒る。当たり前だ。それはお前にとっての剣なんだろう?」
即答だった。
アシュは少し驚いた。
「わ……」
「何だ」
「いえ、ちょっと嬉しくて」
「嬉しいのか」
「はい。僕の道具で怒ってくれる人、あんまりいなかったので」
アシュは照れて、少し笑った。
「えへへ……ありがとうございます」
リゼラは困ったように視線をそらした。
「礼を言うことではない」
「僕には、礼を言うことです」
「……そうか」
「はい!」
リゼラはしばらく黙っていた。
それから、少し小さな声で言う。
「お前も、触られたくないものがあるなら言え」
「いいんですか?」
「ああ」
「じゃあ、包丁と砥石は勝手に触らないでください」
「分かった」
「あと、帳面も」
「それは…見たい」
「だめです!」
「少しだけ」
「だめです!」
「雇い主だぞ」
「家事役にも秘密があります!」
リゼラは不満そうにした。
「帳面に、私のことを書いているんだろう」
「少し」
「何を書いたんだ」
「秘密です」
「見たい……」
「だめです」
「……けちだな」
ぼそっと言った。
リゼラが、少し拗ねた。
アシュは笑いそうになる。
「笑うな」
「まだ笑ってません」
「笑う前の顔だ」
「わ、ばれてる」
「お前は顔に出る」
「リゼラさんも、最近ちょっと出ますよ」
「私は出ない」
「出ます」
「出ない」
「今、ちょっと拗ねてます」
「拗ねていない」
リゼラは腕を組んだ。
どう見ても拗ねていた。
アシュは、これ以上言うと怒られると思って、作業に戻った。
*
剣置き場の周辺は、思ったより早く整った。
剣は同じ場所にある。
アシュは触っていない。
ただ、その周りは変わった。
剣油は右側。
新しい布は上の箱。
古い布は下の箱。
革紐は長さごと。
工具は小箱。
床に置いていたものは、低い棚へ。
見た目は大きく変わっていない。
でも、使う時に迷わない。
リゼラはしばらくその場所を見ていた。
「剣には、触っていないのか」
「はい。触るなと言われたので」
「本当に触らなかったのか」
「はい」
「鞘も?」
「触ってません」
「柄も?」
「触ってません」
「位置も?」
「そのままです」
リゼラは黙った。
確かめるように剣を見ている。
「普通は触る」
「そうなんですか?」
「触るなと言っても、良かれと思って片付けだの勝手に手入れするだの、理由をつけて触る者はいる」
リゼラの声が少し低くなった。
「綺麗にしました、と言う。使いやすいように置きました、と言う。古いものは捨てました、と言う」
「……嫌ですね」
「嫌だ」
短い返事だった。
それだけで十分だった。
「これは、私の剣だ」
リゼラは言った。
「傷も、重さも、柄の擦れ方も、私が分かっていればいい」
「はい」
「人に勝手に直されるものではない」
「はい」
アシュは頷いた。
「だから触りませんでした」
リゼラは少しだけ目を伏せた。
「……助かった」
かなり小さい声だった。
アシュは一瞬止まった。
それから、ぱっと顔が明るくなる。
「わ……!」
「何だ」
「いえ、嬉しくて」
「礼を言っただけだ」
「でも、リゼラさんの大事なもの、ちゃんと大事にできたんだなって」
アシュは照れたように笑った。
「えへへ……よかったです」
リゼラは少し困った顔をした。
「お前は、すぐ顔に出るな」
「出ちゃいます」
「少しは隠せ」
「僕、素直なので。無理です!」
「……自分で言うな」
「ふふっ」
リゼラは何か言おうとして、やめた。
代わりに、視線を剣へ戻した。
耳が少し赤い。
アシュは見ないふりをした。
見たと言ったら、たぶん剣より先に自分が怒られる。
*
昼前、リゼラは剣の手入れを始めた。
アシュは台所で保存食の準備をしながら、ついそちらを見てしまう。
リゼラの手つきは、家事の時とはまるで違った。
迷いがない。
布の当て方。
油の量。
刃を見る角度。
革紐を確かめる指先。
全部が静かで、正確だった。
根菜を半分まで削った人と同じとは思えない。
「何を見ている」
リゼラが言った。
「いえ、すごいなって」
「剣だからな」
「根菜とは違いますね」
「その話はするな」
「あ、まだ気にしてます?」
「していない」
「してますね」
「……少し」
正直だった。
アシュは笑った。
「リゼラさん、剣を触ってる時、すごくかっこいいです」
リゼラの手が止まった。
ほんの少しだけ。
「……そうか」
「はい。見てて、ちょっと安心します」
「安心?」
「リゼラさんにも、ちゃんと得意なことがあるんだなって」
「当たり前だ」
「でも、最近は根菜とか枕とかパンとかで苦戦してたので」
「並べるな」
「すみません」
アシュは笑った。
リゼラは不満そうだったが、嫌そうではなかった。
「お前も、台所ではそういう顔をしている」
「僕がですか?」
「ああ」
「どんな顔ですか?」
「少し得意げで、少し偉そうで、かなり楽しそうだ」
「かなり」
「かなりだ」
「わ、じゃあ僕、そんな顔してるんですね」
「している」
「なんだか、恥ずかしいです」
「なぜだ」
「よく僕のこと、見てくれてるんだなって」
「……べ、別に」
リゼラは剣を磨きながら言った。
「お前は、台所にいる時が一番分かりやすい」
「そうですか?」
「ああ。嬉しそうだ」
アシュは少し照れた。
「えへへ……僕、できること少ないので。できることをしてる時は、たぶん嬉しいんです」
リゼラは一瞬だけ手を止めた。
それから、ゆっくり言った。
「少なくはない」
「え?」
「お前にできることは、少なくない」
アシュは返事に困った。
こういう時、すぐ嬉しくなる。
でも、胸が少し詰まる。
「……ありがとうございます」
「また嬉しそうだな」
「はい。今のは、かなり嬉しいです」
「そうか」
「はい。かなりです」
「繰り返すな。照れる」
アシュは笑った。
リゼラは剣に視線を戻した。
耳はまだ少し赤かった。
*
その日の夕方。
剣置き場は、前よりずっと使いやすくなっていた。
剣は同じ場所にある。
だが、布は取りやすい。
油も迷わない。
革紐も探さなくていい。
工具もまとまっている。
リゼラは手入れを終えた剣を元の位置へ戻し、少し離れて眺めた。
「悪くない」
短い言葉だった。
でも、リゼラにしてはかなりの高評価だ。
アシュは台所から顔を出した。
「本当ですか?」
「ああ」
「やった」
アシュは小さく拳を握った。
リゼラがそれを見て言う。
「大げさだな」
「嬉しいんです!」
「そうか」
「はい!」
リゼラは、少しだけ視線をそらした。
「布が取りやすい。油も迷わない。革紐も探さなくていい」
「はい」
「便利だ」
「便利ですよね!」
「認めたくはない」
「じゃあ、認めてください!」
「……少し認める」
「少し?」
「かなり」
リゼラは少しだけ口元を緩めた。
それから、アシュを見た。
「アシュ」
「はい?」
「剣に触らなかったこと」
「はい」
「……褒めてやる」
アシュはまた顔を明るくした。
「はい!」
「また嬉しそうだな」
「だって嬉しいです」
「そうか」
「はい。リゼラさんの大事なものを、ちゃんと大事にできた気がします」
リゼラは少し黙った。
そして、ぽつりと言った。
「お前は、そういうところがあるな」
「そういうところ?」
「人の大事なものを、雑に扱わない」
アシュは少し照れた。
「そうできてたら、嬉しいです」
「できている」
「……わ」
「何だ」
「今の、すごく嬉しかったです」
「そうか」
「はい。えへへ……」
リゼラは困ったように眉を寄せた。
「その笑い方は、少し反則だな」
「反則?」
「怒りづらいんだよ」
「怒るところでした?」
「照れるから、少し怒ってごまかそうとしてしまうんだよ」
「言っちゃうんですか」
「……今のは忘れろ」
「覚えておきます」
「忘れろ」
「家事役は記録が得意なので」
「帳面に書くな」
「ちょっとだけ」
「書くな」
アシュは笑いながら台所へ戻った。
リゼラは剣の横に立ったまま、少しだけ頬を赤くしていた。
剣はいつもの場所にある。
アシュは触らなかった。
でも、その周りは少し整った。
リゼラの大事なものが、リゼラの大事なもののまま、少し扱いやすくなった。
その日の夕食。
リゼラはいつもより素直に、豆と肉のスープをおかわりした。
「肉、ちょうどいいですか?」
「少し少ない」
「えっ、増やしたんですけど」
「もう少しだ」
「体調管理です」
「けちだな」
「家事役なので!」
「そこは関係あるのか」
「あります!」
リゼラは少し笑って、器を差し出した。
「では、家事役。少しだけ追加だ」
アシュは嬉しそうに器を受け取った。
「はい!」
剣には触らなかった。
でも、少しだけ近づけた気がした。




