第七話「焦げたら、僕が少し泣きます」
朝食のあと、リゼラは畑へ出る支度をしていた。
作業用の手袋をはめ、古い外套を羽織る。
鎧ではないのに、立ち方だけはやはり騎士だった。
アシュは台所から声をかけた。
「リゼラさん、今日は戻り、遅くなります?」
「分からん。水路を見る」
「じゃあ昼食は?」
「戻ってから食う」
「戻れなかったら?」
「干し肉」
アシュは包丁を置いた。
「また干し肉ですか」
「軽い。腐らん。噛める」
「三拍子みたいに言わないでください」
「便利だぞ」
「食事は便利さだけじゃないでしょう!」
リゼラは少し首を傾げた。
「食えれば食事だろう」
「それ、リゼラさんが言うと怖いです」
「なぜだ」
「昨日まで本当にそれで生きてたからです」
リゼラは少しだけ視線をそらした。
「……今は改善中だ」
「はい。かなり改善中です!」
「かなりか」
「かなりです」
アシュが言うと、リゼラは少しだけ嬉しそうにした。
ただし、すぐに顔を引き締める。
「だが、畑に毎回食事を持っていくのは面倒だ」
「なので、保存食を作ります」
「保存食?」
「はい。干し肉じゃないやつです」
「干し肉も保存食だ」
「知ってます。でも、リゼラさんの干し肉は食事というより、顎の訓練です」
「訓練になるなら、いいじゃないか」
「ならない方がいいです」
リゼラは少し不満そうに口を結んだ。
アシュは棚から保存魔法のかかった肉を取り出す。
この世界では、食料を長持ちさせるのは難しくない。
肉や野菜に保存魔法をかければ、腐りにくくなる。
商会や騎士団では普通に使われているし、金があれば頼むこともできる。
ただし、保存魔法はあくまで腐敗を遅らせるものだ。
美味しくしてくれるわけではない。
肉は香りが弱くなる。
野菜は水分が抜ける。
パンは硬くなる。
温め直すと、味より先に食感が悪目立ちする。
だから保存食は、だいたい雑だった。
腐っていない。
持ち運べる。
腹に入る。
それで終わり。
アシュはそれが嫌だった。
「保存魔法は便利ですけど、味は面倒見てくれません」
「魔法なのにか」
「魔法なのにです」
「そこまでしてくれればいいのにな」
「してくれないので、僕がやります」
リゼラは少し黙った。
「……頼もしいな」
「え」
「いや、今のは普通に出た」
「普通に出ましたね」
「忘れろ」
「嫌です。覚えておきます」
アシュが笑うと、リゼラは耳を少し赤くして、外套の襟を直した。
「では、行ってくる」
「いってらっしゃい」
リゼラは玄関で一瞬止まった。
まだ、その言葉に慣れていない。
「……ああ。行ってくる」
今度は少しだけ、ちゃんと返した。
アシュはそれだけで少し嬉しくなった。
*
リゼラが出たあと、家は急に静かになった。
アシュは台所で手を動かす。
今日作るのは三つ。
温め直しやすいスープ。
味付き肉。
干し野菜と保存パン。
ただし、目的は豪華な保存食ではない。
リゼラが畑から帰ってきた時、すぐ食べられること。
アシュが家にいない時でも、ちゃんと食べられること。
そこが大事だった。
「まずはスープですね」
アシュは根菜を小さめに切った。
疲れている時でも、匙ですくいやすい大きさ。
豆は昨日から少し水に浸しておいた。
保存肉は細く切る。
鍋に少し油を引き、肉を温める。
強く焼きすぎない。
香りが出たところで根菜と豆を入れる。
水を足して、弱火にする。
スープは濃くしすぎない。
リゼラはしょっぱいものに慣れているが、畑仕事のあとに濃すぎるものを食べると水ばかり飲むことになる。
汁ごと食べられる。
温め直しても硬くならない。
パンを浸しても食べられる。
そこを狙う。
次に、味付き肉。
薄く切った肉に、塩を少し。
香草を少し。
油を少し。
本当は一晩置きたい。
今日は昼まででもいい。
焼くというより、温め直す時に固くならないようにしておく。
最後に、干し野菜。
すぐ完成はしない。
だが、薄く切って風の通る窓辺に置いておけば、明日以降に使える。
アシュは窓を開けた。
風が通る。
台所に、少しだけ野菜の匂いが広がった。
「……よし」
悪くない。
アシュは小さく頷いた。
その時、ふと気づいた。
いつもなら、リゼラがどこかから覗いている。
何をしている、と聞いてくる。
それは食えるのか、と聞いてくる。
火が弱い、と言ってくる。
そして大体、少しズレたことを言う。
今日は、それがない。
台所が静かだった。
「……作業は進むんですけどね」
アシュはひとりで言った。
進む。
確かに進む。
でも少し、静かすぎた。
*
昼前、アシュは村の家へ包丁を見に行くことになった。
リゼラはまだ戻っていない。
アシュは台所に、小さな紙を置いた。
『戻ったら、鍋のスープを温めてください。
パンはスープに浸すと食べやすいです。
肉は少しだけ。足りなければ追加してください。
水も飲んでください。』
書いてから、少し迷う。
最後に一行足した。
『全部食べなくてもいいので、少しは食べてください。』
いや、少し弱い。
アシュはその下に、さらに小さく書いた。
『食べてくれると、僕が嬉しいです。』
書いたあとで、少し恥ずかしくなった。
「……これは、まあ、いいか」
押しつけではない。
たぶん。
アシュはメモを鍋の横に置いた。
火は小さく残してある。
温め方も分かるはずだ。
分かるはず。
少し不安になって、もう一枚書いた。
『火は強くしすぎないでください。』
さらに不安になって、もう一枚足した。
『焦げたら、僕が少し泣きます。』
さすがにこれはやりすぎかと思ったが、置いておいた。
*
リゼラが戻った時、家は静かだった。
「アシュ?」
返事はない。
リゼラは玄関で少し止まった。
別に、おかしなことではない。
アシュにも用事はある。
村へ行くと言っていた気もする。
ただ、家に入った時に声がないのは、少し変な感じがした。
ほんの数日前までは、ずっとそうだったはずなのに。
「……妙だな」
リゼラは手袋を外し、台所へ向かった。
鍋の横に紙がある。
アシュの字だ。
リゼラはそれを手に取った。
『戻ったら、鍋のスープを温めてください。
パンはスープに浸すと食べやすいです。
肉は少しだけ。足りなければ追加してください。
水も飲んでください。』
指示が細かい。
しかし分かりやすい。
リゼラは少しだけ口元を緩めた。
「私を何だと思っている、子ども扱いしおって…」
そう言って、次の一行を見た。
『食べてくれると、僕が嬉しいです。』
リゼラは黙った。
少し長く、その文字を見た。
「……卑怯だな」
小さく言った。
そんなことを書かれると、食べないわけにいかない。
次の紙を見る。
『火は強くしすぎないでください。』
「分かっている」
もう一枚。
『焦げたら、僕が少し泣きます。』
リゼラは真顔で止まった。
「……泣くのか」
想像してしまった。
アシュが焦げた鍋を見て、しょんぼりするところ。
少し困る。
かなり困る。
「仕方ない」
リゼラは鍋を火にかけた。
火は強くしすぎない。
アシュが泣くので。
そう考えた瞬間、自分でも少しおかしくなった。
スープが温まるまで、リゼラは椅子に座った。
家の中は静かだった。
アシュがいないと、台所の音が少ない。
包丁の音もない。
鍋を動かす音もない。
妙に明るい声もない。
数日前までは、これが普通だった。
干し肉を噛み、水を飲み、鎧を磨き、寝る。
それで何も困らなかった。
はずだった。
リゼラは、鍋を見た。
温まっていくスープから、少し香りが立つ。
帰ってきた時、食べるものがある。
それだけのことだ。
それだけのことなのに、家の中が空っぽではない気がした。
「……変な男だ」
リゼラは呟いた。
スープを器によそう。
パンを手に取る。
そのまま食べようとして、紙を思い出した。
スープに浸す。
少し待つ。
食べる。
柔らかい。
畑仕事のあとでも、食べやすい。
「……うまい」
誰もいないので、素直に言えた。
肉も一枚食べる。
しょっぱすぎない。
香草の匂いが少しする。
「これも、うまい」
また言った。
誰もいないからいい。
水も飲む。
ちゃんと飲む。
なぜか、紙に見られている気がした。
器はすぐ空になった。
全部食べるつもりはなかった。
だが、食べた。
肉も少し追加した。
少しだけ。
それから、もう一枚だけ。
「……これは、畑仕事の分だ」
誰に言うでもなく、そう言い訳した。
*
アシュが戻ったのは夕方前だった。
小さな籠を抱えている。
「ただいま戻りました」
リゼラは居間にいた。
本を開いているが、あまり読んでいる感じではない。
「戻ったか」
「はい。包丁、すごかったです。リゼラさんの家だけじゃなかったです!」
「そうか」
「報酬に野菜もらいました」
「ちゃんと受け取ったか」
「受け取りました」
「よし」
リゼラは少し満足そうだった。
アシュは台所へ行く。
鍋を見る。
かなり減っている。
皿を見る。
肉も減っている。
パンも減っている。
水差しも少し減っている。
アシュは居間へ戻った。
「リゼラさん」
「何だ」
「ちゃんと食べましたね」
「食べた」
「水も?」
「飲んだ」
「すごい」
「私は子供か」
「でも、えらいです!」
アシュが素直に言うと、リゼラは言葉に詰まった。
「……そういう言い方をするな」
「嫌でした?」
「嫌ではない」
「じゃあ言います」
「強いな、今日は」
「嬉しいので」
アシュは笑った。
リゼラは少し顔をそらす。
「メモがあったから食べた」
「メモ、役に立ちました?」
「細かすぎる」
「すみません」
「だが、分かりやすかった」
「よかったです」
「最後の紙は余計だ」
「焦げたら泣くやつですか」
「あれだ」
「焦げませんでした?」
「焦がしていない」
「ありがとうございます」
「礼を言われることか?」
「鍋が無事なので」
「お前、鍋に情でもあるのか」
「あります」
リゼラは少しだけ笑った。
それから、ふと真面目な顔になる。
「アシュ」
「はい?」
「お前がいない家は、少し静かだな」
アシュは手を止めた。
リゼラはすぐに言い足す。
「いや、悪い意味ではない。仕事はしやすい。音も少ない。邪魔もない」
「僕、邪魔ですか?」
「違う」
リゼラは少し慌てた。
珍しい。
「違う。そうではない。なんというか……」
言葉を探している。
アシュは待った。
「静かすぎた」
リゼラは小さく言った。
「前は、あれが普通だった。だが今日は、少し広く感じた」
アシュは何も言わなかった。
リゼラは視線をそらす。
「だから、メモは助かった」
「メモが?」
「お前がいないのに、お前が少しうるさかった」
アシュは一瞬きょとんとした。
それから、笑ってしまった。
「僕、紙でもうるさいんですか」
「うるさい。火を強くするな、水を飲め、少しは食え、焦がすと泣く」
「すみません」
「謝るな」
リゼラはメモを指で軽く叩いた。
大事そうに、というほどではない。
でも、捨てる気はなさそうだった。
「また書け」
アシュは目を瞬かせた。
「いいんですか?」
「いる」
「命令ですか?」
「……頼んでいる」
その言い方は少しぎこちなかった。
でも、ちゃんと頼んでいた。
アシュは顔が緩むのを止められなかった。
「はい。書きます」
「笑うな」
「嬉しいので」
「すぐ嬉しそうにする」
「はい」
「犬みたいだな」
「褒めてます?」
「たぶん」
「じゃあ、受け取ります」
リゼラは少し困った顔をした。
「そこは受け取るのか」
「最近、褒められる練習中なので」
「そうだったな」
*
その夜、アシュは保存食用の棚を整えた。
まだ仮置きだが、場所を分ける。
すぐ食べるもの。
温めるもの。
畑に持っていくもの。
調理が必要なもの。
リゼラは横で見ていた。
「ここまで分けるのか」
「疲れてる時は、探すだけで食べる気がなくなるので」
「それは分かる」
「分かりますよね」
「分かるが、認めたくはない」
「認めてください」
アシュは小さな紙を棚に貼った。
『すぐ食べるもの』
『温めるもの』
『畑に持っていくもの』
リゼラはそれをじっと見た。
「字があると、迷わないな」
「はい」
「私は台所で迷子になっていたのか」
「少し」
「少しか?」
「けっこう」
「正直だな」
「すみません」
アシュは新しい紙を用意した。
「明日用のメモも書いておきます」
「焦げると泣く、は書くのか」
「書きます?」
「……少しなら」
「少しなら?」
「少しなら、うるさくていい」
アシュは嬉しくなって、紙に向かった。
リゼラは棚を見る。
まだ少ない。
でも、ここに食べ物が増えていく。
帰ってきたら、食べるものがある。
温め方の紙がある。
水を飲めと書かれている。
焦がすなと書かれている。
うるさい。
だが、悪くなかった。
「アシュ」
「はい」
「今日の肉は、もう少し多くてもよかった」
アシュは振り返った。
「気に入りました?」
「畑仕事のあとなら、あれくらいは食える」
「じゃあ明日は増やします」
「少しだぞ」
「はい。少し」
「本当に少しだ」
「分かってます」
リゼラはそれでも、少し心配そうに言った。
「でも、少なすぎるのも困る」
アシュは笑った。
「はい。ちょうどよくします」
「できるのか」
「できます。たぶん」
「たぶんか」
「でも、頑張ります」
リゼラは少しだけ柔らかい顔になった。
「なら任せる」
「任されました」
アシュは紙に書く。
『明日の畑用。肉は少し多め。水も忘れない。』
その横に、小さく書き足した。
『焦がさない。泣くので。』
リゼラはそれを見て、少しだけ笑った。
今度は、隠さなかった。




