第三話「ヒモではなく、家事役です!」
翌朝、アシュはまだ薄暗いうちに目を覚ました。
正直、よく眠れたとは言いにくい。
与えられた部屋は空き部屋だった。
ベッドはある。毛布もある。
ただ、どちらも長く使われていなかったらしく、少し埃っぽい。
文句を言える立場ではない。
昨日まで宿代すらなかったのだから、屋根と壁があるだけで十分だった。
アシュは身体を起こし、軽く伸びをした。
「……寒いな」
暖炉の火は、夜のうちに落ちていた。
家の中はまた冷えている。
まず火。
次に水。
それから朝食。
頭の中で順番を決めて、アシュは部屋を出た。
廊下も寒い。
床板が少し鳴る。
台所へ向かう途中、居間を覗くと、リゼラが椅子に座ったまま寝ていた。
「……え」
アシュは立ち止まった。
リゼラは机に片肘をつき、目を閉じている。
肩には昨日アシュがかけた毛布。
姿勢は悪い。首にも腰にも悪そうだ。
どう見ても、ちゃんと寝ていない。
「リゼラさん」
声をかけると、リゼラはすぐ目を開けた。
反応が早すぎる。
「何だ」
「何だじゃないです。そこで寝たんですか」
「少し休んでいただけだ」
「朝です」
リゼラは窓の方を見た。
外はうっすら明るい。
「……朝だな」
「ベッドで寝てくださいよ」
「椅子でも寝られる」
「寝られるかどうかじゃなくて、疲れが取れるかどうかです」
アシュが言うと、リゼラは少し面倒そうに毛布を直した。
「昨日は粥を食べたせいか、眠くなった」
「それは良いことです」
「だから少し寝た」
「椅子で?」
「椅子で。熟睡できないようにするんだ。もし敵に襲われたら…」
「敵ってなんのですか……戦線じゃあるまいし」
リゼラは眉を寄せた。
「朝からうるさいな」
「朝だからです。朝が雑な人は、一日ずっと雑になります」
「お前は朝から妙に元気だな」
「寒いので動かないと無理です」
アシュは暖炉の前へ行き、灰を確認した。
昨日よりは早い。
薪も覚えている。
火を入れる準備はすぐできた。
細い薪に火を移しながら、アシュはリゼラを見る。
「体調はどうですか」
「悪くない」
「立てますか」
リゼラは無言で立ち上がった。
昨日ほどふらつきはしない。
ただ、少し動きが重い。
「立てる」
「まあ、昨日よりは」
「何だその言い方は」
「まだ本調子じゃない言い方です」
リゼラは反論しなかった。
代わりに、机の上の空の器を見た。
「昨日の粥だが」
「はい」
「……悪くなかった」
「それはよかったです」
「ただ、薄かった」
「倒れかけた人に濃いものは出しません」
「今日は濃くしろ」
「朝なので、ほどほどにします」
「私の家だぞ」
「僕の台所です」
言ってから、アシュは少しだけ固まった。
さすがに言いすぎたかと思った。
だがリゼラは怒らなかった。
少し呆れた顔で、こちらを見ている。
「いつからお前の台所になった」
「今朝から、ですかね」
「採用した覚えはまだない」
「昨日、好きにしろって言いました」
「便利な解釈をするな」
「では、正式に聞きます」
アシュは暖炉の火が安定したのを確認してから、リゼラに向き直った。
「雇ってもらえますか。住み込みで」
リゼラは少し黙った。
眠気の残った顔ではなく、昨日初めて会った時の顔に戻る。
判断する目だ。
「条件は昨日言った通りだ」
「女を入れない。余計な詮索をしない。村で言いふらさない」
「覚えているならいい」
「報酬は?」
「相場で払う」
「住む場所と食事をもらえるなら、少なめで大丈夫です」
「それは駄目だ」
即答だった。
アシュは少し意外だった。
「駄目なんですか」
「働くなら払う。そこを曖昧にすると面倒になる」
「しっかりしてますね」
「騎士団では金のことで揉めると、だいたい碌なことにならん」
「なるほど」
生活能力は壊滅しているが、金銭感覚はまともらしい。
いや、金はあるのに干し肉生活をしていたので、まともと言っていいかは分からない。
アシュは口に出さなかった。
「では、正式に採用ということで」
「ああ」
「ありがとうございます」
アシュは頭を下げた。
思ったより、すんなり決まった。
これで今夜の寝床はある。
今日の食事もある。
仕事もある。
胸の奥が少し軽くなる。
「ではまず朝食を作ります」
「私は食べなくていい」
「はい?」
「昨日食べた。まだ腹は減っていない」
アシュはリゼラを見た。
リゼラは本気で言っている顔だった。
「昨日の夜から朝まで時間が経ってます」
「寝ていただけだ」
「寝るのにも体力を使います」
「寝るだけでか」
「身体を直すのに使います。怪我人ならなおさらです」
「怪我人扱いも継続か」
「昨日より少し格上げして、療養中の人です」
「嬉しくない」
「僕も褒めてません」
アシュは台所に向かった。
食材を確認する。
卵は残っている。
根菜もある。
硬いパンも、薄く切れば使える。
昨日の残りの粥は少しだけ。
朝なら、粥を伸ばして卵を足す。
炙ったパンを少し。
リゼラには温かいものと水分を入れればいい。
アシュが準備していると、リゼラが台所の入口まで来た。
「何か手伝うか」
「座っていてください」
「私は家主だぞ」
「今は邪魔です」
「……」
リゼラが黙った。
アシュは振り返った。
「あ、すみません。言い方が悪かったです」
「いや、言いたいことは分かった」
「台所が狭いので」
「言い直してもあまり変わらんな」
リゼラは少し不満そうにしながらも、椅子に戻った。
その姿を見て、アシュは少しだけ安心した。
昨日よりは会話ができる。
昨日は本当に危なかった。
鍋を火にかけ、粥を温め直す。
水を足し、卵を落とし、塩を少し。
昨日よりは少しだけ濃くする。
ついでに硬いパンを薄く切り、火で軽く炙った。
焦げすぎないように気をつける。
この家のパンは、普通に食べるには固い。
だがスープや粥に合わせるなら悪くない。
アシュは器をリゼラの前に置いた。
「朝食です」
「少ないな」
「昨日まで干し肉だけだった人が言うことじゃないです」
「それはそうだが」
「足りなければ追加します。まずこれを食べてください」
リゼラは匙を取り、一口食べる。
「昨日より味がある」
「少し濃くしました」
「もっと濃くしてもいい」
「ダメです。少しずつ様子を見て、調整します」
「む…」
不服そうだが、ぱくぱくと食を進めていく。
朝食を食べ終える頃には、リゼラの顔色は少し良くなっていた。
本人は気づいていないかもしれない。
アシュは水を注ぎ足す。
「今日は畑に出ますか」
「ああ。少し見ておく」
「では昼までには戻ってください」
「なぜお前が決める」
「昼食を食べるからです」
「朝食を食べたが? 一日に何度食わせる気だ」
「三度です」
リゼラは本気で面倒そうな顔をした。
「多いな」
「普通です」
「遠征中は一度で済ませることもあった」
「ここは遠征先じゃなくて家です」
リゼラは少し黙った。
その言葉が、妙に引っかかったようだった。
アシュは深追いしない。
「あと、買い出しに行きます。食材はあるけど、偏ってます」
「金は棚の小箱にある」
「簡単に教えすぎでは」
「逃げるか?」
「逃げませんよ。今逃げたら宿がないので」
「正直だな、本当に」
「信用の前借りです」
「変な言い方をする」
リゼラは棚から小袋を出し、アシュに渡した。
中には銀貨と銅貨が入っている。
思ったより多い。
「多くないですか」
「足りないよりいい」
「僕、昨日来たばかりですよ」
「逃げないのだろう?」
「逃げませんけど」
「ならいい」
アシュは小袋を受け取った。
妙に重い。
金というより、信用の重さだった。
「分かりました。帳面をつけます」
「任せる」
「そこは確認してください」
「面倒だ」
「駄目です。お金は雑にすると危ないです」
「お前、何なら雑にしていいんだ」
「昼寝の時間くらいです」
「そこは雑でいいのか」
「昼寝は大事なので」
リゼラは少しだけ、口元を緩めた。
笑ったのかもしれない。
すぐ戻ったので、確証はない。
*
午前中、リゼラは畑へ出た。
アシュは台所を軽く片付けてから、村へ買い出しに向かった。
昨日通った道を戻る。
村は朝の仕事中だった。
畑に出ている人。
井戸で水を汲む人。
家の前を掃く人。
街よりずっと狭いぶん、視線が近い。
アシュが通ると、何人かがこちらを見た。
その中年の男が、昨日道を教えてくれた人だと気づく。
「おう。生きてたか」
「はい。なんとか」
「採用されたのか?」
「たぶん……」
「たぶん?」
「朝食は作りました」
「それはもう採用だろ」
男は笑った。
近くにいた女が、興味深そうに寄ってくる。
「あんたがリゼラ様のところに入った子?」
「子という年でもないですが、そうです」
「へえ、本当に男の家事役なんだ」
「はい」
「住み込み?」
「はい」
女は少し目を丸くしたあと、楽しそうに言った。
「じゃあ、リゼラ様のヒモじゃないの」
アシュは少し黙った。
言われるとは思っていた。
思っていたが、実際に言われると返答に困る。
「家事役です」
「でも住み込みでしょ?」
「住み込み家事役です」
「ご飯も出るんでしょ?」
「作るのは僕です」
同じやり取りになりそうだったので、アシュはそこで切った。
女は悪気があるというより、面白がっているだけに見える。
この村は噂が早そうだ。
中年の男が笑いながら助け舟を出した。
「まあ、あの家を片付けられるなら大したもんだ」
「そんなに有名なんですか」
「庭を見れば分かるだろ」
「分かります」
「リゼラ様は悪い人じゃない。ただ、暮らしは下手だ」
「それも分かります」
アシュが答えると、女が声を潜めた。
「でも気をつけなさいよ。前の家政婦さん、すぐ辞めたから」
「何かあったんですか」
「詳しくは知らないけどね。ほら、リゼラ様って怖いし。女同士だと、いろいろあるじゃない」
アシュは少しだけ考えた。
求人にあった「女禁止」。
リゼラが女を家に入れたがらない理由。
昨日の時点では聞かなかった。
今も、村人から聞く話ではない気がした。
「必要なことは、本人から聞きます」
アシュが言うと、女は少し意外そうにした。
「あら。真面目ね」
「雇われているので」
「ヒモなのに?」
「家事役です」
結局、そこに戻る。
アシュは野菜と卵、豆、少しの乳製品を買った。
ついでに布巾と安い帳面も買う。
村の店主は、アシュが買うものを見て首をかしげた。
「リゼラ様の家で、こんなに料理するのか?」
「する予定です」
「へえ。そりゃいい」
「何か問題でも?」
「いや、前は干し肉と酒ばっかり買ってたからな」
「酒?」
「ああ。最近は量も減ったが、昔はな」
アシュは覚えておくことにした。
今は触らない。
まずは食事と水と寝床だ。
酒の話は、その後でいい。
*
家へ戻ると、リゼラは庭先にいた。
畑から戻ったところらしい。
額に汗が浮いている。
ただ、昨日ほど顔色は悪くない。
「早かったな」
「近かったので」
「何を買った」
「野菜、卵、豆、布巾、帳面です」
「帳面?」
「家計簿です」
「いらんだろう」
「いります。金はあると言いながら使い道がない人ほど、記録した方がいいです」
「また失礼なことを言う」
「事実です」
リゼラは買い物袋を覗き込む。
「ずいぶん買ったな」
「しばらく食生活を立て直します」
「大げさだ」
「昨日倒れかけた人の発言とは思えません」
「倒れてはいない」
「まだそこにこだわるんですか」
リゼラは顔を背けた。
話を変えたいらしい。
「村で何か言われたか」
「はい」
「何を」
「ヒモだと」
リゼラの眉が動いた。
「誰が言った」
「村の女性です。悪気はなさそうでした」
「悪気がなければいいというものでもない」
「慣れてます」
アシュは軽く言った。
「剣も魔法も駄目で、住み込みで食わせてもらって、家事だけする男ですから。世間的には近いんじゃないですか」
リゼラは黙った。
さっきまでの不機嫌とは違う沈黙だった。
アシュは袋を持ち直す。
「でも、家事役です。そこは譲りません」
「……そうだな」
リゼラが言った。
「お前は家事役だ」
「はい」
「少なくとも、私より働いている」
「そこは否定してほしかったです」
「事実だ」
「雇い主がそれを言いますか」
リゼラは少しだけ考えたあと、真面目な顔で言った。
「必要なら、村の者には私から言う」
「何をですか」
「こいつはヒモではない、と」
「それをわざわざ言うと、余計に広まりませんか」
「……そうか?」
「たぶん」
リゼラは不満そうに黙った。
アシュは少し笑いそうになったが、こらえた。
「大丈夫です。言われても困るだけで、仕事がなくなるわけじゃないので」
「腹は立たんのか」
「立たないわけじゃないですけど」
アシュは家の扉を開けた。
「今は、それより昼食です」
「また食うのか」
「昼なので」
リゼラは本当に嫌そうにした。
だが、拒否はしなかった。
アシュはそれを見て、少しだけ勝った気になった。
「今日は野菜を使います」
「肉は?」
「少し入れます」
「少しか」
「身体を慣らすところからです」
「私は病人ではない」
「はいはい。療養中の騎士ですね」
「雑に流すな」
家に入ると、朝より少しだけ暖かかった。
暖炉の火は残っている。
机の上も、昨日よりは使える。
水差しには水がある。
まだ散らかっている。
仕事はいくらでもある。
けれど、昨日の夕方とは違う。
アシュは買ってきた食材を台所に並べた。
「リゼラさん」
「何だ」
「今日から帳面をつけます。食費、薪、布巾、道具類。あと僕の報酬」
「好きにしろ」
「好きにします」
アシュは帳面を開いた。
最初の行に日付を書く。
その下に、買ったものを書く。
野菜。卵。豆。布巾。帳面。
少し迷ってから、最後に小さく書き足した。
住み込み家事役、採用。
リゼラが横から覗く。
「何を書いた」
「記録です」
「ヒモとは書いていないだろうな」
「書いてません」
「ならいい」
アシュは帳面を閉じた。
「まあ、仮に書くとしても」
「書くな」
「“ヒモではなく家事役”にしておきます」
リゼラはしばらくアシュを見ていた。
それから、小さく息を吐いた。
「好きにしろ」
「では、好きにします」
アシュは袖をまくった。
昼食の準備を始める。
この家でやることは多い。
けれど、昨日よりは少しだけ、居場所の形をしていた。




