第四話「パンは割らずに戻します」
昼食の前に、アシュは台所の整理を始めた。
まず、机の上のものを全部どける。
干し肉。
硬いパン。
空き瓶。
使った皿。
農具の部品。
鎧を磨く布。
アシュは最後の布をつまみ上げた。
「これ、台所に置くものじゃないですよ」
「拭けるぞ」
「拭ければいいわけじゃないです」
「綺麗な布だ」
「鎧用ですよね?」
「鎧用だな」
「じゃあ台所から退場です」
アシュは布を畳んで、鎧の近くへ戻した。
リゼラは台所の入り口に立っていた。
腕を組んでいる。
何かを手伝うでもなく、ただ見ている。
それが少し邪魔だった。
「リゼラさん」
「何だ」
「そこに立ってると、通れないです」
「私は家主だが」
「今は障害物です」
「……分かった」
リゼラは一歩下がった。
意外と素直だった。
アシュは食材を分ける。
今日使うもの。
あとで下処理するもの。
保存しておくもの。
そのまま食べない方がいいもの。
最後の皿に、硬いパンを置いた。
リゼラがすぐに反応した。
「それは捨てるのか?」
「捨てません。あとで使います」
「なら、なぜ分ける」
「そのまま食べるには硬すぎます」
「食える」
「食えると、食べやすいは違います」
「昨日まで食っていた」
「昨日までの歯が偉いですね」
リゼラは納得していない顔だった。
アシュは硬パンを指で叩いた。
こつ、と音がした。
パンの音ではなかった。
「これはスープに入れます。水分を吸わせれば食べやすくなるので」
「そのままでも食える」
「歯に悪いです」
「私は負けんが?」
「リゼラさんではなく歯の話です」
「同じだろう」
「違います」
リゼラはまだ不満そうだった。
アシュは水桶を持った。
「水を汲んできます。戻るまで、そのパンは置いておいてください」
「分かった」
「本当に?」
「分かったと言った」
「顔が納得してません」
「顔までは従わせられん」
「じゃあ手だけ従わせてください」
リゼラは無言で腕を組み直した。
たぶん大丈夫だろう。
たぶん。
*
水を汲んで戻ると、台所から変な音がした。
ぎし。
めき。
ごり。
アシュは水桶を置いた。
台所を覗く。
リゼラがいた。
さっきの硬パンを両手で持っている。
割ろうとしていた。
「……何をしてるんですか」
「食えるか確認している」
「手で?」
「手で」
「確認方法が変です」
「刃物を使うと、負けた気がするだろ」
「発想がもうおかしいです……」
リゼラはそのまま力を込めた。
止める間もなかった。
めきっ。
硬パンが割れた。
木の枝みたいな音だった。
アシュは割れたパンを見た。
リゼラは、少しだけ満足そうだった。
「割れた」
「パンって、そんな音しましたっけ」
「した」
「しない方がいいです」
「だが、食える」
「割れたから食える、ではないです」
アシュは片方を受け取った。
硬い。
だが使えないわけではない。
スープに入れればどうにかなる。
「これは使います。でも今後は割らないでください」
「なぜだ」
「台所で木材加工みたいな音がすると怖いので」
「パンだぞ」
「パンならなおさらです」
リゼラは少し考えた。
「もったいないと思った」
声が少しだけ低くなった。
「遠征では、硬いパンでも食った。食えるものを捨てるのは、落ち着かん」
アシュは黙った。
そこは笑うところではなかった。
リゼラがパンを割ったのは、単に変な人だからではない。
戦場の癖だ。
食えるなら食う。
使えるなら使う。
捨てない。
その感覚は、アシュにも分からなくはなかった。
「捨てませんよ」
アシュは言った。
「ちゃんと食べます。ただ、食べ方を変えます」
「食べ方を?」
「はい。そのまま噛むんじゃなくて、戻します」
「戻す」
「スープを吸わせます」
リゼラは割れた硬パンを見た。
「それで食えるのか」
「むしろ、その方が美味しいです」
「……そうか」
リゼラはまだ少し疑っているようだったが、パンからは手を離した。
アシュは包丁を手に取る。
刃を見る。
やはり鈍い。
「まず包丁を研ぎます」
「切れないのか」
「切れません」
「昨日まで切っていたが」
「昨日まで押し潰していたんだと思います」
「そうか?」
「そうです」
アシュは砥石を出し、水を含ませた。
包丁を当てて、ゆっくり研ぐ。
リゼラは横から見ていた。
さっきまで硬パンを割っていた人とは思えないくらい、真面目な顔だった。
「剣とは違うな」
「少し違います。薄いので」
「力を入れすぎると傷むか」
「そうです」
「鎧の金具と同じだな」
「かなり近いです」
リゼラは少しだけ満足そうにした。
「それなら分かる」
「台所も鎧と同じで、放っておくと駄目になります」
「この台所は?」
「かなり放っておかれた鎧です」
「ひどいな」
「ひどいです」
「直るか」
「直します」
アシュは研ぎ終えた包丁で根菜を切った。
さっきより刃が入る。
小さく切るもの。
少し大きめに残すもの。
香りを出すもの。
リゼラは不思議そうに見ている。
「全部同じ大きさにはしないのか」
「火の通り方を変えたいので」
「面倒だな」
「料理は面倒です」
「だが、昨日より腹が立たない面倒さだ」
「どういう意味ですか」
「分からん。だが、見ていると少し納得する」
アシュは保存魔法のかかった肉を出した。
状態は悪くない。
ただ、香りは弱い。
厚く切って焼くと、硬くて味がぼやける。
今日は薄く切って、根菜と一緒に煮る。
アシュが肉を薄く切っていると、リゼラが言った。
「肉は厚い方がよくないか?」
「今日は薄い方がいいです」
「食べた気がしない」
「食べたあとに疲れます」
「肉で疲れるのか?」
「弱ってる時は疲れます」
「私は弱っていない」
「昨日ふらつきました」
「倒れてはいない」
「そこはもういいです」
アシュが流すと、リゼラは少し不満そうにした。
だが、それ以上は言わなかった。
鍋に少量の脂を入れる。
肉を入れて、強く焼きすぎない程度に温める。
香りが出たところで根菜を入れる。
水を加え、火を弱める。
リゼラは鍋を覗いた。
「火が弱いな」
「強くすると硬くなります」
「早い方がいいと思っていた」
「早いと雑になることもあります」
「……耳が痛いな」
「自覚はあるんですね」
「少しはある」
アシュは少し笑った。
リゼラは見ていないふりをした。
「リゼラさん、手伝います?」
「できることがあるなら」
「根菜の皮を剥いてください。薄く」
「分かった」
アシュは小さなナイフを渡した。
リゼラは根菜を持った。
表情が変わる。
真剣すぎる。
「そんなに構えなくても大丈夫です」
「刃物を持っている」
「持ってるのは根菜です」
「油断はしない」
「台所で死なないでください」
リゼラは皮を剥いた。
ざく。
ざく。
ざく。
根菜が細くなっていく。
アシュは少し待った。
それから言った。
「……リゼラさん」
「何だ」
「食べるところがほぼ残ってません」
「傷んだところを落とした」
「傷んでません」
「色が違った」
「そこは皮です」
「皮とは、削る部分ではないのか」
「削りますけど、そこまでではないです」
リゼラは手元の根菜を見た。
半分くらいになっていた。
「……難しい」
アシュは別の根菜を渡した。
「次は、もう少し残しましょう」
「分かった」
次は少し良くなった。
まだ厚い。
でも、食べる部分は残っている。
「いいですね。さっきより残ってます」
「褒め方が雑だな」
リゼラは少し不満そうだったが、手は止めなかった。
古い香草の瓶を開ける。
匂いは弱いが、少しなら使える。
リゼラが瓶を持ち上げた。
「多い方が効くんじゃないか?」
「薬じゃないんですから」
「違うのか?」
「料理です」
「薬草に似ている」
「似てますけど、全部入れると草の味になります」
「草の味になるのは、困るな」
「困ります」
香草は少しだけ。
最後の方で入れる。
そして、さっきの硬パンを小さく割る。
すでにリゼラが割ったので、形は不揃いだった。
まあ、使える。
鍋に入れる。
硬パンが汁を吸って、ゆっくり沈んでいく。
リゼラはそれを見ていた。
「沈んだ」
「戻ってます」
「食えるようになるのか」
「なります」
「昨日まで私は、これを歯で割っていた」
「歯が無事でよかったです」
「少し痛い時はあった」
「無事でよかったですね……」
最後に卵を溶く。
火を弱め、細く流し入れる。
強く混ぜずに、少し待つ。
卵がふわっと固まる。
スープには軽いとろみがついた。
保存肉の香りは強くない。
その分、根菜の甘みと香草を少しだけ使う。
硬パンは汁を吸って柔らかくなっている。
派手な料理ではない。
でも、今のリゼラにはこれでいい。
温かい。
食べやすい。
腹に残る。
無駄も出ない。
「できました」
アシュは器によそった。
リゼラは匙を取る。
「熱いので、少し待ってください」
「分かった」
リゼラは一応待った。
待ち方は短かった。
口に運ぶ。
しばらく黙る。
「柔らかい」
「はい」
「さっきのパンか?」
「さっきのパンです」
「別物だな」
「戻したので」
リゼラはもう一口食べた。
「肉も食いやすい」
「薄くしました」
「野菜が甘い」
「ゆっくり火を入れました」
「同じ材料か?」
「ほぼ同じです」
リゼラは器の中を見た。
「昨日まで、私は何を食べていたんだろうな」
「食材を温めたもの、ですかね」
「料理ではなく?」
「料理の手前くらいです」
「厳しい」
「台所なので」
リゼラは少し笑った。
小さく、本当に少しだけ。
「硬いものを、力でどうにかしなくてもいいのだな」
「はい」
「水を吸わせる。火を入れる。食べられる形にする」
「そうです」
「……料理は、兵站に似ているな」
「急に騎士団っぽくなりましたね」
「食える形に整えて、動ける身体を作る。無駄を減らす。保存する。配る。兵站だろう」
アシュは少し考えた。
「だいたい合ってます」
「合っているのか」
「悔しいですけど」
「なぜ悔しい」
「料理をそんな物騒に理解されたくなかったので」
リゼラは満足そうに食べ進めた。
器は空になった。
「もう少しあるか」
「あります。少しだけなら」
「少しでいい」
アシュは少しだけ足した。
昨日は食事そのものに興味がなさそうだった。
今日は、ちゃんと器の中を見ている。
それだけで、かなり変わった。
「アシュ」
「はい」
「包丁の研ぎ方を教えろ」
「覚えるんですか?」
「パンに負けたままでは落ち着かん」
「やっぱり負けたと思ってるんですね」
「あと、根菜もだ」
「皮剥きですか」
「さっきのは削りすぎた」
「かなり」
「……かなりだな」
自分で認めた。
アシュは少し笑った。
リゼラが睨む。
「笑うな」
「すみません。リゼラさんが根菜に反省してるのが、ちょっと」
「反省はする。私は成長する騎士だ」
「対象が根菜ですけどね」
「対象は問題ではない。昨日より前進すればいい」
そこは少しかっこよかった。
ただし、対象は根菜だった。
「じゃあ、あとで教えます」
「ああ」
「ただ、野菜に急所はありません」
「たぶん、だろう?」
「そこ覚えなくていいです」
食後、アシュは帳面を開いた。
今日の欄に書く。
包丁を研いだ。
硬パン、割られる。
保存肉と根菜のパンスープ。
リゼラさん、根菜を削りすぎた。
包丁研ぎに興味。
「何を書いている」
リゼラが覗き込む。
アシュは帳面を閉じた。
「家計簿です」
「今の量にしては長かった」
「家計は複雑なので」
「見せろ」
「嫌です」
「雇い主だぞ」
「家事役にも秘密はあります」
リゼラは目を細めた。
「まさか、ヒモと書いていないだろうな」
「書いてません」
「ならいい」
「そこはいいんですね」
アシュは帳面を抱えたまま、台所を見回した。
まだまだ直すところは多い。
鍋。
まな板。
棚。
床。
保存食の置き場。
でも、包丁は少し切れるようになった。
硬いパンは食事になった。
リゼラは、台所に少し興味を持った。
「リゼラさん」
「何だ」
「この台所、まだ直しますからね」
「ああ」
「嫌そうじゃないですね」
「少し面白かった」
「台所が?」
「パンが柔らかくなるところが」
「そこですか」
「あと、根菜にはまた勝負を挑む」
「勝負て」
リゼラは少しだけ笑った。
今度は、隠さなかった。
アシュはそれを見て、今日の昼食は成功だったと思った。




