第十三話「女として見られたくなかった」
昼前、アシュは台所で茶の葉を整理していた。
昨日、村で買ってきたものだ。
少し高かったが、香りは悪くない。
リゼラは居間で剣の手入れをしている。
最近、その光景にも少し慣れてきた。
剣を磨くリゼラは静かだ。
台所で根菜に苦戦していた人と同じとは思えないくらい、手つきが迷わない。
アシュはその横顔を見るたび、少しだけ背筋が伸びる。
「アシュ」
「はい?」
「何を見ている」
「あ、すみません。かっこいいなって」
リゼラの手が一瞬止まった。
「……そういうことを、すぐ言うな」
「出ました」
「少しは止めろ」
「難しいです」
リゼラは困ったように剣へ視線を戻す。
けれど、耳が少し赤かった。
アシュはそれ以上言わず、茶葉を棚にしまった。
その時、外で馬の足音がした。
リゼラの顔が変わった。
ほんの一瞬で、居間の空気が固くなる。
アシュは手を止めた。
「お客さんですか?」
「……分からん」
リゼラは剣を置き、立ち上がった。
ついさっきまで暖炉の横にいた女ではない。
背筋がまっすぐ伸びる。
目の色が変わる。
声を出していないのに、もう命令を下せる人間の顔になっていた。
扉が叩かれる。
「リゼラ隊長。突然の訪問、お許しください」
リゼラは少しだけ息を止めた。
それから、低く答えた。
「入れ」
扉が開く。
入ってきたのは、若い男だった。
年は二十代半ばほど。
旅装だが、見るからに軍人と思わせる風格がある。
彼はリゼラを見るなり、深く頭を下げた。
「お久しぶりです、隊長」
「今は隊長ではない」
「自分にとっては、今も隊長です」
男はそう言って、顔を上げた。
そして、アシュを見た。
目が止まる。
明らかに動揺の色が宿る。
アシュは軽く頭を下げた。
「えっと、アシュです。住み込みの家事役をしています」
「家事役」
男は復唱しそうになって、途中でやめた。
たぶん、かなり驚いている。
リゼラの家に、若い男がいる。
それも、台所から顔を出している。
驚くなという方が無理だった。
リゼラは男の視線に気づいた。
その瞬間、少しだけ声が硬くなる。
「私が雇った」
「はっ」
男は姿勢を正した。
アシュは、その反応で察した。
リゼラは、今この人の前で「家の中のリゼラ」を見られたくない。
暖炉の前で寝るリゼラ。
おかえりと言ってしまって動揺するリゼラ。
そういうリゼラを、この人には見せたくないのだ。
アシュは一歩下がった。
「お茶を用意しますね」
リゼラはこちらを見なかった。
ただ、短く言う。
「頼む」
「はい」
その声も、少しよそ行きだった。
アシュは小さく息を吸い、台所へ戻った。
*
茶を淹れる間、居間から二人の声が聞こえた。
男の名は、カイルというらしい。
元騎士団の部下。
今は別の隊に所属している。
用件は、近くの街へ移る途中に挨拶へ寄った、というものだった。
ただ、それだけではなさそうだった。
「足の具合は」
「問題ない」
「無理はされていませんか」
「していない」
アシュは茶を注ぎながら、少しだけ目を細めた。
している。
かなりしている。
いや、最近は少しましになった。
だが、リゼラが「していない」と言い切ると、どうしても言いたくなる。
言わない。
今日は言わない方がいい。
アシュは茶と軽食を盆に載せた。
軽食は、保存パンに薄い肉と香草を挟んだもの。
食べやすいように小さく切ってある。
居間へ運ぶと、カイルがまた少し驚いた顔をした。
「これは」
「軽食です。長旅の後なら、少し食べた方がいいかと思って」
「お気遣い、ありがとうございます」
カイルは丁寧に礼をした。
その視線が、また少しアシュとリゼラの間を行き来する。
リゼラは、あえて見ないふりをした。
「アシュ」
「はい」
「余計なことはしなくていい」
声が硬い。
アシュは一瞬だけ胸がちくっとした。
でも、すぐに笑った。
「はい。では、台所にいます」
余計なこと、という言い方は少し痛かった。
けれど、本当にそう思っているのではない。
たぶん。
今は、リゼラがその心に鎧を着ているだけだ。
アシュは台所へ戻った。
それでいい。
*
居間では、カイルが茶を飲んでいた。
「おいしいですね」
「アシュが淹れた」
リゼラは短く答えた。
言ってから、少し口を閉じた。
今の一言に、余計な柔らかさが混じったことに気づいたのかもしれない。
カイルはそれを見逃さなかった。
少しだけ表情を緩める。
「良い方のようですね」
「仕事はする」
「隊長がそう言うなら、かなりの方ですね」
「大げさだ」
「大げさではありません。隊長は、使えない人間をそばに置きません」
リゼラは返事をしなかった。
アシュは台所で、布巾を畳みながらその言葉を聞いてしまった。
少し嬉しかった。
いや、かなり嬉しかった。
顔に出そうになったので、誰も見ていないのに俯いた。
居間では話が続いている。
「隊の者たちも、時々話しています。隊長はどうしているだろうと」
「畑を見ている」
「畑ですか」
「そうだ」
少し間があった。
カイルは驚いたのだろう。
リゼラは続けた。
「家の周りの畑だ。根菜と豆と香草。最近は保存食も増えた」
アシュは布巾を落としかけた。
リゼラが、自分からそんな話をしている。
カイルも意外そうだった。
「保存食まで?」
「アシュが作る」
また、言った。
リゼラは少しだけ視線をそらした。
カイルは穏やかに笑った。
「隊長が食事の話をされるとは、珍しい」
「悪いか」
「いえ。少し安心しました」
「安心?」
「はい」
カイルは茶碗を置いた。
「以前の隊長は、休むことも食べることも、後回しでしたから」
「必要なことを優先していただけだ」
「それで何度も倒れかけました」
「倒れてはいない」
アシュは台所で手を止めた。
同じことを言っている。
やっぱり昔からなのだ。
少し笑いそうになったが、笑えなかった。
カイルは静かに言った。
「自分たちは、それが心配でした」
居間が少し静かになる。
リゼラは、すぐには答えなかった。
「……余計な心配だ」
「そう言われると思いました」
「なら言うな」
「言わないと、また気づかないでしょう」
リゼラは黙った。
アシュは、カイルという人を少し見直した。
この人は、リゼラを怖がっているだけではない。
ちゃんと心配している。
ただし、元部下として。
家の中のリゼラを知らない人として。
*
しばらくして、カイルは立ち上がった。
「長居しました」
「泊まっていかなくていいのか」
「今日は次の村まで行きます」
「そうか」
リゼラは立ち上がる。
アシュも台所から出て、見送りのために控えた。
カイルはアシュに向き直る。
「アシュさん」
「はい」
「隊長を、よろしくお願いします」
アシュは少し困った。
よろしくお願いします、と言われても、自分は家事役だ。
元部下から、そんなふうに言われる立場ではない気がする。
でも、適当に流すのも違う。
「できることは、します」
アシュはそう答えた。
「僕、戦うのは無理ですけど。食事とか、寝具とか、そういうことなら」
言ってから、少し照れた。
「そこだけは、頑張れます」
カイルは少し目を細めた。
「それが一番ありがたいです」
リゼラが横から言った。
「大げさだ」
「大げさではありません」
カイルは今度、リゼラに向き直った。
「隊長。失礼を承知で申し上げます」
「何だ」
「以前より、顔色がいいです」
リゼラは少し固まった。
「そうか」
「はい。少し、柔らかくなられました」
「……余計なことを言うな」
「申し訳ありません」
カイルは頭を下げた。
けれど、少し笑っていた。
「でも、よかったです」
リゼラは返事をしなかった。
ただ、玄関の外まで見送った。
カイルは馬に乗り、最後にもう一度頭を下げた。
「また伺います」
「好きにしろ」
「はい」
馬の足音が遠ざかる。
リゼラはしばらく外を見ていた。
アシュは何も言わず、少し後ろに立っていた。
*
扉を閉めると、家の中は急に静かになった。
リゼラは居間へ戻る。
歩き方はいつも通りだが、肩が少し重そうだった。
騎士団長の顔をしていた時間の分だけ、疲れたのだろう。
アシュは台所へ行き、残っていた茶を温め直した。
軽食も少し追加する。
居間へ戻ると、リゼラは椅子に座っていた。
剣の近くではない。
暖炉の横の椅子でもない。
少し中途半端な場所に、座っていた。
アシュは盆を置いた。
「お茶、もう少しあります」
「いらん」
「では、置いておきます」
「……置くのか」
「はい。いらなければ飲まなくていいです」
リゼラは茶碗を見た。
少しして、手に取った。
「飲むんですね」
「置かれたからな」
「えへへ。置いてよかったです」
「そういう顔をするな」
「嬉しいので」
リゼラは茶を飲んだ。
今度の声は、家の中の声に戻っていた。
少し低く、少し疲れていて、少しだけ素直。
「疲れました?」
アシュは聞いた。
リゼラは少しだけ眉を寄せる。
「疲れていない」
いつもの返事。
けれど、アシュはもう少し待った。
リゼラは茶碗を置く。
「……少しだ」
「はい」
「昔の顔に戻るのは、少し疲れる」
アシュは黙って頷いた。
「カイルさん、いい人ですね」
「ああ。いい部下だった」
「心配してました」
「昔からだ」
「リゼラさん、心配されるの下手ですもんね」
「下手とは何だ」
「受け取り方が」
リゼラは言い返そうとして、やめた。
少しだけ思い当たるのだろう。
「……そうかもしれん」
アシュは驚いた。
リゼラが素直に認めた。
顔に出た。
リゼラがすぐに気づく。
「嬉しそうにするな」
「すみません。今の、ちょっと貴重だったので」
「記録するな」
「帳面には書きません」
「本当か」
「たぶん」
「おい」
「書かないです!」
リゼラは少しだけ笑った。
でも、すぐに静かになる。
「アシュ」
「はい」
「今日、少し距離を取った」
アシュは少しだけ目を伏せた。
「はい」
「気づいたか」
「気づきました」
「嫌だったか」
アシュはすぐには答えなかった。
嫌だった、と言えば、リゼラは困る。
嫌ではなかった、と言えば、少し嘘になる。
だから、正直に言った。
「ちょっとだけ、寂しかったです」
リゼラの表情が少し揺れた。
アシュは慌てて続ける。
「でも、分かります。元部下さんの前で、家の中のリゼラさんを見せたくなかったんですよね」
リゼラは茶碗を見た。
「……そうだ」
「なら、大丈夫です」
「大丈夫なのか」
「はい。僕、裏方できます」
アシュは少し笑った。
「台所に引っ込むのも、茶を出すのも、余計なことを言わないのも。たぶん、できます」
「たぶんか」
「頑張ります」
リゼラは何か言おうとして、黙った。
それから、ぽつりと言う。
「私は、部下に女として見られたくなかった」
アシュは息を止めた。
リゼラは続ける。
「家に男を置いている。食事を作らせている。寝室を整えさせている。そう思われるのが、どうにも落ち着かなかった」
「はい」
「騎士だった頃の私を知っている者に、今の私を見られるのは……少し、怖い」
リゼラは、茶碗を両手で持った。
強い人の手にしては、少し頼りない持ち方だった。
アシュは、その手を見てから、静かに言った。
「隠したいなら、隠します」
リゼラは顔を上げた。
「何を」
「僕のことです」
アシュは、できるだけ軽く言った。
「元部下さんが来る時は、台所にいます。必要なら、ただの使用人みたいにします。家のことも、あまり言いません」
「……それでいいのか」
「リゼラさんが楽なら」
アシュは少し笑う。
「僕、リゼラさんの家事役なので」
リゼラは黙った。
長い沈黙だった。
「お前は」
リゼラが言う。
「そういうところで、妙に大人だな」
「そうですか?」
「ああ」
「でも今、ちょっと寂しいって言いました」
「それも聞いた」
「そこは忘れてください」
「忘れん」
「えっ」
「私も、覚えておく」
リゼラは茶を一口飲んだ。
それから、少しだけ目をそらして言った。
「次にカイルが来た時は、隠すかどうか考える」
「はい」
「すぐには決められん」
「はい」
「だが、今日の茶と軽食は……助かった」
アシュはぱっと顔を明るくした。
「ほんとですか!」
「その顔は早い」
「嬉しくて」
「分かっている」
リゼラは困ったように息を吐いた。
「あと、余計なことを言わなかったのも助かった」
「頑張りました」
「頑張った顔をするな」
「しました」
「見れば分かる」
リゼラは、少し笑った。
その笑い方は、さっきカイルの前で見せたものとは違った。
柔らかく、疲れていて、少しだけ安心している。
アシュはそれを見て、今日一番ほっとした。
*
夕食は、軽めにした。
リゼラは疲れている時ほど、重いものを食べようとする。
だから、アシュは温かいスープと、薄く焼いたパンを出した。
肉は少しだけ多め。
少しだけ。
リゼラは器を見て言った。
「肉が少ない」
「疲れてる時は軽めです」
「疲れていない」
「少しって言いました」
「言ったか」
「言いました」
「……言ったな」
リゼラは不満そうにスープを飲んだ。
だが、すぐに黙った。
「うまい」
「ありがとうございます!」
「毎回嬉しそうだな」
「毎回嬉しいです」
「そうだったな」
いつものやり取りに戻った。
アシュはそれが嬉しかった。
食後、リゼラは暖炉の前の椅子に座った。
毛布は椅子の背にある。
今日は自分で取った。
アシュはそれを見て、何も言わなかった。
言わない方がいい。
リゼラは毛布を肩にかけ、暖炉を見たまま言った。
「今日は、少し疲れた」
アシュは台所から、静かに答えた。
「はい」
「昔の私と、今の私が同じ家にいるみたいだった」
「はい」
「落ち着かん」
「明日は、普通の日にしましょう」
リゼラは少しだけ振り返った。
「普通の日?」
「畑を見て、食事して、暖炉をつける日です」
リゼラは小さく息を吐いた。
「それは、悪くないな」
「はい。悪くないです」
アシュは帳面を開いた。
今日の欄に書く。
元部下、カイルさん来訪。
茶と軽食。
リゼラさん、少し疲れた。
明日は普通の日。
最後に一行だけ、迷ってから足す。
隠すかどうかは、まだ決めない。
リゼラは暖炉の前で、しばらく毛布を握っていた。
その手は、剣を持つ時より少しだけ緩かった。




