第十二話「…おかえり」
朝食のあと、アシュは帳面を見ながら言った。
「今日は村へ行ってきます」
リゼラはスープを飲む手を止めた。
「買い出しか」
「はい。食材と布と、あと砥石を見てきます」
「砥石ならあるだろう」
「ありますけど、もう少しいいのが欲しいんです。包丁用に」
「家事は道具が多いな」
「騎士も多いじゃないですか。剣とか鎧とか手入れ布とか油とか」
「それは必要だ」
「家事も必要です」
リゼラは少し考えて、うなずいた。
「そうか」
最近、リゼラはこういう時にあまり反論しなくなった。
アシュはそれが少し嬉しい。
「夕方までには戻ります」
「分かった」
「夕食は戻ってから作りますけど、遅くなったら保存食を温めてください」
「分かっている」
「火は強くしすぎず」
「分かっている」
「水も飲んで」
「分かっていると言ってるのに」
「肉は一気に全部食べないで」
「……分かっている」
最後だけ少し間があった。
アシュはじっと見た。
リゼラは顔をそらした。
「分かっていると言った」
そのふてくされ方にアシュは笑った。
それから、小さな紙を台所の棚に貼る。
『遅くなった時用。
鍋のスープを弱火で温める。
パンは浸す。
肉は少しずつ。
水も飲む。』
最後に、少し迷ってから書き足した。
『焦げたら、僕がしょんぼりします。』
リゼラはそれを横から見た。
「また泣くのか」
「今回はしょんぼりです」
「心配しなくとも、焦がさない」
「ありがとうございます!」
「しょんぼりされると面倒だからな」
「面倒でも、気をつけてくれるの嬉しいです」
リゼラは返事をしなかった。
少しだけ耳が赤くなっている。
アシュは見なかったふりをした。
「じゃあ、行ってきます」
玄関でアシュが言うと、リゼラは少し遅れて言った。
「……行ってこい」
その言い方は、まだ少し固い。
けれど、最初よりずっと心を許した言葉だった。
*
アシュが出ていくと、家は静かになった。
リゼラは居間に残り、しばらく暖炉の火を見ていた。
別に寂しいわけではない。
アシュは買い出しに行っただけだ。
夕方までには戻ると言っていた。
子供ではない。
村の道で迷うほどでもない。
そう考えて、リゼラは立ち上がった。
畑へ出る。
今日は水路を見る予定だった。
アシュに持たされた水筒を二本、腰の籠に入れる。
軽食も入れる。
少し前なら、絶対にしなかった準備だ。
リゼラは籠を見下ろした。
「……多いな」
だが、置いていく気にはならなかった。
畑に出ると、風は少し冷たかった。
作業はいつも通り進む。
水路の詰まりを見て、土を戻し、支柱を直す。
水も飲む。
休憩場所にも座る。
軽食も食べる。
やるべきことはできている。
ただ、いつもなら途中でアシュが何か言う。
水を飲んでください、とか。
少し座りましょう、とか。
肉はどうでしたか、とか。
今日は言わない。
当然だ。
いないのだから。
リゼラは水筒を置き、畑の端から家の方を見た。
まだ戻る時間ではない。
分かっている。
分かっているのに、家の方を見てしまった。
*
昼過ぎ。
リゼラは家に戻り、保存食を温めた。
メモの通りにする。
弱火。
パンは浸す。
肉は少しずつ。
水も飲む。
紙の最後に書かれた、『焦げたら、僕がしょんぼりします。』 をもう一度見る。
「しょんぼり、か」
焦がさなかった。
なので、問題ない。
スープを食べながら、リゼラは向かいの席を見た。
アシュの席。
別に、そこにいる必要はない。
アシュは買い出しに行っただけだ。
そう思って、リゼラは肉を一枚食べる。
少し多めに食べた。
それから、皿を見て、少し考える。
「……少しだ」
誰に言うでもなく、言い訳した。
食後、リゼラは剣の手入れをした。
布を取る。
油を出す。
革紐を確認する。
アシュが整えた場所は使いやすい。
布も迷わない。
古い布も捨てられていない。
油の瓶もすぐ見つかる。
手入れをしている間は、落ち着いた。
ただ、終わるとまた静かになった。
暖炉の薪が、ぱち、と鳴る。
リゼラは窓の方を見た。
まだ夕方ではない。
アシュは夕方までに戻ると言った。
つまり、まだ気にする時間ではない。
リゼラは椅子に座った。
座ったまま、少しして立った。
窓へ行く。
道を見る。
誰もいない。
「……見ただけだ」
そう言って、戻る。
しばらくして、また窓を見る。
誰もいない。
リゼラは眉を寄せた。
「私は、何をしているんだ…」
自分でも分からなかった。
*
夕方が近づいた。
外の光が少し傾く。
リゼラは暖炉に薪を足した。
アシュが分けた通り、細い薪ではなく、太めの薪を選ぶ。
火は安定している。
夕食の準備は、できないわけではない。
スープは残っている。
パンもある。
肉もある。
メモもある。
けれど、リゼラは台所に立ったまま、しばらく動かなかった。
アシュが帰ってから作ると言っていた。
なら、待てばいい。
いや、遅くなったら温めろとも言っていた。
なら、温めてもいい。
どちらでもいい。
どちらでもいいはずなのに、決まらない。
リゼラは鍋の蓋を開け、また閉めた。
パンを見て、また戻した。
水差しを持ち上げ、水を飲んだ。
「……水は飲んだ」
そこだけ、なぜか報告したくなった。
相手はいない。
リゼラは居間に戻り、椅子に座った。
暖炉の前の椅子。
アシュが位置を変えた椅子だ。
毛布は椅子の背にかけてある。
今日は使わない。
まだ寝る時間ではない。
そう思いながら、リゼラは毛布の端に少し触れた。
すぐ手を離す。
窓を見る。
外は少し暗くなってきた。
リゼラは立ち上がった。
玄関の方へ行く。
別に迎えに行くわけではない。
ただ、戸口の近くに置いてある薪の様子を見るだけだ。
そういうことにした。
薪を見る。
問題ない。
ついでに、扉の外の道も見る。
誰もいない。
「遅いな」
言ってから、リゼラは固まった。
自分で言った言葉に、少し驚いた。
遅い。
そう思っていたのか。
アシュは夕方までには戻ると言った。
まだ、ひどく遅いわけではない。
だが、リゼラは遅いと思った。
リゼラは扉を閉めた。
居間へ戻る。
何もすることがないわけではない。
服の補修もある。
帳面の確認もある。
剣の手入れも終えたばかりだが、もう一度見てもいい。
けれど、何をしても玄関の音が気になった。
家とは、こんなに音を待つ場所だっただろうか。
前は違った。
自分が出て、自分が帰る。
誰かを待つことなど、ほとんどなかった。
待つのは、報告。
命令。
敵の動き。
天候。
人が帰る音ではなかった。
「……落ち着かん」
リゼラは椅子に座り直した。
膝の上で手を組む。
すぐほどく。
また窓を見る。
その時、外で足音がした。
リゼラは反射的に立った。
思ったより勢いよく立ったので、椅子が少し鳴る。
足音は玄関の前で止まった。
荷物を置く音。
戸に手をかける音。
扉が開く。
「ただいま戻りまし——」
アシュが顔を上げる。
リゼラは玄関の前に立っていた。
自分でも、なぜそこにいるのか分からない。
ただ、口が先に動いた。
「……おかえり」
言ってしまった。
リゼラはその瞬間、自分の声に驚いた。
アシュも固まった。
荷物を抱えたまま、目を丸くしている。
しばらく、玄関に沈黙が落ちた。
アシュは、何か言おうとして、すぐには言わなかった。
たぶん、今の言葉を雑に扱わない方がいいと思ったのだろう。
少し間を置いてから、アシュは小さく笑った。
「……ただいま、です」
リゼラは顔が熱くなるのを感じた。
「今のは」
「はい」
「違う」
「違うんですか」
「いや、違わないが」
リゼラは言葉に詰まった。
どう言い訳すればいいのか分からない。
おかえり。
ただ、それだけだ。
普通の家なら、たぶん普通の言葉だ。
でもリゼラにとっては、普通ではなかった。
アシュは荷物を少し持ち直した。
「えっと……遅くなってすみません」
「別に、待っていたわけではない」
言った瞬間、自分でも無理があると思った。
玄関に立っていたのだから。
アシュは笑わなかった。
そこはえらい。
少しだけ、口元が緩んでいたが。
「はい」
「本当に待っていたわけではない」
「はい」
「薪を見ていた」
「玄関で?」
「薪が玄関の近くにある」
「そうですね」
「だからだ」
「はい」
アシュは素直に頷いた。
ただ、顔が少し嬉しそうだった。
「……嬉しそうだな」
「はい」
「隠せ」
「難しいです」
「なぜだ」
「初めて、家に帰ってきた感じがしたので」
リゼラは黙った。
その言葉は、逃げ道を塞ぐようなことはなかった。
ただ、静かに置かれた。
家に帰ってきた感じ。
リゼラは、その意味を考える。
アシュはこの家に住み込んでいる。
だから帰ってくる。
リゼラはこの家で待っていた。
だから、おかえりと言った。
それだけのことだ。
それだけなのに、胸のあたりが少し落ち着かない。
「……荷物を置け」
リゼラは言った。
「重いだろう」
「あ、はい」
アシュは台所へ荷物を運んだ。
リゼラも、なぜか後ろをついていく。
買ってきたものは多かった。
根菜。
豆。
布。
砥石。
少し新しい香草。
安かったという卵。
アシュは袋から卵を出しながら言った。
「砥石、ありました。ちょっと高かったんですけど、よさそうです」
「金は足りたか」
「足りました。帳面につけます」
「確認する」
「お願いします」
いつもの会話だ。
リゼラは少し安心した。
さっきの「おかえり」を、いつもの会話で薄めようとしている。
だが、アシュは袋の中身を出しながら、ふと小さく言った。
「でも、帰ってきた時に誰かがいるの、いいですね」
リゼラは台所の入口で止まった。
「……そうか」
「はい」
「私は、別に」
「はい」
「たまたま玄関にいただけだ」
「はい」
「薪を見ていた」
「はい」
アシュは全部受け止めた。
笑いすぎない。
茶化さない。
ただ、少しだけ嬉しそうにする。
それが、リゼラには少し困った。
「アシュ」
「はい?」
「次からも」
言いかけて、止まる。
次からも、何だ。
早く帰れ?
戻ったら声をかけろ?
おかえりを言わせるな?
どれも違う気がした。
リゼラは結局、言い方を変えた。
「帰ったら、ちゃんと声を出せ」
「はい」
「扉を開けて、黙って入るな」
「分かりました」
「荷物が重いなら、呼べ」
「はい」
「……遅くなるなら、言え」
アシュは少しだけ、表情を柔らかくした。
「はい。次から、ちゃんと言います」
「心配しているわけではない」
「はい」
「夕食の段取りが狂うからだ」
「はい」
「……本当だぞ」
「はい」
アシュはそこで、少し笑った。
「リゼラさん」
「何だ」
「ありがとうございます」
「何の礼だ」
「待っててくれて」
「待っていない」
「じゃあ、心配してくれて」
「薪を見ていただけだ」
「それでも、嬉しかったです」
リゼラは顔をそらした。
言い返す言葉が見つからない。
アシュはすぐに台所へ向き直った。
「夕食、すぐ作りますね。今日は新しい香草もあります」
「肉はあるか」
「あります。少し多めにします」
「少し?」
「今日は、ちょっと多めです」
「ちょっとか」
「畑仕事と留守番、両方したので」
リゼラは一瞬、何か言おうとした。
留守番。
その言葉が、変にくすぐったかった。
家に残って、帰りを待つ。
それが留守番なら、今日の自分は確かにそうだった。
「……留守番か」
リゼラは小さく言った。
アシュは聞こえたはずだが、拾わなかった。
代わりに、嬉しそうに鍋を出す。
「今日は温かくしますね」
「ああ」
「待ってた分、お腹空いたでしょうし」
「待っていない」
「薪を見てた分?」
「……それなら、少し空いた」
アシュは笑った。
リゼラも、少しだけ笑った。
*
夕食は、いつもより少し遅くなった。
けれど、部屋は暖かかった。
暖炉には火が入っている。
テーブルにはスープとパン。
買ってきた香草の匂いが、少しだけ立っている。
リゼラはスープを一口飲んだ。
「うまい」
「ありがとうございます!」
「毎回嬉しそうだな」
「毎回嬉しいです」
「そうだったな」
アシュは少し照れたように笑う。
リゼラは器に目を落とした。
「……アシュ」
「はい」
「帰った時の言葉だが」
アシュは手を止めた。
リゼラは少し言いづらそうだった。
「忘れろ」
アシュは少し考えた。
「嫌です」
リゼラが顔を上げる。
「嫌なのか」
「はい」
「雇い主命令だ」
「家事役にも、忘れたくないことがあります」
アシュは、少し照れながら笑った。
「すごく嬉しかったので」
リゼラは黙った。
それから、スープを飲む。
「……なら、帳面には書くな」
「それは……」
「書く気だったのか」
「少しだけ」
「書くな」
「じゃあ、遠回しに書きます」
「どう書く」
アシュは少し考えた。
「リゼラさんが、心配してくれた」
微笑みながら、アシュは答えた。
「本当に、すぐ嬉しそうにする」
「はい」
「少しは隠せ」
「今日は無理です」
「なぜだ」
「おかえりって言ってもらえたので」
リゼラは片手で額を押さえた。
「言うな」
「すみません。でも、嬉しいです」
「……分かった。もう分かった」
リゼラは照れ隠しのようにパンを取った。
スープに浸す。
アシュはそれを見て、また少し嬉しそうにした。
言わない。
今日は、言わない方がいい。
それでも、帳面には書くつもりだった。
リゼラさんが、心配してくれた。
その一行だけで、今日のことは十分残せる気がした。
リゼラは食後、玄関の方を一度だけ見た。
そして、何も言わずに暖炉の前の椅子へ座った。
毛布は椅子の背にある。
アシュは台所で片付けをしながら、その背中を見る。
この家に、誰かが帰ってくる。
この家で、誰かを待つ。
その言葉を、まだ二人とも上手く扱えない。
でも今日、リゼラは確かに言った。
おかえり、と。
アシュは小さく笑って、帳面を開いた。




