第十四話「女騎士も、女なんだな、と」
翌朝、リゼラは少し不機嫌だった。
はっきり怒っているわけではない。
食卓を叩くわけでも、声を荒げるわけでもない。
ただ、返事が短い。
「スープ、熱くないですか?」
「平気だ」
「パン、もう少し焼きます?」
「いらん」
「肉、今日は少し控えめです」
「見れば分かる」
アシュはパンを置きながら、少しだけ困った。
昨日、元部下のカイルが来た。
リゼラは急に騎士団長時代の顔に戻った。
アシュとの距離も取った。
それ自体は、アシュにも分かる。
ただ、カイルが帰ったあとから、リゼラの機嫌が微妙に悪い。
いや、機嫌が悪いというより、自分で何かを持て余している感じだった。
リゼラはスープを一口飲んだ。
「うまい」
いつものように言った。
でも、少し硬い。
アシュは少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
「嬉しそうにしないのか」
「え?」
「いつも、すぐ嬉しそうにするだろう」
「あ、していいんですか」
「勝手にしろ」
「じゃあ、します」
アシュは素直に顔を明るくした。
「えへへ。うまいって言われるの、やっぱり嬉しいです」
リゼラは少しだけ目をそらした。
「……それでいい」
何がいいのかは分からなかった。
けれど、たぶんリゼラの中では何か確認したかったのだろう。
*
食後、リゼラは居間で剣の手入れをしていた。
アシュは台所で布巾を干し、保存食の棚を確認する。
家の中は静かだった。
ただ、昨日の静けさとは違う。
何か言い残したものが、居間と台所の間に置かれている。
アシュはしばらく迷った。
聞かない方がいいこともある。
でも、放っておくとリゼラは一人で悪い方へ考えそうだった。
アシュは湯を沸かし、茶を二人分淹れた。
居間へ持っていく。
「お茶です」
「頼んでいない」
「置いておきます」
「最近それが増えたな」
「置くと、だいたい飲むので」
リゼラは少し不満そうにした。
けれど、茶碗は受け取った。
アシュは向かいに座る。
すぐには話さない。
リゼラも剣を置かない。
しばらく、火の音だけがした。
先に口を開いたのは、リゼラだった。
「昨日のことを考えているのか」
「はい」
「正直だな」
「顔に出ました?」
「少し」
「リゼラさんほどじゃないです」
「私は出ていない」
「出てます」
「出ていない」
「今日は、ちょっと不機嫌です」
リゼラは黙った。
否定しなかった。
それだけで、だいたい答えだった。
「カイルさんが来たからですか」
「カイルは悪くない」
「はい」
「昔から、ああいう奴だ。真面目で、余計なことを言う」
「心配してました」
「それが余計だ」
「余計でも、悪いことではないと思います」
リゼラは茶を見た。
湯気が立っている。
「分かっている」
その声は、少し疲れていた。
「分かっているから、腹が立つ」
「自分にですか」
リゼラは返事をしなかった。
アシュは、それ以上すぐには聞かなかった。
リゼラは言葉を探している。
待った方がいい。
「私は」
リゼラはゆっくり言った。
「部下に、ああいう顔をされたくなかった」
「ああいう顔?」
「安心した顔だ」
アシュは少しだけ目を伏せた。
昨日、カイルは言った。
顔色がいい。
柔らかくなった。
よかった。
それはたぶん、本心だった。
でもリゼラにとっては、簡単に受け取れる言葉ではなかったのだろう。
「安心されるのが嫌だったんですか」
「嫌というより……」
リゼラは言葉を止めた。
「情けない」
「情けない?」
「そう見えたのではないかと思った。前線を離れ、家にいて、食事を作らせ、寝室を整えさせ、暖炉の前で休む」
リゼラは剣の柄に手を置いた。
「部下に、女として暮らしていると思われた気がした」
部屋が静かになった。
アシュは、すぐには返さなかった。
今の言葉は、軽く扱わない方がいい。
リゼラは続ける。
「女騎士も、女なんだな、と」
その言い方には、棘があった。
誰かに言われた言葉なのか。
それとも、言われる前から身構えている言葉なのか。
たぶん、両方だ。
「飯を食う。眠る。服を直す。誰かを待つ。そういうことをしている私を見て、あいつらが、そう思うのではないかと」
リゼラは唇を結んだ。
「それが、嫌だった」
アシュは茶碗を置いた。
リゼラの方を見る。
「騎士であることと、食事をすることは矛盾しません」
リゼラは顔を上げた。
アシュは続ける。
「眠ることもです。服を直すことも、暖炉の前で休むことも。リゼラさんが騎士だったことと、今ちゃんと暮らすことは、別にぶつからないと思います」
「簡単に言うな」
「簡単ではないです」
アシュは少しだけ困ったように笑った。
「でも、理屈としてはそうです」
「理屈か」
「はい。実務的に見ても」
「実務的?」
「食べない騎士は倒れます。眠らない騎士も倒れます。服を直さない騎士は、袖が裂けます。寒い部屋で我慢する騎士は、体調を崩します」
リゼラは少し黙った。
それから、低く言う。
「……身も蓋もないな」
「はい。家事なので」
「家事は、身も蓋もないのか」
「わりと」
リゼラは少しだけ息を吐いた。
笑ったのか、呆れたのか、どちらにも見えた。
「私は、そういう話をしているのではない」
「分かってます」
「本当にか」
「たぶん」
アシュは正直に答えた。
「でも、リゼラさんが言っていることを、全部気持ちの問題だけにすると、もっと苦しくなる気がします」
リゼラはアシュを見た。
アシュは少しだけ緊張した。
でも、言葉を続ける。
「だから、まず実務で言います。食べて、眠って、暖かくして、服を直して、それでもリゼラさんはリゼラさんです」
リゼラは何も言わない。
「元騎士団長だったことは、消えてないです。剣も、軍服も、畑の動きも、カイルさんへの言い方も、全部残ってます」
「……」
「そこに、暖かいスープが足されただけです」
リゼラが少し眉を動かした。
「スープか」
「はい」
「私は、スープで変わったのか」
「かなり」
「腹が立つな」
「でも、いい方向です」
リゼラは返事をしなかった。
茶碗を持ち、少し飲む。
それから、小さく言った。
「お前は、慰めが下手だな」
「すみません」
「いや」
リゼラは茶碗を置いた。
「それでいい」
アシュは少しだけほっとした。
顔に出た。
リゼラが気づく。
「また顔に出ている」
「出ました。今、かなりほっとしたので」
「すぐ出る」
「はい」
「……それも、変わらんな」
リゼラの声は少し柔らかかった。
*
昼前、アシュは洗濯物を干した。
リゼラの普段着。
布巾。
寝具のカバー。
軍服は触らない。
あれは、リゼラが決めた時だけ出すものだ。
リゼラは庭に出て、干された服を見た。
風で袖が揺れている。
畑仕事用の服。
家の中で着る服。
どれも飾り気はない。
「明るい服を着ろ、と言われたことがある」
リゼラが言った。
アシュは洗濯ばさみ代わりの木片を留めながら答える。
「軍服の話の時に言ってましたね」
「女らしく見える、と」
「はい」
「私は、それが嫌だった。明るい服が嫌なのではない。そうすれば女らしく見える、という言い方が嫌だった」
「分かります」
「本当か?」
「たぶん」
アシュは少し考えて、言った。
「僕も、家事が得意だと言うと、男なのに、と言われました」
リゼラはアシュを見る。
「男なのに?」
「はい。男なのに台所にいるのか。男なのに裁縫をするのか。男なのに力仕事より細かいことが好きなのか、って」
「腹が立つな」
「立ちました」
「言い返したのか」
「心の中で」
「またか」
「すみません」
「謝るな」
リゼラは少し不機嫌そうに言った。
自分のことより、アシュのことの方が怒りやすいらしい。
アシュは少し嬉しくなった。
「今、嬉しそうにしただろう」
「しました」
「怒られて嬉しいのか」
「僕のことで怒ってくれたので」
リゼラは少し黙った。
「……そうか」
「はい」
「なら、怒った」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。調子が狂う」
アシュは笑った。
リゼラも少しだけ口元を緩めた。
それから、庭に干された服を見た。
「男なのに。女なのに。そういう言葉は、面倒だな」
「はい」
「だが、なくならない」
「すぐには」
「なら、どうする」
アシュは少し考えた。
「家の中だけでも、少なくするしかないんじゃないですか」
「家の中だけ」
「はい」
アシュは服の袖を整えた。
「ここでは、リゼラさんは、騎士でもいいし、畑仕事する人でもいいし、スープをおかわりする人でもいいです」
「最後は必要か」
「大事です」
「大事なのか」
「最近、少し肉を増やすと嬉しそうなので」
「見ているな」
「家事役なので」
「便利な言葉だ」
「かなり便利です」
リゼラは呆れたように息を吐いた。
だが、さっきより空気は軽くなっていた。
*
昼食は、少し温かいものにした。
昨日より軽めの肉と、豆のスープ。
焼いたパン。
香草を少し。
リゼラは食卓につくと、器の中を見た。
「肉が控えめだな」
「今日は疲れてるので、軽めです」
「……そう、疲れたな」
リゼラは認めた。
アシュは顔を明るくした。
リゼラがすぐ気づく。
「そこで喜ぶな」
「認めてくれたので、つい」
「変なところで喜ぶ」
「リゼラさんが自分の疲れを認めるの、珍しいので」
「珍獣を見るような目をするな」
「してません」
「少ししている」
「すみません。ちょっとしてました」
リゼラは少し笑った。
それから、スープを飲む。
「うまい」
「ありがとうございます!」
「いつもより、声が大きい」
「今日は特に嬉しいです」
「なぜだ」
「リゼラさんが食べてくれてるので」
「毎日食っているだろう」
「今日は、ちょっと重い話のあとだったので」
リゼラはスープを見た。
「食べない方が、それらしいか?」
「それらしい?」
「傷ついた人間らしい」
アシュは首を振った。
「食べた方がいいです」
「すぐ言うな」
「そこはすぐ言います」
「なぜだ」
「食べないと、次に話す力もなくなるので」
リゼラは少し黙った。
それから、パンを取り、スープに浸した。
「では、食う」
「はい」
「次に話すために」
「はい」
「……お前は、こういう時に強いな」
アシュは一瞬止まった。
それから、少し照れた。
「わ……今の、嬉しいです」
「強いと言っただけだ」
「僕、強いってあまり言われないので」
リゼラはパンを食べながら言った。
「剣の強さではない」
「はい」
「魔法でもない」
「はい」
「だが、お前はたぶん、家の中では強い」
アシュの顔が熱くなった。
「……ありがとうございます」
「そんな顔をするな」
「無理です。今のは、かなり無理です」
「そうか」
リゼラは少し気まずそうにスープを飲んだ。
アシュはそれを見て、胸の奥が温かくなった。
*
午後、リゼラは少しだけ畑に出た。
今日は無理をしない。
アシュが水筒を持たせようとすると、リゼラは素直に受け取った。
「二本はいらん。今日は少しだけだ」
「じゃあ一本で」
「ああ」
「軽食は?」
「……少し」
「持ちます?」
「持つ」
アシュは包みを渡した。
リゼラは受け取る。
「今日は素直ですね」
「昨日、元部下に顔色がいいと言われた」
「はい」
「顔色が悪いよりは、いい方がいいのだろう」
「そうです」
「なら、少しは続ける」
アシュは嬉しくなった。
笑いそうになる。
でも、あまり騒ぐとリゼラが引っ込むので、少しだけにした。
「はい。助かります」
「お前が助かるのか」
「はい」
「変な家事役だ」
「よく言われます」
「言われているのか」
「今、リゼラさんに」
リゼラは一瞬考えたあと、小さく笑った。
「そうだったな」
畑へ向かうリゼラの背中は、いつもより少し軽かった。
全部解決したわけではない。
部下に女として見られたくない気持ちは、すぐには消えない。
騎士だった自分と、家で暮らす自分がすぐにつながるわけでもない。
でも、昼食は食べた。
水筒も持った。
軽食も持った。
それだけで、今日のところは十分だった。
*
夕方、リゼラが戻った。
玄関で足音がして、扉が開く。
アシュは台所から顔を出した。
「おかえりなさい」
リゼラは一瞬止まった。
昨日、自分が言ってしまった言葉だ。
まだ慣れていない。
けれど、今日は逃げなかった。
「……ただいま」
小さい声だった。
アシュはぱっと顔を明るくした。
「はい!」
「喜びすぎだ」
「嬉しいので」
「家事役は忙しいな」
「はい。嬉しいことが多いので」
リゼラは少し困ったように靴を脱いだ。
その顔は、まだ少し疲れている。
でも、朝よりは軽かった。
夕食の前、リゼラは剣の近くに立った。
しばらく剣を見て、それから台所のアシュを見た。
「アシュ」
「はい?」
「私は、まだ部下に今の私を見られるのが怖い」
「はい」
「女として見られるのも、家庭に収まったと思われるのも、嫌だ」
「はい」
「だが」
リゼラは少し言葉を探した。
「飯を食うことは、やめない」
アシュは少し笑った。
「はい」
「寝ることも、たぶん続ける」
「はい」
「暖炉の前で休むのも……必要なら」
「はい」
「必要なら、だ」
「はい」
アシュは、それ以上は言わなかった。
リゼラは自分で言えた。
それが大事だった。
「騎士であることと、矛盾しないのだったな」
「はい」
「なら、しばらくはそういうことにしておく」
「はい」
リゼラは少し照れくさそうに顔をそらした。
「返事が多いな」
「嬉しくて」
「またか」
「はい」
アシュは笑った。
リゼラも、ほんの少しだけ笑った。
その夜の帳面に、アシュは短く書いた。
騎士と食事は矛盾しない。
少し考えて、もう一行足す。
今日は、ただいまを言ってくれた。
さすがにこれは見られると怒られる。
アシュは帳面をそっと閉じた。
居間では、リゼラがスープを飲んでいる。
剣はいつもの場所にある。
軍服も、木箱の中にある。
暖炉には火が入っている。
リゼラはまだ、何者でもありすぎて苦しんでいる。
元騎士団長。
女騎士。
畑を見る家主。
アシュの雇い主。
でも少なくとも、この家の中では。
食事をして、眠って、帰ってきていい。
そのことだけは、少しずつ確かになり始めていた。




