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部屋から出て扉から少し離れている雪のような白さではなく、珊瑚の白のような硬さがある白い円筒の柱によりかかり(そこ以外に寄りかかる場所がなかった)因香と対面する。
柱の上に薄緑色のガラスで彩られたガスランプが、まだ明るいのに光を灯されている。
電気代もったいない。
俺が出た後、彼女の手により扉は閉められたため、あの中で話していたということは分からないだろう。
普通の人なら邪推するかもしれないからそのための嘘を考えるが、光助がそんなことに気がつけるはずがないから問題はない。
冷たい柱に手を押し付けるようにすれば、針の穴に糸を通す時のような疲れから解放されたような気がして安心できた。
疲れたな。
煙が空に昇っていくような感じを思い浮かべながら少しだけ長く息を吐いてから彼女を見たが、何を話せばいいのか分からず、自然と口を閉じてしまっていた。
因香はそこまで乱れていないのに服装や髪の乱れを整えるような仕草をしながら、何度かあいつらが来るだろう廊下の奥を確認していた。
ちらちらと警戒するような行動は小動物のようだ。
彼女も手持ち無沙汰なのだろうか。
ぱたぱたと動く手をぼーっと眺めながら、どうしてこんなことを言おうとしたのか分からないが、ふと言葉がこぼれ落ちていた。
「赤が悪で青が善なんだっけ」
「……何のことでしょうか?」
こぼれ落ちた言葉を掬い上げて因香が首を傾げている。
瞬き一つ。
スルーされると思っていたから、少しだけ反応が遅れてしまう。
「目の色」
自分の左目の下を指で押さえながら俺は答えた。
「赤というのは悪魔の目の色で、青というのは天使の目の色である的なことを聞いたことがあったのを思い出しただけだ」
「あくま、てんし……そちらの国での悪いものと善いものということですよね?」
「別に一概にそうとは言えないけどな」
左目の下をなぞるように動かしてからだらりと腕を下ろしたが、手持ち無沙汰な気持ちを抱いて腕を組む。
「違う国の文化を知るのはよい勉強になります。よかったら他のことも教えてもらえませんか?」
知ることが楽しいというのは、少しだけ分かる。
だからだろうか、断る気は起きなかった。
暇つぶしもなく、待つのも嫌だし。
これが本音だというのは内緒だ。
「話半分に聞いていたらいいと思うよ。俺だってあっているか知らないし」
「そうなのですか? 分かりました」
花が咲くような笑みを浮かべ、因香は頷いた。
年相応の表情もできるんだな、こいつ。
失礼な考えが浮かんだが、まあ、許してほしい。
彼女は自分を差し出す方法を覚えすぎている。
残酷なほどに。
「紅色って分かる?」
ちらっと奥の廊下を覗いてみたが、まだあいつらが来る気配はない。
腕を組み直してから会話を続ける。
「鮮やかな赤のことであっていますか?」
「うん、まあ、そんな感じ。じゃあ、緋色は?」
「黄色みのある赤で間違っていませんか?」
「うん、大丈夫」
色の名前は通じるんだ。
なんか変な感じ。
まあ、今更だけど。
「罪は濃い紅色や緋色。火のような色は悪魔サタンである大いなる龍の外観を象徴的に描写するのに用いられているって書いてあった気がする。多分、聖書に。だから、赤や赤に近い色は悪の象徴みたいに扱われたりすることがあるんだよ」
気がするとか多分とか説明が曖昧で説得力がない。
授業で先生が話していた程度の知識だから仕方ないけど。
彼女は考え込むように黙り込んで、唇を親指で触っている。
そして、言いたいことをまとめ終わったのか、手を胸の位置で祈るように組んで祈りの言葉のように因香は言った。
「そもそも客観的な善悪などなく、主観が善悪を作るのだと先生はおっしゃいました。だから、私は……私は……」
ぐっと指に力をいれて因香は唇を噛んでから、意を決したように口を開く。
まるで、神に懺悔をするかのようだ。
「十夜!」
ただし、その懺悔は神には届かない。
「光助」
パタパタと足音をたてながら、輝かしい笑顔を浮かべて手を振っている勇者様。
その後ろには、少しだけ嫌そうな顔をしている女。
神殿に仕える者がする顔ではない、感情むき出しの顔を誰か鼻で笑ってやればいいのに。
「どこに行ったのかと思ったよ」
こいつが犬なら、足元にじゃれついてワンワンと吠えていたかもしれない。
それほどまでに嬉しそうでちょっと引く。
「あのね、向こうに行く用意ができたのだって」
「は?」
その内容に聞き返す。
向こうっていうのは、ディアのことだろう。
明日じゃなかったのか。
「不知火さんって方がいらっしゃって、俺たちを迎えに来たって。移動するのは明日の予定だったけど、今日の夜に移動して向こうで休んでから、訓練をした方がいいのではないかって言われてね。明日でもいいのだけど、移動できるようの準備はもう終わらせておくって」
俺の手を取り、光助は口早に話す。
その様子に顔が引きつりそうになる。
というより、気になることがある。
「光助、今、何時?」
「ううん? だいたい九時とか十時くらい? 時間の数え方が俺たちと一緒なら」
不自然にならないように外を見れば、明るかったのは沢山の明かりがついているからだということが分かる。
あまりにも時間を使いすぎたようだ。
まあ、意識がなかったから仕方ない気もする。
これは光助が変なテンションになってしまうのも分からなくもない。
少しだけだけど。
「十夜?」
光助が俺の顔を覗き込む。
「なんでもないよ。とりあえず、不知火さんだっけ? その人に会いに行っても?」
「うん! 勿論!」
光助が手を握ったまま歩き出す。
その手を不自然にならない様に、振り払う術は今のところない。
「とっても綺麗な方だったのだよ。さあ、さあ」
遊園地の中を無計画に走りだす子どもの様に、光助はとんたん、とんたん、と先を急ぐ。
ああ、だから彼女が不機嫌だったのか。
その理由だけはしっかりと分かった。
薄緑色のガラスで彩られたガスランプが青いガラスのランプに変わっていく。
辿り着いたのはたびたび見ることになっている、あの扉の前だった。
光助は躊躇せずにその扉を開ける。
慣れた仕草。
まるで、自分の家の様な気軽さがそこにあった。
扉を開けた光助に引っ張られるように中に入れば、目についたのは紅色だった。
さっきまではなかった、鮮やかな紅色。
「こんにちは」
波紋がない水面のような穏やかな笑みを浮かべて、その人が言う。
ああ、これは確かに綺麗だろう。
そう思わせるような人の姿に近い、人ならざる者の姿がそこにあった。




