EP07 クラーケンという幽霊
数分後、九段下の道場。
「責任者を出せ」
哲平が鷲尾の前に立つ。語気が荒い。
「親父、約束はどうなったんですか。現場に何も残さないって話だったでしょ」
鷲尾は文庫本を閉じた。
「現場には何も残してねえ。投稿したのは別の若いのだ。SNSは『現場』じゃない」
「同じことです。警察の偽装報告と矛盾するんですよ」
鷲尾は無言で立ち上がり、奥の部屋へ向かった。怒声が一度だけ響き、すぐに静かになった。戻ってきた鷲尾は、スマートフォンの画面を哲平に見せた。投稿は削除されている。
「教育が足りなかった。詫びる」
「もう何件かスクリーンショットが回ってます。消しただけじゃ終わりません」
「分かってる。本人には、しばらく身を隠させる。ネットの噓なんざ、明日には別の話題に流れていく」
鷲尾は哲平を見据えた。
「だが、てっぺい」
「何です」
「これで一つ、お前らに恩を売った形になったな。覚えとけ」
哲平は何も言わず、道場を出た。
警視庁、サイバー犯罪対策課のオフィス。桜井澪は、新城が提出した報告書を、自分のデスクで読み返していた。画面には、クラーケンの過去の犯行記録と、今回の手口を並べた比較表が表示されている。
「……時間帯が合わない」
彼女は呟き、社内チャットで新城を呼び出した。
「警視、一つ確認したいことがあります」
「何だ」
「クラーケンの過去の事案、すべて欧州時間に発生してます。今回だけ、日本時間の深夜です」
新城は表情を変えなかった。「タイムゾーンの偽装は、彼らの常套手段だ。報告書にも書いた」
「それは分かってます。ただ、もう一点」
桜井はタブレットを差し出した。
「内部の特権アクセスログ、念のため遡って確認したんですが……三カ月前、警視のIDで一度、開発系ネットワークへのアクセスがあります。保守作業の記録は残ってますが、その内容、ちょっと細かすぎませんか」
新城の心拍が、わずかに早くなった。それを表に出すことはなかった。
「保守は俺の管轄だ。細かいのは当然だろう」
「もちろんです。ただの確認です」
桜井は軽く頭を下げ、自分のデスクへ戻った。
新城はすぐに、宮内へメッセージを送った。
『桜井がアクセスログを掘ってる。三カ月前の保守ログまで見られてる』
返信は数秒で来た。
『そのログ、僕が今すぐ書き換えます。何分か時間をください』
新城は画面を見ながら、桜井の様子を窺った。彼女はまだ自分のデスクで、別の資料を読んでいる。数分後、宮内からメッセージが届いた。
『完了しました。三カ月前のログ、保守内容を一般的な定期メンテナンスの記録に上書きしました』
新城は静かに息を吐いた。
その夜、桜井は自分のメモに、こう書き残した。
『新城警視のIDでのアクセス記録、再確認時に内容が変わっていた。これは記録の改ざんか、自分の見間違いか』
彼女はそのメモを、誰にも見せなかった。
翌日、桜井は課長に相談した。
「新城警視の保守ログ、内容が一度書き換わっている可能性があります」
課長は眉をひそめた。
「証拠は」
「……ログ自体は、今は綺麗になってます。私の記憶と、メモしか残ってません」
「記憶とメモか」
課長はため息をついた。「桜井、お前はよくやってる。だが今、世間が一番気にしてるのは、クラーケンをどう叩くかだ。身内を疑う前に、外を見ろ。あと記憶とメモでは話にならん」
「……分かりました」
桜井はそれ以上、何も言わなかった。だが、自分のメモは消さなかった。
*
数日後。警視庁、応接用の小会議室。新城の対面に座った女性が、名刺を滑らせた。『ケイト・モリス/Atlantas社 APAC不正調査部門 シニア監査員』。シンガポール拠点。三十代後半、化粧の薄い顔に、隈が浮いている。徹夜で来日したことが分かる。
「来日が早いですね」新城が言った。「事件発生から、まだ四十八時間です」
「弊社の決済インフラが、国家規模で乗っ取られたんです。本社が損失額を心配する前に、私が飛びました」
ケイトはタブレットを開いた。同席していた警視庁の通訳が、彼女の英語を日本語に変換していく。
「過去、東南アジアの三つの金融機関の侵入事件を解決しています。今回も本社から直接、現地調査の指名を受けました」
「クラーケンについて、もう少し詳しく聞かせてください」
「東欧を拠点とする、国家レベルのハッカー集団です。過去にも複数の金融機関を――」
「報告書は読みました」ケイトが言葉を遮る。「ですが、いくつか腑に落ちない点があります」
「どうぞ」
「クラーケンの過去の手口は、すべて欧州の営業時間に合わせて実行されています。今回は日本時間の午前三時。彼らの行動パターンと一致しません」
「タイムゾーンの偽装は、彼らの常套手段です」
「もう一つ。侵入経路が、弊社の開発系ネットワークの、かなり内部に近い場所から始まっています。外部からの初期侵入の痕跡が、通常より圧倒的に薄い」
新城は表情を変えなかった。
「内部に協力者がいた可能性は、こちらでも検討しています」
「内部に?」ケイトが初めて視線を上げた。「具体的に、誰を」
「捜査中です」
ケイトはしばらく新城を見つめた。
「失礼ですが、警視さん。あなたの報告書、シンガポールの技術チームも精読しました。技術的には、よく書けています。……書けすぎている、とも言えます」
「それは、どういう意味でしょうか」
「分かりません。今のところは勘です。ただ、私は勘で三件、重大インシデントの原因究明に成功しています」
ケイトはタブレットを閉じた。
「弊社としては、独自の技術調査チームを、こちらに常駐させてほしいです。捜査協力という形で」
「はい? 警察の施設内に民間人を置ける訳ないでしょう」同席していた新城の部下が大声で言った。
「警視庁としては、民間企業の独自捜査に、無制限の権限を与えることはできません」新城は静かにそう返した。
「分かっています。だから、こうしてあなたに先にお伝えしているんです」
ケイトは席を立った。
「クラーケン説、私はまだ信じていません。ただ、信じていないことを証明するには時間がかかる。……あなたに、その時間を差し上げます」
新城は彼女が会議室を出ていくのを見送った。ドアが閉まると、小さく息を吐く。すぐにスマートフォンを取り出し、宮内へ短いメッセージを送った。
「アトランタス社の監査員が、こちらに来ている。クラーケン説に懐疑的だ」
返信は数秒で来た。
「どのくらい踏み込まれてます?」
「侵入経路の質まで気づいてる。優秀だ」
「……厄介ですね」
「厄介で済めばいいがな」
新城はスマートフォンをポケットに戻し、誰もいない会議室で、ケイトが残していった名刺を指先で弾いた。




