EP06 動けば負け、動かなくても負け
練馬区内のSNSグループには、似たような報告が次々に上がっていた。
『うちにも来た。米と毛布。誰だこれ』
『近所のばあちゃんも泣いてた』
『令和維新ってトレンドになってる』
哲平はスマホでその投稿の波を眺めながら、小さく笑った。
「……俺たちのやったこと、ちゃんと届いてるみたいですね」
宮内は画面を見ず、ただ短く答えた。
「届いてるのは金と米だ。意味は、後から勝手についてくる」
「銀行に入った金、法律的にはどうなるんですか」哲平が訊く。やっぱ返さなきゃいけないような気がするんですけど」
いつの間にか合流していた新城が、缶コーヒーを片手に話に加わった。
「二つ問題がある」宮内が答えた。「一つ目。犯罪収益移転防止法に基づくマネーロンダリング対策だ。普段使ってない口座に突然大金が入れば、銀行は自分の判断で取引を止められる。法律で凍結が義務付けられてるわけじゃないが、銀行の裁量一つで止まる」
「で、結局どうすればいいんだ」哲平が訊く。
「だから、速さだけが頼りだ」宮内は静かに言った。「金が残ってるうちに止められれば取られる。先に出金して使い切られれば、誰にも取り返せない」
「二つ目は」宮内が続けた。「不当利得だ」
「不当利得?」哲平が訊く。
「何にもしてないのに不当に得た金は元に返せってルールだ」宮内が言う。「特に生活費に使った分は、理屈上、今でも返還義務の対象になる。生活費じゃなくてギャンブルに使えば返さなくていいんだがな」
「は? なんですか、それ」哲平が顔をしかめた。
「真面目に使うほど、返す義務が残るってことだな」新城が呟く。
「理論上はそうです」宮内が言った。「だが、実際に誰が訴える?会長は死んでる。後継が混乱してる最中に、『同情を集めてる年金生活者を訴えた会社』になるリスクを背負う経営者がどこにいる」
「しかも全国にバラまかれてる」新城が付け加える。
「一件数万円か数十万円の話を、弁護士費用をかけて何千件も追いかける企業はない」宮内は言った。「理屈の上では負けても、実際には誰も追いかけてこない。それが唯一の救いだ」
首相官邸、記者会見室。官房長官の月岡が、硬い表情でマイクの前に立った。
「本日未明より発生している、複数の民間企業を標的とした一連のシステム障害について、政府として把握している状況をご説明いたします」
フラッシュが一斉に焚かれた。
「政府としては、関係省庁と連携し、原因の特定と被害の最小化に全力を挙げております」
「これは国家を狙ったテロ攻撃ですか」記者の一人が手を挙げる。
「現時点では、捜査機関が原因の特定を進めている段階です」
「システムを強制的に停止させれば、被害は広がらないのでは」
「それについては、現在、関係各所と協議を進めております」
月岡の額に、わずかに汗が浮いていた。
「物価高に苦しむ国民の一部が、今回の事象を歓迎する声も見られますが」
「……いかなる理由があっても、不正アクセスやシステムの不正操作は、断じて許されるものではありません」
その一言は、後ろの席からの失笑を誘った。
会見終了後、官邸の小部屋。
「停止できないんですか、本当に」
補佐官の声に、月岡は椅子に深く沈み込んだ。
「フレッシュ・リンガスとブービーを今止めたら、何が起きると思う」
「……配送が、止まります」
「もう数十万件、無料の食料が配送中だ。途中で止めれば、受け取れない世帯が出る。それがニュースになった瞬間、政府が貧困層への食料供給を止めた、という話に化ける」
「ですが、放置すれば」
「放置すれば、犯罪を野放しにしている政府、という話になる。どっちに転んでも、こっちが悪者だ」
月岡は天井を見上げた。
「……誰が考えたか知らんが、よくできた仕掛けだよ。動けば負け、動かなくても負け」
「ちなみに官房長官、SNSでは『令和の鼠小僧』がトレンド入りしてます」
補佐官がスマホの画面を差し出す。月岡はそれを一瞥し、すぐに目を逸らした。
「……見なくていい」
「与党の支持率にも、何か影響が出るかと」
「分かってる。分かってるから、見なくていいと言ってるんだ」
来栖修一が、ノックもせずに部屋へ入ってきた。
「官房長官、消費税減税の件、また蒸し返されてますよ。『あのとき決断してれば、こんなことにならなかったんじゃないか』と」
「今それを言うのか、お前は」
「世間はそう見てる、ということです」
月岡は何も答えず、ただ窓の外を見つめていた。永田町の空は、よく晴れていた。
午前十時。霞が関の警視庁本庁舎。サイバー犯罪対策課は未曾有のパニックに包まれ、テレビでは官房長官が右往左往しながら声明を発表している。決済と物流ネットワークを物理的に遮断すれば大衆への食料供給網がストップし暴動が起きるため、国家権力は完全に機能不全に陥っていた。
その喧騒の中心で、新城警視は自席に深く腰掛け、静かな手つきで第一報の捜査報告書を打ち込んでいた。
『東欧を拠点とするプロの国家級ハッカー集団「クラーケン」による犯行と断定』
「東欧の連中か……! 捜査権が届かん」
対策課長が頭を抱える。
新城の報告書一枚で、国家の視線は完全に海外へ逸らされた。
もっとも、新城の権限が揉み消せるのは、あくまでサイバー犯罪対策課が管轄する「電脳の罪」――システム侵害の領域だけだった。大河内厳とザッカリー・メイナードの死そのものは、刑事部捜査一課の管轄であり、新城の肩書きが及ぶ範囲ではない。
世田谷署に設置された捜査本部は、大河内邸の現場検証から、ある程度の見立てを立てていた。
「邸宅破り、それも複数犯にしちゃ、手際が良すぎる」
捜査一課の刑事の一人が、現場写真を見ながら呟いた。「二〇二〇年代後半の匿流系の空き巣グループの手口に近い。最近、解散した連中の中に、こういう仕事をする奴がいたはずだ」
その読みは、的を外してはいなかった。だが、何百人といる「元・匿流」の中から、哲平という一人の名前に辿り着くには、まだ何重もの壁があった。指紋は残っていない。現場周辺の防犯カメラの映像は、新城の手で最初から欠落している。捜査一課が追えるのは、輪郭のない影だけだった。
新城は、自分の報告書がカバーできる範囲を正確に理解していた。バールで折れた肋骨や、ワイヤーで絞められた頸動脈という「肉体の罪」までは、彼の権限では揉み消せない。残された道は一つ、二つの捜査――電脳と、肉体――が、最後まで交わらないことを祈ることだけだった。
練馬の会社員。日雇いの配達員。ビルの夜間警備員。そして警察の裏切り者。たった四人の男が東京の片隅で紡いだ謀略に、この国の中核で気づく者は一人もいなかった。
報告書を打ち込み終えた新城のタブレットに、SNS監視システムからの自動アラートが点灯した。皇道一新会系の個人アカウントが、大河内邸の事件発生時刻と完全に一致する投稿をしていた。
『大河内厳。国を売った経済界の重鎮に、ついに天誅が下った。我々はこの一矢に、深く共鳴する』
いいねの数は、すでに四桁を超えている。フォロワーの多い陰謀論系インフルエンサーが、すでに引用付きで拡散していた。
「……ふざけてるのか」
新城は奥歯を噛んだ。投稿主は皇道一新会の構成員、二十代の男。本人の顔と本名が紐づいた個人アカウントだった。クラーケンという虚偽のシナリオの隅に、現実の名前が一つ、生のまま転がっている。
新城はすぐに哲平へ電話を入れた。
「お前のところの新しい友達が、SNSに余計なことを書いてる。今すぐ消させろ。消したところで、もう手遅れかもしれんが」
「……すぐ確認します」




