EP04 電脳維新、勃発
午前三時半。新城は六本木からの帰り道、わずかな時間を使って光が丘に立ち寄った。
母は古い団地の一室で、テレビをつけたまま眠っていた。電気代を気にして、暖房は入れていない。新城は毛布をかけ直し、冷蔵庫を開けた。中には、賞味期限の近い惣菜が二つだけ並んでいる。
「……もうすぐだ」
誰に言うでもなく呟き、冷蔵庫を閉めた。部屋を出るとき、ポケットの中に、まだ微かに温かいワイヤーの感触が残っていることに気づいた。
同じ頃、ボイラー室。トクジは一人、紙コップに残ったバーボンを見つめていた。脳裏に、先週の夜のことが浮かんだ。施設部長の山倉と、近所の安い立ち飲み屋で飲んだ夜だった。
「トクジさんよ、俺、本気で高崎に帰ろうかと思ってるんだよ」
山倉はハイボールのグラスを揉みながら言った。
「部長が? 意外ですね。そういえば、故郷は群馬でしたよね。子供さん、まだ小さいでしょう」
「だからこそだよ」
山倉は苦笑した。「都内で家を買うなんて、もう諦めた。中央区も世田谷も、見るたびに値段が上がってる。中国の投資会社とか、外資のファンドが、まとめて買ってくるんだよ。俺らみたいな普通の会社員が買える値段じゃない。中古ですらムリだな」
「賃貸で十分じゃないですか」
「賃貸も上がってる。それに、子供を都内の学校に通わせる金もかかる。……うちの嫁の実家も高崎なんだ。あっちなら、同じ給料でも一軒家が建つ」
トクジさんは黙って頷いた。
「俺は別に、東京で成功したいわけじゃなかったんだよ。異常だよ。東京で生活して家族を養うっていうことは」
山倉は呟いた。「ただ、家族で普通に暮らしたかっただけだ。それが、こんなに難しいなんて思わなかった」
「分かりますよ」
トクジさんは紙コップを掲げた。「俺だって、息子に正社員になれって言ったのも、似たような理由ですから。俺も田舎帰ろうかな」
二人はそれ以上、何も言わずに杯を重ねた。
ボイラー室で、トクジさんは目を開けた。紙コップの中身は、もう空だった。
「……山倉さんも、似たようなもんか」
小さく呟き、トクジさんは立ち上がった。
*
午前四時。三つの巨大な狂騒が社会を揺るがし始めた。
第一の狂騒。
国内最大のネットスーパー『フレッシュ・リンガス』。大河内厳が会長を務める桜花生活流通が運営するEC事業部門の主要サービスだ。その基幹システムを、宮内のハックが直撃した。全商品が強制的に「四十%オフ」に改ざんされる。深夜のオンライン緊急役員会議。寝間着の上に背広だけ引っ掛けた役員たちの怒号が飛び交っていた。
「決済を止めろ! 数億円の損失が出るぞ!」
「規約上、一度なされた申込みに対する安易なキャンセルはリスクです」法務担当が割って入る。「ですが――」
その声を断ち切るように、モニターの画面が突然分割された。左半分に黒い背景の白字、右半分に、寝室で血を流して横たわる男の写真。
『全件強制キャンセルを実行した場合、役員全員の物理的生存を保証しない。大河内会長の二の舞になりたくなければ、決済を通せ』
会議室が凍りついた。誰かが小さく息を吞む音がした。
「……これは」
「ディープフェイクだ!」
声を上げたのは、株主向け広報を担当する常務だった。
「最近のAIなら、こんな画像はいくらでも作れる。ハッカーの戯れ言にだまされるな!」
「あの服、あの寝室……桜花生活流通の会長室に飾ってあった写真と同じ部屋着だ」
一人の専務が、震える声で言った。「俺は先月、会食でお邸にお邪魔した。あの壁紙だ」
「それがどうした。だから何だ」
「だから本物かもしれないと言ってるんだよ!」
専務が震える手でスマートフォンを取り出した。一一〇番への発信画面が、青白く顔を照らす。
「待て」
常務がその手を強く押さえた。
「もし本物だったとしても、今、警察を呼んでどうなる。会社の混乱に火に油を注ぐだけだ」
「これは脅しじゃない、殺人だぞ!」
「殺人だとしても、そっちは俺たちにできることは何もない。今は、目の前の決済をどうするかだけを考えろ」
専務の手から、スマートフォンが机に滑り落ちた。誰も拾わなかった。
沈黙を破ったのは、市場原理主義・株主至上主義に長年嫌気がさしていた、フレッシュ・リンガス社長の有馬貞治だった。
「……すでに決済は成立している。ここでキャンセルすれば社会的信用も失う。腹は私が切る。全件、指示通りに配送しろ」
その凄みのある声色に全取締役が黙った。
「警察には法務から通報しておけ」
*
第二の狂騒。
外資系ギグワークプラットフォーム『ブービー』。宮内は決済サーバーに侵入し、注文代金を「0円」に書き換えた。さらに店舗への代金と配達員への報酬を「米国本社のプール口座からの強制引き落とし」に再設定。日本法人はトップのメイナードと連絡が取れず、完全にフリーズした。
その絶望的な空白を突き、哲平が裏ネットワークで全国の配達員たちに号令をかけた。
『今日は配達員の奴隷解放記念日だ! 報酬は本社から満額出る。システムが復旧する前に、街中のメシを全部タダで困窮世帯に配り切れ!』
緑色の保温バッグを背負った無数の自転車とバイクが、義賊と化して夜明け前の街を駆けていく。
環八沿い、検問のパトカーが二台、道を塞いでいた。
「止まれ! 積み荷を確認させてもらう」
制服警官が自転車の群れに手を上げる。哲平が真っ先にブレーキをかけた。全ての自転車の荷台には保温バッグが積まれており、山脈の様相を呈している。
「これ、フードバンクの緊急配送です」
哲平はスマホの画面を見せた。偽造された配送指示書――宮内が三十分前に発行したものだ。
「フードバンク? こんな時間に?」
「物価高で炊き出しの依頼が殺到してて。練馬区社会福祉協議会から正式に委託されてます」
警官は怪しむように荷台を覗いた。コシヒカリの袋、黒毛和牛のパック。
「……これ、結構いいもの積んでますね」
「寄付です。今は変な噓のネットスーパーの件で、企業がイメージ回復のために大盤振る舞いしてるんですよ」
警官は一瞬、考え込んだ。背後で無線が鳴る。
『各局、シブンギブン関連の通報多数、人員をそちらに――』
「……行っていいぞ。早く配ってこい」
警官が自転車の群を手で示した。哲平たちは検問を抜け、夜明け前の道を駆けていく。
「親方、よくあんな噓、即興で言えますね」
仲間の若いライダーが笑う。
「噓じゃない。半分は本当だ。寄付なのは事実だしな」
哲平はペダルを踏み込んだ。




